ことば遊び



)「うらめしや〜」「ま」と「から」
)「まじめ」
)「タテ・ヨコ」「ナナメ」
)「おむすびコロ輪」
)「物曰
(い)うなら、声低く語れ!」
)「三つの心、□△〇」
)「右と左、“ドザイ 東西”」


(一)「うらめしや〜」

 稽古会で行っている稽古の一つに、「おばけアプローチレッスン」というものがある。これは、AB二人の人が4〜5メートルはなれて立ち、お互い目をつぶる。BがAに向かって両手をさしのべ、Aが――からだの勘覚で――近づいてゆくというものである。この時、Bは二通りのしかたで腕を出す。一つは手の甲を相手に向けて、もう一つは手の平を向けて、である。ではどちらが近づきやすいだろうか?

 一般的には、掌
(てのひら)を向けられた方が、距離が縮まる。ただまれに、邪気=「近づかないでえ」光線を(無意識で)発する人がいるので、そんな場合は「今晩のおかずはどうしようかな、とアレコレ考えてください」と指示を出すことにしている。

 私たちは、手の平で握手をし、手の甲で「しっ、しっ」と犬を追い払う。実は、会で稽古の拠り所にしている内観技法では、〈表〉と〈裏〉という根元的な二つのからだの勘覚があり、肉体的な象徴が、表=面手
(おもて)すなわち顔と手、裏=大地とふれる足の裏ととらえ、さらに手もこまかく見れば、甲が表、平が裏なのである。

 高校の文化祭の定番、お化け屋敷には幽霊がつきものだが、誰もがおもいうかべるあの姿(額に三角巾、身に白い経帷子
(きょうかたびら)をまとい、両手をゆらゆらと前に出して、「うらめしや〜」と迫ってくる)は、江戸時代の絵師・円山応挙(まるやま・おうきょ 1733-1795年)が初めて描いたそうだが、とげられなかった己(おのれ)の欲望や深い恨みをあらわすには、まさに手の甲を向けるしかないだろう。

 なぜなら、もの(者・物・霊)との関係性でいえば、〈裏〉は、つながる勘覚「わ」(漢字であらわせば、和・輪・環・我・倭)を生み、〈表〉はわかれる(和枯れる)勘覚「こ」(漢字であらわせば、個・孤・小・子・粉)を生むからである。掌を向けられて幽霊に抱きつかれては、たまったものではない。

 では、お決まりの殺し文句は、「裏飯屋」=裏においしい飯屋がありますよ、だろうか。まさか。裏盲
(めしい)+感嘆の「や」、つまり、あなたに裏切られてもう目がみえない。このままでは成仏(じょうぶつ)できない。この落とし前を、どうつけてくれるの――という悲痛な自我の叫びなのである。

 内観技法は、肉眼を閉じて心眼でからだの勘覚を視覚的にとらえようとする技法だが、〈表〉の勘覚は白、〈裏〉の勘覚は黒と位置づけている(クレヨンのような色彩感覚で理解されると困るが)。いわば、〈表〉は生、〈裏〉は死の象徴である(ただし、死とはいっても、生を産む母胎としての死=“おおいなる生”といったほうがよいかもしれない)。

 結婚式では、なぜ白いウエディングドレスを着るのか。葬式では、なぜ黒い喪服なのか。パトカーは、なぜ、上が白、下が黒く塗り分けられているのか。整体協会の創立者・野口晴哉
(のぐち・はるちか 1911-1976年)は、テレビで相撲観戦をしていて、どちらが勝つか、言い当てたそうな、「腹が黒い方が勝つ」。別に浅黒い肌をした力士のことではない。からだの勘覚としてのはらが黒、死に勝る生はあるまい。

 

 夏の朝、早起きをして虫取りに行く。ズック靴を朝露でぬらし、狭い山道を、近所の友達と前になり後になりながら、急
(せ)く気持ちをおさえて歩いてゆく。

 お目あては、くぬぎの木――樹液に、カブトムシやクワガタが、群れているのだ。いつか小走りになって木に駆けよる。「いたぞ!」見つけたもんの勝ちである。遊び仲間どうしでも、ここは競争だ。子ども時代の思い出・・・。

 そこは、裏山だった。いつから「里山」という――耳にはここちよい――言葉に代わってしまったのだろう。人家のすぐ裏手にひかえていた。子ども達の遊び場だった。でも夕暮れがせまり、あたりが薄暗くなってくると、逃げるようにして家に帰らなければ、こわかった。

 山姥
(やまんば)や神隠しの話を、親から聞かされていたわけでもなければ、そんな知識を持ち合わせていたわけでもない。でも、気配が、雰囲気が、教えていたのだ。さらに奥には、人間が踏み入ってはいけない禁忌・聖域が、ひかえていることを。

 社会科の地図帳には、日本海側は「裏日本」・太平洋側は「表日本」と表記されていた。裏は暗い、マイナスイメージ? 昭和三十年代からはじまる高度経済成長期、裏山はけずられて団地が造成され(スタジオジブリのアニメ『平成狸合戦
(へいせいたぬきがっせん)ぽんぽこ』で描かれた世界である)、海辺の浦は埋め立てられて工業地帯に様変わりした。

 人間と自然は一体である。私たちがからだの〈裏〉の勘覚を喪った時、自然からも“うら”が消滅していた。もう二度と元にもどることはない――子どもたちに海山のうらを伝えられなかったことに、私は立ちすくむ。

 

 物事には白黒がつけられるかもしれないが、私たちの人生は、そうもいくまい。詩人の宮沢賢治
(みやざわ・けんじ 1896-1933)は、詩集『春と修羅(しゅら)の「序」で、次のように語りかけている。

 宮沢賢治『春と修羅』序

 なぜ、青なのだろうか。漢字学者・白川静
(しらかわ・しずか 1910-2006年)の指摘が、ひとつのヒントになるだろう。

 
「(青は)古くは黒から白までの中間の暗をいい」『字訓』普及版p.55 平凡社)

 そして、万葉仮名では、「こころ」に情の字をあてていた例もある、と何かの本で読んだ記憶がある。そう、私たちの心は、白−あたま−人間的悟性の世界と、黒−はら−動物的本能の世界の間で、日々、この瞬間にもゆれうごいているのである。

 「地球は青かった」――宇宙船から地球を見た宇宙飛行士はこう発したが、私には(常識的には、海の青さであろうが)この地に生きる七十億の人間達が、せわしくせわしく生きながら発光させている、いとおしくもあわれな、生の光のように思える。


「ま」と「から」

 ある朝、いつものトイレ掃除に入ると、スリッパが横を向いている。あなたなら、この後どうしますか? (1)足先で、ちょこちょこっと向きを変える、(2)スリッパをはいて、向きを変える、(3)腰を落とし、手で向きを変える。

 白状すれば――普段の私なら(1)をしていたのを――その日ばかりは、何か“そぐわない気”がして、(3)で直していた。

 その時、「手間
(てま)をかける」というのは、こういうことか、と初めて腑に落ちた気がした。「かける」を漢字であらわすと、駈ける・掛ける・架けるetc.になる。A→Bへの空間的な移動、それにともなう時間の発生、そして事前事後の間の何らかの変容をさしているように思われる。空の間(ま)と時の間(ま)をもっとも用いるのは、(3)の動作だろう。

 もちろん私とて、この用語の意味は知っていたが、「丁寧に」という言葉の置き換え、単なる比喩としての知識だった。大仰
(おおぎょう)に聞こえるかもしれないが、初めてからだの勘覚として、言葉が身に染みたのだ。

 会の活動を続けてきて、このところ間
(ま)という言葉が大切ではないか、と思うようになってきた。何より、人間であり、人が生きる時間・空間であり、日本という文化共同“体”での世間(せけん)であり、そして手間である。

   間(ま) 

 整体では、もの(者・物・霊)にふれる(「さわる」ではない)手のことを、愉気
(ゆき)と称している。究極には、“いのちにふれる手”である。普段私たちは、ものから情報を得て識別するために、頭で手を操作している。それでは、いのちにふれられない。稽古会での稽古は、ひとことでいって、ふれるための技(わざ)と理(ことわり)の追究である。

 では、どのようにすれば手で間を創れるのか?スポーツや武術・技芸では、「ひじをはれ」「ひざをぬけ」とよく言われる。これが肉体的な意味での――目に見えてわかりやすいという点では、〈表〉的な――間のとりかただろう。つまり、肩胛骨の中央と肘、手首をむすぶ三角形と、股関節、膝、足首をむすぶ三角形である。では、その〈裏〉付けは?

