林達夫が『新しき幕開き』を書いたのも、敗戦後の日本の転形期においてであった。林はこの文章のなかで、「occupied 抜きの Japan 論議ほど間の抜けた、ふざけたものはない」(同上書 p.182)と喝破(かっぱ)している。今にいたる日本(文化共同体)の退嬰(たいえい)の原点はここにあり――このことはまた、稿をあらためて書きたいが、今という時代も日本の、世界の、グローバル資本主義の、人間にとっての、転換期ではないだろうか。
春の“アベノマスク”そして今「go to キャンペーン」という、あっかんべー&すかすか内閣による無為無策は、意図的に行われているのではないか――彼らもバカな人間たちばかりではあるまい、知的に“優秀な”エリートがバックオフィスで冷徹に計算しているに違いない――と私は疑っていたが、経済アナリスト・森永卓郎(もりなが・たくろう)氏の毎日新聞に掲載された論考〈政府は清算主義に走ったのではないか〉(2020/09/17付け)を読んで、腑に落ちた(同紙より一部抜粋)。
焦る心を押さえて、というのも、アスリート達が病気や怪我で休養したのはいいが、復帰を急ぐあまり無理をしてかえって症状を悪化させてしまうことがよくあるそうなので――日一日、慎重にも用心をかさねて、step by step と歩をすすめてきた。二ヶ月たって、何とか正座ができるようになったが、その間、引き出しの奥にねむっていた空心さんの色紙をとりだして、「急がず」という言葉をかみしめていた。
出版社の宝島社が、朝日・読売・日本経済の三紙に出した、メッセージ広告だった。そのとおり、アッカンベーとスカスカの二人の首相は、私たちに何を護らせようとしてきたのか。感染症対策の基本とされる検査と隔離の不徹底、アベノマスクからgo to travel、医療体制の不備にワクチン接種の遅延・・・衆目(しゅうもく)の一致するところ、東京オリンピックにまつわる利権(カネカネカネの利益と自らの権力の保持、メンツ)の護持(ごじ)ではないか。「国民のいのちとくらし」という言葉が、鼻紙のように、かるく、かる〜く、風に千切れとんでゆく・・・。
「「プディングの味は食べてみなければわからない」という有名な言葉がありますが、プディングのなかに、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います。身分社会を打破し、概念実在論を唯名論に転回させ、あらゆるドグマを実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威にたいして、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックスは、まさに右のような「である」論理・「である」価値から「する」論理・「する」価値への相対的な重点の移動によって生まれたものです。もしハムレッ卜時代の人間にとって“to be or not to be”が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ“to
do or not to do”という問いがますます大きな関心事になってきたといえるでしょう。