 内観技法では、物質的な肉体を名
(めい)、からだの勘覚を実(じつ)ととらえている。「名実ともに」という時の表現である。あくまでも勘覚が主であり、肉体は従であるとしている。では、からだの勘覚としての間とは?

 語呂合わせに聞こえるかもしれないが、からだは、から(空・殻・腔)+強調・断定の「だ」ではないだろうか。こういったからといって荒唐無稽な話ではなく、医学的には、頭蓋腔
(ずがいこう)・胸腔(きょうこう)・腹腔(ふくこう)という三つの空間が存在する(だんご三兄弟!)。

 内観技法では、それぞれ「意識」の間/「心情」の間/「気力」の間ととらえ――イメージとしては、PCのos・windowsならぬ四角形の窓(平面)/ピラミッドの形をした三角錐の鏡(立体)/欠くところなき光の玉(球)――この三つの間
(あいだ)を調えることを旨としている。頭は〈表〉(例 「面白い」)、腹は〈裏〉(例 「腹黒い」)の勘覚の源ともいえるので、二つを映す胸の鏡・心鏡(しんきょう>心境)で、日々どのようにして表裏のバランスを保つか、の鍛錬になる。

 具体的にいえば――内観に慣れていない人には分かりづらいと思うが――手でふれながら、胸においた心眼で、からだの勘覚の焦点=気力の“煮こごり”(<二凝り・凍り)と、はらの中央の原点をむすんで三角形をつくり、「かどがとれて、まるくはらにおさまる」まで待つ。

 ただ、間は真(ま)に転換しうるが、魔にも陥りやすいという事は、重々
(じゅうじゅう)こころしておかないといけない。

 

 「
和を以(もつ)て貴(とうと)しと為し・・・」(聖徳太子『憲法十七條』)とされた日本という文化共同“体”は、150年まえの明治維新と1945年の敗戦によって、おおきくそこなわれた。では、私たちは、〈裏〉から〈表〉へ、和から個にのりかえて、大和人(やまとびと)よりも一個人として自立しえたのだろうか。いや、昨今の政治状況・社会情勢をみれば、そんなことは言えまい。文化・歴史を担う主体としての自覚を欠き、かといって客体の勘覚を喪失して、根こぎにされたからだやことばが、この時空(じくう)を浮遊している。

 ただ、大言壮語癖のある私は、伝教大師・最澄
(さいちょう 766-822)が若き僧侶に向けて記したとされる文言を、自らの戒めにしたい。
 

 「一隅
(いちぐう)を守り、千里を照らす」

 この言葉で思いおこすのは、近くのお好み焼きやのおばちゃんだ。北野天満宮のバス停の前で、「おもひで焼き」ののぼりをかかげて、四十年近く商売をしてきた。わずか三畳ほどの店、1個100円から特大でも480円。

 実は去年の正月に、イギリスに留学した娘を訪ねて家族で旅行したことがあった。そのストレスからか、高校生の息子がアトピーが悪化し、いつもおいしく食べているおもひで焼きで元気になりたいと、私が代わりに買いに行った。

 ひとしきり世間話にはながさいた後、「ここらあたりでおばちゃんのが一番おいしいと子どもが言ってるよ」と言うと、おばちゃんは喜んでくれたがすぐに真顔になって言った。
 
「わたしは外国に行ったことがない。ここで日本を守っている」

 別に右翼でもなんでもない。普段、そんなことを話すような人ではない。朝は、店のまえを門
(かど)掃きし、「欲ばらんと」数百円の粉もんを売って子どもを育ててきた。

 私ははずかしかった。おまえは幸運にも何ヵ国か外国旅行ができたが、その体験を社会に還元しているのか?
 「和を以て貴しと為す」&「個として立たむと欲す」
(2018/03/20 記)

(二)「まじめ」

 去る3月28日の朝日新聞朝刊に、前日の国会で行われた証人喚問についてのジャーナリスト・青木理
(あおき・おさむ)氏の感想が載っていた。

 
「見ていた限り、佐川氏は一度もいすの背もたれに寄りかからず、いかにも真面目な官僚然としていた。ただ、発される言葉は国民や社会全体ではなく、政権と保身ばかり考えたものではないか」

 私は青木氏のコメントに Yes! を投じるが――決してあげあしとりではなく――「真面目」という言葉に違和感を感じた。この当て字は、“真(ま=真理、真実)に面する顔、真からそむけない目”という意味で用いられてきたのではないか。私もテレビで観ていたが、彼の態度(からだ)は不真面目そのものだった。

 確かに現代では、「真面目な良い生徒」とか「仕事ぶりは真面目だった」というように、目そのものではなく、ある様態を表現する場合に用いられることがほとんどだろう。では、真面目とはどのような目を持つことなのだろうか?

 内観技法では、三つの目を措定している(よく見ると、「真面目」という文字には、目が三つ含まれているではないか!)。

 まず、頭の上心
(じょうしん)にある肉眼。これは、ものを識別し、ものから情報を得るという、動物の目プラス、常識や科学の目である。からだの勘覚では、基本的に〈表〉になる。

 次に、胸の中心
(ちゅうしん)にある心眼。この目は、自己の内をみつめる内省の目であり、外に向けてはもの(者・物・霊)の――表面・物質ではなく、深層・本質という意味での――“こころ”を感じる目である。心眼は、上心の〈表〉・下心の〈裏〉のどちらも映す“合わせ鏡”になっている。

 稽古会では、この心眼を鍛えることをメインにすえ、原則として目を閉じて稽古している。まぶたを開けていては、心眼が上に(脳へ)引きずられて本来の働きを失い、肉眼とかわらなくなってしまうからである。

 それでは、第三の目とは――漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に登場を願おう?!

 ゲゲゲの鬼太郎
 鬼太郎には、目が一つしかない。右目である。左には鬼太郎の父親・“目玉おやじ”がひそんでいて、鬼太郎のメンター(師)としての役をはたしている。妖怪の鬼太郎が、なぜ“こちらとあちらの世界”を往き来できるのか?それは、鬼太郎が――左目を失って――右目しか持っていないから、というのが私の仮説である。

 現界
(げんかい)を生、幽界(ゆうかい)を死(=生の母胎でもあるおおいなる世界)ととらえてみると、それぞれの象徴が太陽と月ではないだろうか。『古事記』に曰く、

 
「ここに(伊邪那伎命(いざなきのみこと))左の御目(みめ)を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀命(つくよみのみこと)。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)(倉野憲司校注『古事記』岩波文庫 p.30)

 内観技法では、からだの勘覚として、左目−右半身は〈表出〉を、右目−左半身は〈受容〉をあらわすととらえている。二つの勘覚世界は、首の一点で×(交差)している。ゲゲゲの鬼太郎は、左目をまさに表に出し、右目でこの世とあの世の二世を生きている(受容している)といえないだろうか。

 『ゲゲゲ〜』の作者・水木しげる
(みずき・しげる 1922-2015年)が戦争体験を記した『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』 (河出文庫) を読むと、彼が壮絶な戦場体験を生き延びたことがうかがえる(左腕は失ってしまったが)。ニューギニアの戦地で文字どおり九死に一生をえたのは、水木のたぐいまれな生命力のたまものであったと言っても過言ではないだろう。妖怪=物の怪(け)の世界を漫画に描くことができたのは、彼の想像力&創造力が豊かであっただけでなく、この“からだ”が下地にあったと思われる。

 私は鬼太郎の右目を、離眼
(りがん)と名づけたい。この目は、人にあっては心眼よりさらに下へ、内へ、奥へはいった、はらの下心(かしん)中央に位置する気力の目である。その働きとは、自己そのものを相対化し、“世界は、肉眼で見ている(現に在ると思っている、実在を疑わない、科学という一つの近代のものさしで実測可能な)コレだけではない”ことを知らしめる。

 能の大成者・世阿弥
(ぜあみ 1363?-1443?年)『花鏡(かきょう)で説いた「離見(りけん)の見」とは、この離眼ではないだろうか。
 
 【離見の見】
資料
(pdfファイル B5)

 稽古会では心眼を鍛える稽古しかできていないが、これから試行錯誤しながら、離眼を探求したいと思っている。今はまだ、はらの中央(下心)と右目、視覚の対象(例えば、世阿弥のいう「見所」)の三点をむすんで三角形の間
(ま)を創り――右目は開いて左目は閉じたまま――もの(者・物・霊)をはらにおさめることによって自己(自分の姿そのもの)を客体視できるのではないか、というおぼろげな推測の段階である。

 

 何年か前、私は夢の中でイエス・キリストに会ったことがある。前後関係は覚えていないが、湖の岸辺でイエスが小舟に乗ろうとしている。弟子(?)が二人、船を出そうとしている。私がその場に立っている。イエスと目があった時――「この男には自我がない!」と私は驚愕
(きょうがく)してしまった。

 その目は――摩周湖のように――深く、湖面に写った顔の影のように、私の姿だけがうつっていたのだ。「わたしについてきなさい」、そう言われたら、私は何もかも捨てて――手に持っているものも、家族も何もかも――この人についていくだろう、と直感していた。

 クリスチャンからは、「何をバカな!イエスは神の子だ」としかられそうだが、私は「人間は、ここまで達しうるのだ」と夢からさめた後、感慨にふけった。客観的に考えれば、キリストを描いた聖画の記憶と、その日の何らかの心的インパクトが合作した産物に過ぎないかもしれない。

 でも私にとっては、目がすべてをものがたっていることを――いわば身体知として――了解
(りょうげ)した体験だった。肉眼→心眼→離眼というのは、人間の成熟を表す三段階ではないだろうか。人はパンのみにて生くるにあらず。そして、死者とともに在る。

 まじめに生きようと思う。   
2018/04/16 記)
 
 附記
:最近、マスメディアによく登場する政治家や芸能人に、左右の目の大きさが違う人が多いような気がする。からだの勘覚でいえば、〈受容〉と〈表出〉のアンバランスが原因であろうが、どちらの目を開いて(あるいは閉じて)“世界”を見ようとしているのか、くらべてみるのも面白いかもしれない。

 ゲゲゲの鬼太郎は、生まれつき左目を失っていたが、戦国武将の伊達政宗
(だて・まさむね)は、幼い頃に病気によって右目を失明したそうである。彼は〈表出〉の人となり、「独眼竜」(どくがんりゅう)と呼ばれた。

 また、目の左右ではないが、劇作家&演出家&役者の野田秀樹
(のだ・ひでき )氏は、舞台で集注すると、寄り目になるという興味深い体験をつづっている。
 
【役者の寄り目】
資料
(pdfファイル B5)

 
最後に、では、目の見えない人はどうなのか、という疑問が当然おこってくるだろう。私には正直わからないと言うしかない。他の知覚(特に聴覚)と心眼で補っているのでは、と推測するばかりだ。さらに、耳も聞こえない盲聾者
(もうろうしゃ)のケースは?

 思春期に、視覚と聴覚をすべて失った福島智(ふくしま・さとし)東京大学教授は、著書
ぼくの命は言葉とともにある(致知出版社)の中で、次のように述べている。(同上書 pp.16-17)

 
「『光』と『音』を失った高校生のころ、私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、狭くて暗く静かな『世界』。
 ここはどこだろう。
(中略)私は限定のない暗黒の中で呻吟(しんぎん)していた。

 
美しい言葉に出会ったことがある。全盲ろうの状態になって失意のうちに学友たちのもとに戻ったとき、一人の友人が私の手のひらに指先で書いてくれた。
 『しさくは きみの ために ある』
 私が直面した過酷な運命を目
(ま)の当たりにして、私に残されたもの、そして新たな意味を帯びて立ち現れたもの、すなわち『言葉と思索』の世界を、彼はさりげなく示してくれたのだった」

 PS:目に関して、『古事記』に次のような一節があることを知った。

「また食物
(をしもの)を大気都比売神(おおげつひめのかみ)に乞ひき。ここに大気都比売、鼻・口また尻より種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出(いだ)して、種々作り具(そな)へて、進(たてまつ)る時、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)その態(わざ)を立ち伺(うかが)ひて、穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るとおもひて、すなはちその大気都比売神を殺しき。かれ、殺さえし神の身に生(な)りし物は、頭(かしら)に蚕(こ)生り、二つの目に稲種(いなだね)生り、二つの耳に粟(あは)生り、鼻に小豆(あづき)生り、陰(ほと)に麦生り、尻に大豆(まめ)生りき。かれ、ここに神産巣日(かむむすひ)の御祖命(みおやのみこと)、これを取らしめて種(たね)と成したまひき」(『古事記』(上)講談社学術文庫 p.95)

 豆屋としては、二つも豆が紹介されているのはうれしいが、〈表〉のなかの〈表〉である頭に、唯一、昆虫である蚕
(かいこ)が載っているのは、衣=着ることの――人間にとっての――重要さを示していないだろうか。


(三)「タテ・ヨコ」

 三十代なかばの時、一年ほど熊野の山間
(やまあい)で“仙人暮らし”をしていた。廃校になった小学校に一人住み、米や野菜をつくり、小説を書いていた。そんな折り、ある人から紹介されて、ヨガの“行者”に会いに行ったことがある。

 彼は若き頃はクラシックの演奏家で、一方、酒浸りの生活を送っていたそうだが、ヨガに出会ってからは音楽とアルコールとは縁を切り、修行一筋の道を歩んできたという。私の住処
(すみか)からさらに奥にはいった処にある彼の家からは、重畳(ちょうじょう)たる熊野の山並みが見え、壁際の本棚は、ヨガの原典らしき本や解説書で埋めつくされていた。

 書斎に端座
(たんざ)した彼は、しずかにヨガ三昧(ざんまい)のよろこびを語った・・・・今は、請(こ)われて大阪までヨガを教えに行き、生活の糧を得ているという。インドから高名な指導者が来たときは、通訳などもしている。音楽家時代に結婚した奥さんと二人暮らしなのだが、「来世はもう結婚などしない。今生(こんじょう)は、妻には申し訳ないと思っている」とほほえんだ。

 実をいうと――帰りのバス便がなかったので――一晩泊めてもらおうと(内心)期待していたのだが、そんな話にはつゆならず、夕刻に近づいたとき、「妻に送らせましょう」という一言で会見はジ・エンドになった。

 窓外に鳥の鳴き声しか聞こえない静まりかえった家の中で、その時、初めて奥さんが姿を見せ、私は彼女の運転する車で路線バスのある国道まで――短い雑談をかわしながら――一送ってもらったのだった。礼をいって車を降りた後、私はいたたまれない気持ちにしずんでいた。それは、彼女の表情やかもしだす雰囲気が、かぎりなく悲しみにみちていたからだ。

 道を得た(と称する)人間の最も近くにいる人が幸せに感じられないのは、ナゼか・・・・。それは長い間、私にとっての疑問だった。

 

 今なら、私はこう言える。

 ヨガは、輪廻転生
(りんねてんしょう)からの解脱(げだつ)を求める技(わざ)と理(ことわり)だからだ、と(カルチャーセンターやスポーツジムのヨガ教室は、そこまで求めていないだろうが)。この世で、他者とどのように関係を持って生きていくかは、本質的に問うことをしないのだ。スイカを皮から一心不乱に食べていたり、からだ中に釘をさして苦行に励む、インドの行者を映した写真集やテレビを思い出す。

 一度、ハタ・ヨーガの指導者・成瀬雅春
(なるせ・まさはる)氏の倍音声明(ばいおんしょうみょう)のワークショップ(WS)に参加したことがある。倍音声明とは、チベット密教の瞑想法の一つで、第1チャクラから第7チャクラへ下から上に向けて「タテ」に、それぞれ対応する母音「m・う・お・あ・え・い・n」を順に発声し、チャクラを開いていく技法である。WSでは、皆で輪になってチャント(唱和)を繰り返していた。

 内観技法では、下から上へ・内から外へという気のベクトルは、からだの勘覚〈表〉にあたる。それに対して、上から下へ・外から内へという気のベクトルはからだの勘覚〈裏〉と位置づけ、日本文化の身体運用では――整体のみならず、武術や伝統芸能など――こちらに重きを置いていると捉えている。

 からだの勘覚と母音との関係でいえば、内観技法では、はら
に5つの調律点があると措定(そてい)し、それぞれ母音の「あ・い・う・え・お」に対応するとしている。【下図 参照】
 はらと母音
 試みに、「う・お・あ」と発音してみると、倍音声明と同じく下から上へ気は「タテ」に昇華するが、「え・い」では一転して左から右へ「ヨコ」に向かう。“気合いを入れる”時の「えい!」である。また、「あ・い・う・え・お」と五十音順に発声すると、反時計回りの渦ができる。これは北半球で水がつくる渦巻きと同じ向きだそうな。

 この「タテ」の勘覚は、内観技法では“こし”から生まれたと捉えている。ヒトが四つ足動物から二本足で「立った」=ある線を「越した」、すなわち手が自由になり、脳が発達して、今日の――重力を脱して月まで届かんとする――文化・文明を築いた原動力である。一方、「ヨコ」とは、生きとし生けるものすべての母胎である大地=野原によこたわる勘覚、文字どおり“はら”である。生(ナマ)の、動物的な、生命力にほかならない。

 こしは父性的で、はらは母性的とも言えよう。どちらも人間にとって欠くべからざる身体感覚であるが、あえていえば、ヨガ(を産んだインド文化)に限らず西欧文化は、一般論としてこしを主・はらを従とするのに対して、日本文化は(近代以前の江戸時代までは)はらが主だったのではないだろうか。神は――天上の唯一神・絶対神ではなく――八百万
(やおよろず)・山川草木(さんせんそうもく)にいまします。生者は死者=命(みこと)と共にこの地にある、解脱ではなく生命(命を生きる)を求める文化である。

 評論家の加藤周一
(かとう・しゅういち 1919-2008年)は、『日本文化における時間と空間』(岩波書店)の中で、時間的に「いま」・空間的に「ここ」に生きる日本人の共同性を日本文化の本質として指摘し、文学や絵画、建築などで具体的に検証している。

 まず、文学における時間の表現:

 
「閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声
 そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、『今=ここ』に、全世界が集約される。
 芭蕉はそこまで行った。俳人の誰もがそこまで行ったのではない。しかし誰もが『今=ここ』の印象に注意し、その時までのいきさつからは離れ、その後の成り行きも気にかけず、現在において自己完結的な印象の意味を、見定めようとしたのである。俳句は日本語の抒情詩の形式が歴史的に発展した最後の帰結である。今ではおそらく数十万の人々が俳句でその『心』を表現しようとしている。さればこそ数百万の発行部数をもつ大新聞にも読者の俳句の欄がある。そのことの背景は、おそらく彼らが、少なくともその心情の一面において、現在の瞬間に生きているということであろう。」
(同上書 p.78)

 続いて、建築における空間の表現:

 
「日本では宗教的建築でさえも、平屋または二階建てで、地表に沿って広がり、天へ向って伸びてゆくことはない。神社には塔がない。(中略)例外は仏教寺院の五重塔である。しかし第一に、仏教は外来宗教であり、五重塔は外来宗教の造形的表現の一つである仏塔の『日本化』である。第二に、中国には大雁塔のように高い仏塔もあるが、日本では層を五重または三重に限り、幅の広い廂(ひさし)をほとんど水平に四方に出して、垂直の線を隠した。日本化とは塔の非塔化である。多数作られた五重塔は、日本建築にも高さへの志向があったということを証言するのではなく、日本では宗教建築においてさえも天を指して上昇する傾向はなかった、あるいはきわめて弱かったということ、建築的空間を水平面に沿って構成する傾向こそがきわめて強かった、ということを証言するのである。」(同上書 pp.167-168)

 それは何故なのか。列島、モンスーン気候、稲作、「単一」民族、帝国の周縁・・・さまざまな言葉がうかぶ。近代主義者の加藤周一は、農村共同体の「ムラ」意識に(個人の自由を抑圧するものとして否定的に)起源を求めている。そして、このような土壌から産まれた、歴史に対する責任&未来への洞察の欠如と、閉鎖的で多様性を認めない――武術でいうところの「居着いた」――大勢順応主義(コンフォルミズム)を断罪している。

 いにしえの――と言っても百五十年前まで――“はら>こしの文化”に生きていた武士は、切腹して身の証(あかし)を立てた。そこには確かに(西洋人の目から見てグロテスクと言われようとも)、身体性があった。ひるがえって、現代の日本はどうであろうか。「原子力ムラ」の存在や「今だけ・オレだけ・金だけ」という言葉に象徴されるように、加藤が指弾した“日本的なあまりに日本的な”事例にみちみちている。

 ただ――江戸時代と決定的に違うのは――共同体という身体性が欠落しているのだ。他者に共感する(まして共苦する)客体ではない。悪しき“本根(ほんね)”がむきだしなっている。かといって、西欧的な“立て前”(思想・信条といってもよい)で生きる主体でもない。他者との関係性の中で生きる喜びを喪
(うしな)ったデラシネ(根無し草)たちが、我利我利亡者(ガリガリもうじゃ)となって貨幣を、国家を、観念を、むさぼっている。

 

 先日、ビフィズス菌のサプリメントを、初めて買った。メディアで最近よく目にする、「初回限定、一週間分、何と500円」というアレである。実は飲んでお腹の具合をよくしようと思ったわけではなく、豆乳ヨーグルトを手作りでつくっているが、そこに(ヨーグルトは乳酸発酵。乳酸菌は小腸で活躍する)大腸で働いてくれるビフィズス菌を種菌として仕込んだら、ダブル菌効果!が期待できるのでは、ともくろんだのだ。

 効果のほどはさておき、一緒に送られてきたパンフに、こんな一節があった。「腸は食べ物の消化や吸収にとどまらず、ホルモン系・神経系・免疫系をそなえており、特に脳から独立した神経系は『第二の脳』と呼ばれている」

 私はそれを読んで――言葉尻をとらえるつもりはないが――??に思った。第一と第二は、逆ではないか、と。つまり、人間の個体発生(受精卵が細胞分裂を始めて、まず)においても、生命の系統発生(単細胞生物から人類にいたる進化の歴史)においても、最初に腸がつくられ、脳は後からできたのであるから。人体は、ミミズ(腸+一本の神経で生きている、脳なし)が、基
(もとい)なのだ。

 この第一の腸脳(生命的な活動をになう)を、日本文化では「はら」と呼んできたのではないか。それに対して、第二の頭脳(人間的な活動をになう)は――時に揶揄
(やゆ)の対象として――「当た間(ま)」「尾詰(おつ)む」などと言い表されてきたのではないだろうか。

 私が子どものころ、「頭のいい人」「大学を出た学者さん」というのは、しばしば「世の中のことを何も分かってない、世間知らずの人間」という軽侮
(けいぶ)のニュアンスをこめて、庶民は使っていたように思う。

 では、こしは? 二つの脳をつなぐ、パイプである。稽古会では、これを心髄・真髄・神髄
(しんずい)と名づけている。息や気、それに心眼の通り道である。現代人である我々は、近代以前の――たこ焼きに上から爪楊枝(つまようじ)を刺しても倒れない――「はらがすわった」“腸脳>頭脳スタイル”に戻るのは、不可能だろう。また、人権など無いに等しかった身分制社会を良しとすることもできない。

 ただ――下から爪楊枝を刺すとたこ焼きはあっけなく倒れてしまう――「頭でっかち」な“唯脳・電脳生活”を脱して、タテ・ヨコ、〈表〉・〈裏〉のバランスが調った社会に世直しする道は、まだ残されているのではないか。すなわち、生命的であって人間的な、和でありつつ個として生きられる、〈分かち合う文化〉の創造である。殺戮
(さつりく)の二十世紀から、共生の二十一世紀へ。

 長崎 平和祈念像 
 
    長崎・平和祈念像

「ナナメ」

 我が家の近くに、法輪寺
(ほうりんじ)という臨済宗の寺院がある。別名「達磨寺(だるまでら)」、中国禅宗の開祖とされる達磨(ボーディダルマ)をまつり、毎年、節分にはだるまさんを求めて多くの参拝客でにぎわう。私も数年前、ひとつを買った。息子の高校受験のげんをかついだのだが、息子は第一志望の学校に落ちてしまった。次の大学受験では、目を入れられるよう、親バカで願っている。

  だるまさん

「達磨大師はなぜ手足を失ってしまったか?」
 伝説では、壁に向かって九(苦)年の間、坐禅を続けたため、両手足が腐ってしまったという。それでは死んでしまうではないか、とチャチャを入れたくなるが、私は“からだの勘覚”として、四肢がなくなったように感じられた――本人にも、周囲の人間にも――と推測している。

 というのも、稽古会で行っている「だるまさんレッスン」では、同じような(決して「同じ」とは言わない)勘覚がおとずれることがあるからだ。

 レッスンは、次のように行う。

 結跏趺坐
(けっかふざ)または半跏趺坐(はんかふざ)で足を組む(結跏の場合:左足を右太股の上に→右足を左太股の上に置く。半跏の場合:右足を左太股の上に置く)。右足の踵(かかと)が左の股関節(こかんせつ)に、左足の踵が右の股関節につながるものとする(実際には離れているが)。上体は、左右の掌(てのひら)の中央=鎮心(ちんしん)を同側の股関節にあてる(実際には触れられないので、下腹の左右にあてておく)。

 このようにすると、下半身には右股関節→右膝→右踵・左股関節→左膝→左踵・右股関節という
形のヨコの“気の筋道”が、上半身には右股関節→左の肩胛骨(けんこうこつ)中央→左肘→左手・左股関節→右の肩胛骨中央→右肘→右手・右股関節という同じくタテの“気の筋道”が生まれる。この時ポイントになるのが、肉体的には存在しないが背中(からだの勘覚としては〈裏〉)で交差している“気の筋交(すじか)い”である。

 このX形の“気の筋道”は、普段意識することは難しいが、例えば――

(1)明治以前の日本人の歩行スタイルといわれている「なんば歩き」の原理であり(例えば左足に重心がある時は、左股関節から右肩胛骨中央をへて右腕に気力が伝わり、結果として右足と右手が同時に前に出る)
(2)着物の袂
(たもと)を始末する際に「たすきがけ」をすると、背中側にこのX形があらわれ、小手先(こてさき)ではないこしとつながった手の遣(つか)いになる
(3)「貝の口」で帯を結ぶと、ヨコに締め→タテに締め→両ナナメに小さく締めてまとめる(江戸時代の末からひろまった「お太鼓結び」では、最後の締めを欠くために、補整具が必要になる)

 などにうかがえる。

 以上の型を決めた後は、目を閉じて、内観技法の基本(呼吸・心眼・気力)で心身を調える。坐禅ではなかなか無念無想の境地に入れない(と思う)が、息を吐きながら左右の股関節で二つのがつながるように“気の筋道”を追っていると、いつしかタテのがヨコのに重なって一つになり、さらに左右の輪が中央に寄ってきて一つの小さなになる。

 この間
(かん)、手は自ずと下腹をはなれて、むねの前で両手を合わせて合掌(がっしょう)するか、腹の前で右手を下、左手を上に置いて坐禅の時の印(いん)を組むかたちをとってゆく。

 最終的にははらの中央の一点(下心)におさまるのだが、その時には手足の存在感が希薄になり(だるまさんというよりもお地蔵さんになったような気分)、「今=ここ」の勘覚――あえていえば、絶対的な時間と空間の間
(ま)――にみたされ、充足感をあじわうのである。

 それはあくまで主観に過ぎないのでは、と問われれば、「そのとおり」としか答えようがない。しかし私には、このような感覚体験――と、後で反芻(はんすう)した際に得られる“身体知”――は、前掲書で加藤周一が下したような否定的なものには思えないのだ。

 なぜなら、「今=ここ」から自分が生きてゆく活力(元気)が生まれてくるのであり、さらにいのちは他のもの(者・物・霊)とつながっているという、かけがえのない身体観=人間観=社会観=世界観を与えられるのだから・・・。

 

 今回、
『日本文化における時間と空間』を読み直してみて、私はひとつのことに気づいた。それは、タテ=垂直(勘覚)とヨコ=水平(勘覚)についてはさまざまな文物で詳しく分析されているが、ナナメに関しては何も言及がないのである。

 たしかに、“ものをものたらしめる”礎
(いしずえ)は、タテ・ヨコのラインかもしれない。私は染織家の志村ふくみさんが始めた「アルスシムラ」(市民の織物教室)に半年ほど通って帯地を織ったことがあるが、高機(たかばた)では経糸(たていと)を整えてから緯糸(よこいと)を一本ずつ通してゆく。言わずもがな、斜め糸はない(この「経」「緯」という漢字が、東西・南北を表す「経度・緯度」でも用いられているのは興味深い)。

【考察】[タテ糸とヨコ糸の織りなすもの

 建築をとりあげてみても、タテの柱とヨコの梁
(はり)が垂直&水平に交わらないと(=斜めにかしいでしまっては)、建物は立たないだろう。また、「ご機嫌(きげん)斜め」とか「斜(しゃ)に構える」という用語からは、否定的なニュアンスしか伝わってこない。

 しかし、このナナメが交差したXは――先に挙げたたすきがけや貝の口、さらにはテストの答案用紙のX点(いつから、誰が使い始めたのだろう? バツは「罰」を与えるため?)にみられるように――タテの〈表〉+ヨコの〈裏〉だけではもたらされない力を秘めているように感じられる。

 世界最古の木造建築・法隆寺には、補強材としての筋交いが使われていない。寺社建築だけではない。私が暮らす京都の町家(築百二十年ほどの下町の二軒長屋)にも、筋交いはない。それでも、地震の被害を免
(まぬが)れてきた。家の基礎を現代建築のようにコンクリートで固めずに、柱はただ石の上にのっているだけという柔構造も、寄与しているのだろう。

 工人たちは、筋交いの効用を知らなかったのだろうか。いや、木がどの方角を向いて生えていたかまで頭に入れて材として生かすという宮大工の話を読むと、知らなかったとは思えない。知ってて用いなかったのは――あえて〈表〉にしないで〈裏〉にとどめたのは――脈々と受け継がれてきた伝統の智恵か、それとも美的センスのなせる技
(わざ)か?

 1950(昭和25)年、『建築基準法』が制定されて、建造物に筋交いの使用が義務化された。私はそこに、ひとつの伝統の断絶(形骸化)を見る。
2018/05/08 記)

 PS:私の住んでいる地域は、京都の下町であるが、一応南北の碁盤の目が整っている。先日、稽古会の会場のお寺に向かって急いでいた時に気づいたことがある。ある小路を曲がった際に、自分の呼吸が変わったように感じたのだ。もう少し具体的に言うと、はらの回転(内観技法では、表:外回転、裏:内回転)が、逆方向になったような気がした。

 改めて検証してみると、東西(ヨコ)の道では〈裏〉の呼吸(=吸い切る呼吸、はらは内回転)が、南北(タテ)の道では〈表〉の呼吸(=吐き切る呼吸、はらは外回転)がなじむ気がする。今まで、呼吸を〈裏〉or〈表〉で意識しながら歩いたことはあるが、東西南北という方角との関係は全く気づかなかった。

 アルスシムラで機を織った時、タテ糸はこしの勘覚、ヨコ糸ははらの勘覚ではないかと思ったが、なぜタテ糸を「経糸」、ヨコ糸を「緯糸」と、地球上の位置を示す経度・緯度で用いられている漢字が使われるのか、腑に落ちないままだった。

 私なりに考えてみた結論がこうである。

(一)こしの勘覚(内観技法では〈表〉)=タテ=南北の気のベクトル、はらの勘覚(同じく〈裏〉)=ヨコ=東西の気のベクトル、という身体感覚が、まず存在(共有感覚として)し、

(二)その後、中国から織りの技術が(漢字と共に)もたらされた際、織物の場合は一般的に用いられている「縦」「横」ではなく、糸偏にちなんだ「経」「緯」という漢字が使われ、

(三)さらに明治(?)の西洋分物の移植時に、「経」「緯」の漢字が「経度」「緯度」にも転用されたのではないだろうか。

 ちなみに大阪では、南北の道を「筋」、東西は「通り」と称している。筋とは、「背筋を伸ばす」という表現もあるように、こしの感覚家族の一員である。

 そう思うと(何の根拠もない推測だが)、あらためて言葉とからだの勘覚の深い関係性に、思いが至る。
2018/08/18 記)

(四)「おむすびコロ輪」

 昔々、あるところに正直者のおじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、おじいさんは山へ木を伐
(き)りに出かけました。お昼になっておばあさんのつくってくれた弁当をひろげようとしたところ、おにぎりを落としてしまいました。三角おむすびはころころところがって、小さな穴へ――おじいさんがあわてて穴をのぞくと、中から楽しげな歌声が聞こえてきます。

 おじいさんがおむすびをさがして穴に手を入れると、歌声は止んでしまいました。不思議なこともあるものだと、おじいさんは残りのおむすびも穴の中へ落としてみました。すると、地面の下からねずみが顔を出して、「どうぞ」とおじいさんをねずみの家へ招き入れたのです。

 そこでは、白いねずみたちが、楽しそうに歌いながら、お餅をついていました。おじいさんもその輪にくわわって、おどり、うたい、つきたてのお餅をご馳走になり、楽しいひとときを過ごしました。

 帰り際、ねずみが「お礼に一つさしあげましょう」と言って、いくつかの包みをおじいさんの前に並べました。おじいさんは、一番小さな箱をお土産にもらって、家に帰りました。

 事の始終をおばあさんに話し、二人で小箱を開けたところ――あら、びっくり。中には、小判が詰まっていたのです。それから二人は、幸せにくらしましたとさ。

 で、話は終わりません。窓から盗み見していた隣の強欲じいさんが、「オレも」とおむすびを握っていそいそと山へ出かけました。件
(くだん)の穴まで来ると、おじいさんはおむすびを放り込みました。

 すると、聞いていたとおりにねずみが姿を現し、根の国へ案内してくれたのです。ところがおじいさんは餅つきには目もくれず、「はやく土産をくれろ」とねずみたちに迫りました。「出さないと、猫の鳴き真似をするぞ」。

 ねずみたちはふるえあがって、お土産の包みを並べました。おじいさんは、一番大きな箱を選んで、ほくほく顔で家に帰りました。さて、家に着いたおじいさんが、胸をおどらせながら包みをほどいてみると――中には、石ころが詰まっていたとさ。

 

 この『おむすびころりん』の昔話(民話)は、各地で語り継がれ、様々なバリエーションがあるようだが、私は、以下、三つの面から、個人的に考察してみたい。

 まず第一に、“中庸
(ちゅうよう)の思想”である。

 私は、人間関係(社会的な人と人の在り方の関係性)は、〈収奪・交換・贈与〉の三つに収斂
(しゅうれん)されるのではないか、と考えている。

 収奪とは、力ずくで奪うことで、その極限が戦争や植民地支配における掠奪
(りゃくだつ)である。それに対して贈与とは、“贈りもの”として無条件に与えること、家族がその典型であり、“いのち”そのものである。交換とは、私たちの日々の暮らしのありよう、すなわち商品やサービスと金銭とのやりとりである。

 人の矩
(のり)として収奪を排した場合、出家してお布施で生きることでもしないかぎり、民衆は贈与では食べていけない。残された在り方は交換であるが、交換が限りなく収奪に近づくか、それとも贈与を志向するかで、関係性はおおきく変わってくる。

 前者こそ、今、日本社会で問題になっているブラック企業(過労死、ハラスメント)や、外国人研修生の搾取(低賃金、人権無視)であろう。貨幣を仲立ちとした交換をよそおいつつ、実質は収奪にほかならない。

 一方後者は、古
(いにしえ)の近江商人の家訓「売り手良し、買い手良し、世間良し」に象徴される生き方ではないだろうか。まず、自己の欲望を肯定したうえで、強欲(収奪)にはしらないように抑制する、という。

 『おむすびころりん』のおじいさんは、はじめから贈与の気持ちでねずみに接したのでもないし、贈り物を断ってもいない。またねずみたちも、おむすびの返礼として小判を贈っている。

 このような民衆の心を、江戸時代の農政家・二宮尊徳
(にのみや・そんとく 1787-1856年)は、水車になぞらえて、「人道は中庸を尊む」と説いた。
 
【二宮翁夜話】
資料
(pdfファイル B5)

 

 第二に、“場の二層性”ということである。

 おじいさんが木を伐った場所は、ねずみ(根住み)の国=根の国、黄泉
(よみ)の上であった。おじいさんは、家(Α地点)と山(Β地点)を単に往復したのではない。Βは、下へ降りれば、C地点(異界)でもあった。ここにΑΒCをむすぶ三角形が成立する。

 私はこの三角が、表現の肝
(キモ)ではないか、と思っている。

 例えば、夢幻能
(むげんのう)といわれる能の形式においても、旅の僧がある場――古跡にまつわる碑(いしぶみ)や柳の木など――を訪れると、何やらものうげな地の人に出会う。実は怨霊の化身で、僧の夢にあらわれて己の物語を語り、舞いくるう。僧が鎮魂(たましずめ)を行うと、霊は癒されて去ってゆく・・・という展開をとる。現界と霊界が、一点で交錯している(そのような場を、「聖地」というのだろう)。

 また、文学においても、二層から生まれる三角は、深い余韻を与える。例えば、江戸時代の俳人・松尾芭蕉
(まつお・ばしょう 1644-1694年)『おくのほそ道』の一句――

 
(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声

 この句では、芭蕉(の心)(Α)と蝉(Β)と岩(C)が、三角形をなしている。さらに、『おむすび〜』ではねずみの歌声が一辺を引く(=おじいさんが異界へと降りてゆく)はたらきをしたように、蝉の鳴き声が――すこしずつ岩にしみていく、という描写をとおして――ΑΒCの三角形を、平面から立体(三角錐)へと深化させてゆくのである。 

   
 【おくのほそ道】
 [資料
(pdfファイル B5)

 「空蝉」
(うつせみ)という言葉があるように、七年間地の下にいて、地の上では一週間の短い命。蝉は人間のはかなさの、喩(たと)えである。これを、「閑さや 心にしみ入る 蝉の声」としては、凡句にしかなるまい。なぜなら、もの(者・物・霊)への仮託Cを欠くために、ΑΒの直線にとどまり、間(ま)がない→感興が生まれないのだ。

 
古池や 蛙(かわず)飛びこむ 水の音

 の句も、同じ構造をもっている。蛙がΒで、古池がCである。ここでも音(聴覚)が、感覚の深化→共感、感動へといざなっている。私はこれを、“三角のま(間・真・魔)法”と名づけたい。

 

 第三に、“自力
(じりき)と他力(たりき)の出会い”である。

 自力とは、己
(おのれ)の力――のみ――を頼りにして事に臨む姿勢であり、他力とは、自己の非力を悟って他に身をゆだねる在り方である。

 『おむすびころりん』では、小欲のおじいさんが半ばまで(山へ登って、二つ目のおむすびをころがすところまで)は自力で、その後は、他力というか、流れにまかせて受け身であったのに対して、大欲のおじいさんは、徹頭徹尾、自力で押し通そうとして、痛い目にあっている。

 だが、考えてみれば、100%自力で生きている人間などおらず、また、100%人間は生かされているのだ、とも言い切れない。自力と他力、そのどこで折り合いをつけるか、二者の調和が問われているのではないだろうか(この点では、中庸の思想と重なるだろう)。

 日本の仏教史では、禅宗は自力門、念仏宗は他力門とされてきた。鎌倉時代に念仏宗の一派・時宗
(じしゅう)を興(おこ)した一遍上人(いっぺんしょうにん 1239-1289年)の言行を記録した『一遍上人語録』に、次のような記述がある。

【一遍上人語録】
資料
(pdfファイル B5)

 ここでは、禅僧(自力)の法燈国師
(ほっとうこくし)と念仏僧(他力)の一遍が出会っているだけでなく、一遍が「南無阿弥陀仏」と唱える行い(自力)が、阿弥陀仏の救いの手(他力)を招いて、最終的には自他の分別をこえた境地=「仏もわれもなかりけり」に達している。

 坐禅をする=自力の行の場合でも、悟りとは得るものではなく与えられるもの(他力)ではないだろうか。つまり、自力といい他力といい、入る門は違っていても、行き着くところは、同じ頂
(いただき)なのだ。

 自力から他力へというのは、何も宗教的な修行にとどまらず、人間の成熟を表す歩みにも言えるのではないかと思う。

 

 実は、私が“三角のま(間・真・魔)法”に気づいたというか考えるようになったのは、整体でいう愉気(ゆき=手をあてること)の鍛錬をつんでいく過程であった。

 内観技法では、胸の中心(Α)に心眼を置き、はらの下心→さらに下の丹田(Β)に向かって息を吸う。次ぎに息を吐きながら、心眼を勘覚の焦点(C)に向けると、ΑΒCをむすぶ三角形が成立して間が生まれ、元気が(C)に向かって流れる→からだの勘覚が活性化され、心身が“生きる力”にみたされるのである。

 この原理は、日々の養生法の[こしの行気]・[はらの行気]でも、手真(いのちにふれる手)でも同じである。最終的には、産み出し(自力)生まれてきた(他力)三角の“おむすび”を、まるくはらにおさめて良しとする。

 これは、まさに『おむすびころりん』の、お結び(〈裏〉と〈表〉という二つのからだの勘覚をむすんで=一緒に合わせて)をコロコロところがし、まるい穴(=はらのたま)へ落として輪
(りん)(わ)とする、昔話の説くところではないか。

 牽強付会
(けんきょうふかい)のそしりを怖れずに言えば、私は、民話や昔話一つとっても、からだの勘覚こそが文化の母胎ではないか、ととらえてみたい。飛躍するようだが、京都の“一見(いちげん)さんお断り”や離婚の調停でも、間(あいだ)に仲介人を立てれば二者対峙よりも事がスムーズに運ぶのは、“三角のま(間・真・魔)法”から派生した生活の知恵ではないかと思える。

 まことに、二十世紀を生きたイギリスの詩人W・H・オーデン(1907-1973年)が、いみじくも語っている。

「われわれの認識の最後はこういうことだ――
 存在のみで充分だ、
 動物の孤独であれ、愛の戯れであれ、
 生きとし生けるすべてのものは
 おんなと男と赤ん坊です。」
『謎』 深瀬基寛(ふかせ・もとひろ 1895-1966年)『オーデン詩集』せりか書房

 神(おおいなるもの)への信仰心を喪った現代人にとって、『おむすびころりん』で描かれた根の国などは童話の世界にしか過ぎまい。しかし、生と死、現界と霊界が、いま・ここに併存しているというからだの勘覚+身体観・人間観・社会観で生きていた古人にとって、じいちゃんばあちゃんが話して聞かせる民話は、生きるうえでの道しるべでもあったのではないか。

 では、“外なる神”をもはや信じられない我々は、どこに信(真)を置けばよいのだろうか? 生と死をつらぬくもの、自己と他者をつなぐもの、生き物であって社会的存在でもある、己を律するものとして、何をよりどころにしたらよいのであろうか。

 私の(自分が得た・与えられた)答は、一遍上人が範
(はん)を示しているように、自己の内への気づき、すなわち“内なる神”=生命力に目覚めることである。それを何と呼んでもよい。このからだのなかから、“三角のま(間・真・魔)法”で、人間の、文化の、文明の、新生が産声をあげることを、願ってやまない。
2019/05/28 記)

(五)「物曰(い)うなら、声低く語れ!」

 
正月。多くの日本人は神社に初詣に行って、願い事をするだろう。胸の前で手を合わせて、「家族が健康でありますように」「商売繁盛」「志望校合格!」「恋愛成就」etc.・・・。人から神へ願うこのスタイルを、私たち現代人は疑うことはあるまい。

 内観技法には、〈受容〉と〈表出〉という二つの根本概念がある。〈受容〉とは、(からだの)外から内へという気のベクトルを、〈表出〉は逆に内から外へのベクトルを表す。その時の勘覚が、〈裏〉であり〈表〉である。

 〈表〉の代表的な身体技法が活元
(かつげん)と呼ばれているもので、〈裏〉には行気(ぎょうき)がある。例えば、胸の前で手を合わせて集注すれば、合掌行気(がっしょうぎょうき)になる。

 私は稽古を重ねてゆく中で、祈るという動作が行気の型をとるなら、ベクトルは外から内へ向かうはず。それでは“誰が”・“誰に”願うのだろうか、という疑問が浮かんできた。そんな折りに、沖縄の合気道家・宮城隼夫
(みやぎ・はやお)氏の著書を読んで、目が開かれる思いがした。氏は次のように書いている。

 
「王府時代に編纂された古い歌謡『おもろそうし』にも現れる、琉球舞踊の基本三手の一つ「拝み手」が、いわゆる気の養成と密接に関係していることがわかってきた。驚くことに、「拝み」の意識の深さが、引き出される潜在能力の度合いに、大きく影響することもわかってきたのである。言ってみれば、想いの深さ、すなわち「自分を中心とする空間の広がりの意識」にほぼ比例して、相手への作用はだんだん大きくなっていくようである。(中略)

 拝み手は、古来、天地を支配するものへの祈りや、敬意を表す原始的な動作であるが、拝み方にしても、次の二通りがあるので、古手では、一方を拝み手、他方を御願手(ウガンディ)として区別する。

 拝み手―外なる大宇宙への拝み。すなわち、自分の外側に存在する宇宙や大自然、あるいは、その心象としての神への祈りや敬意を表す動作。

 御願手―内なる小宇宙への拝みであり、自分に内在する小宇宙や神に向けて拝む動作。

 拝み手は、両手を上向きに広げて、そのまま頭の所まで掲げる動作であり、御願手は、合掌のように両手を胸の前にもっていき、手の平を合わせるものである。」
(『琉球秘伝・女踊りと武の神髄』pp.28,34-35 海鳴社)

 古代人にとって、神が願い、人が受容する。神の祈りとは、一人一人に授けた生命
(いのち)、使命と言ってもよいだろう。人は神の願いに力を尽くして応える――両手を掲げて己(おのれ)を捧げる。それが拝むということ、内観技法でいえば、〈表出〉=人生の表現なのだ。私はそのように解釈した(琉球古典舞踊も合気道も、どちらもうとい人間であるが)。

 では、古代から現代に至る長いスパンの中で、いつ・どのようにして「御願手」の祈りのベクトルが、180度反転してしまったのだろう?

 

 
奈良から柳生
(やぎゅう)の里に向かう往事の街道沿いに、一つの碑(いしぶみ)が建っている。史跡「柳生の徳政碑文」と呼ばれているその石碑は、室町時代末期の正長元年(1428年)に農民が徳政を要求して蜂起した土一揆に対して、柳生の里の守護権を持つ興福寺が徳政令を発し、その記録(?)に郷民が彫ったものと言われている。

 柳生の徳政碑文

 
「正長元年ヨリサキ者、カンヘ(神戸)四カンカウ(四ヵ郷)ニヲヰメ(負目)アルヘカラス、」

 歴史学者の勝俣鎭夫
(かつまた・しずお)氏は、「正長元年以後、神戸四ヵ郷にはいっさいの負債がない」という従来からの解釈に疑問を抱いた。なぜなら、徳政とは“××年までの借金をチャラにする”という性格を有していて、今後負債をおわなくてすむとしたら、借財しほうだい、社会が成り立たないではないか。

 氏は、碑文中の「サキ」という単語に着目し、先が「以後」ではなく「以前」を意味しているのではないかという仮説をたてた。そして古代から戦国時代までの歴史的・文学的な文献を渉猟し、次のような結論を導き出した。

 
「日本語のある時点を基準にして、時間の経過をあらわす「サキ」・「アト」という言葉は、世界の他の多くの諸言語と同じように、「サキ」は過去を、「アト」は未来を意味する言葉として、古代から現代にいたるまで使用されてきた。ところが、日本語のこの言葉は、戦国時代という大きな社会転換のなかから、「サキ」=未来、「アト」=過去というまったく正反対の意味を派生させ、以後、この言葉は、新・旧両方の正反対の意味をもつ言葉として使用され、近代以降、新語意は旧語意を圧倒するかたちで定着した。

 「サキ」・「アト」という言葉の本来の言語表現は、古代ギリシヤ語、南米アンデス地方の先住民のケチュア語、アイマラ語の言葉の成り立ちについての説明論理から明らかなように、未来を背に、過去と現在を眼前に置いた姿勢での視覚的体験より生みだされたものであった。そして、この表現は、人々が実感しうる社会的共通感覚を基礎にして形成された社会的時間認識にささえられて使用されてきたという性格をもっていた。このように、言語表現と社会意識との深い関係を具体的に示す「サキ」・「アト」という語の意味が、「サキ」=過去、「アト」=未来から正反対の「サキ」=未来、「アト」=過去に転換したということは、時間に対する視覚的認識のあり方と、言葉の表現の関係をそのままにして、それを認識する眼の位置、体の姿勢の向きを百八十度回転させたことになる。すなわち、「サキ」・「アト」の戦国時代における語意の転換は、日本列島で暮らす人々の原始・古代以来の伝統的時間認識の転換を前提とし、それをストレートなかたちで表現したものであった。
(中略)

 ここで新しく形成された、未来に向き合うという時間認識の姿勢は、西欧近代社会のもとで明確なかたちで形成された「近代的時間観念」と同じ認識の方向性――知覚的に認識しうると考えていた時間に、神仏の支配領域に属し、人間が知覚できないものと考えていた時間を、知覚可能な時間として、新しく「人間」社会の時間に加え、過去・現在・未来という時間構造をつくりあげ、人間が正常な姿勢で進む前方に未来をおく方向性――をしめすものであった」
(勝俣鎭夫『中世社会の基層をさぐる』pp.21-22 山川出版社)

 なるほど、言われてみれば我々は、真逆のベクトル(指向性)を持つ「さき」「あと」という言葉を、日常生活では平気で(矛盾を意識せずに)使用しているではないか。例)「ご先祖様に申し訳ない」←→「先の見通しが立たない」、「また後で会いましょう」←→「跡形もなく消える」。

 私が思うに、古代の人々は、目を(肉眼ではなく心眼とでも言おうか)後に=背中に向けていたのだ。自らのルーツに、人と神が親和していた神話の時代へと・・・。現代の私たちのように、生きる基準・規範が〈未来〉にではなく、〈過去〉にあったのだ。それが戦国時代という中世から近世への転換期にあって、人間的な自我の成長(成熟?)にともない、神(の束縛)から身を離し、目を前(未来)に向けて、独り、歩み始めたのではないだろうか。

 ※
 
 
五年前に父が死んだ。父は無宗教を自認していたが、母が熱心な金光教の信者だったことから、葬儀は神式(金光教式)で行うことになった。

 私も子どもの頃、よく母に手を引かれて通った、石段を上り詰めたところに建つ、横須賀教会の古びた会堂。平屋の建物の大広間で、親族だけの葬儀がとりおこなわれた。

 白装束
(しょうぞく)に身を包んだ教会長が、式次第に則(のっと)って、朗々と祝詞(のりと)を奉じて儀式は進んだのだが、彼が自身に言及する時に、「私、横須賀教会長○○○○は」と、急に小声になって言うのだった。謙遜なのか、不思議な物言いをするなと思ったが、その場はそれで終わった。

 後日、歴史家・網野善彦
(あみの・よしひこ 1928-2004年)の論考、『高声(こうしょう)と微音(びいん)』(網野善彦・笠松宏至(かさまつ・ひろし)・勝俣鎭夫・佐藤進一(さとう・しんいち 1916-2017年)編『ことばの文化史[中世一]』平凡社 所収)を読んだ時、その謎に一つのヒントが与えられたように思った。網野は書いている。

 「
たしかに川田のいう通り(引用者注:西アフリカ・モシ族の文化を調査研究した文化人類学者・川田順造(かわだ・じゅんぞう)の著作『声』(筑摩書房)に言及して)、祭儀に当って集まった大勢の会衆に向って語りかけるときの王は、つねに小声の低音、バスであり、そうした王の小声を聞きとり、会衆にそれを伝える伝達者、復唱者の声は、これと全く異なるテノールの大声、甲高い高声であった。

 この小声と大声を、日本の古代、中世に移しかえてみると、前者が『微音』、後者が『高声』といわれていたことは間違いないところで、宮廷の諸行事、あるいは寺院の法会などに当っての所作のさい、『微音』と『高声』は厳密に区別され、使い分けられていたのである
」(同上書 pp.11-12)

 「
天皇、院、摂関、将軍などの貴人は、『聖なる存在』として、やはり『微音』の音声でその意志を語った」(同上書 p.19)のに対して、「復唱者の大声―『高声』は、『聖なるもの』の意志を俗界に伝える、まさしく境界的な音声ということになる。
 日常的な世界での『高声』がそれ自体『狼藉』とされ、忌避された理由は、そこに求めることができよう
」(同上書 p.20)

 例外的に高声が許される場が、二つあった。一つは民衆による直訴
(じきそ)であり、もう一つは戦(いくさ)の鬨(とき)の声であったという。そして、宗教の場においても、「なむあみだぶつ」と声高(こわだか)に唱える、いわゆる鎌倉新仏教の念仏宗の登場によって、高声の禁忌が破られることになる。ただその流れは決して平坦なものではなく、“守旧派”による反動も招いたのだった。

 「
『高声』の念仏こそが救いにいたるとする法然、親鸞、一遍等と、これに対するきびしい批判と禁圧という政治的、宗教的対立にまで発展した」(同上書 p.31)と、網野は――名畑崇(なばた・たかし 1933-2020年)の「中世における音の聖と俗―体制の「音」・民衆の「音」―」(『大谷大学史学論究』一号)に言及しつつ――続けている。

 「
名畑は一遍とその踊り念仏をきびしく批判した鎌倉後期の『野守鏡』が、(中略)一遍の踊り念仏を『狂人』『外道』とよんだことに、同じ対立を見出し、さらに進んで、こうした批判に対する念仏者の対応の一つとして、親鸞による和讃の述作をあげている」(同上書 p.32)

 体制側からの逆流
(さかしら)にもかかわらず、時宗の踊り念仏は(今に続く)盆踊りのルーツになり、親鸞の和讃が各地の○○節と呼ばれる民謡と結びついたという。私が考えるに、「鎮護国家(ちんごこっか)」から民衆の宗教へと“肉化”した仏教は――単に芸能面に影響をあたえただけでなく、大本(おおもと)では――民衆の自立=歴史の客体から主体への転換をうながし――例えば、後の真宗門徒による自治都市堺の誕生や各地の一向一揆にみられる――主体的な民衆による社会的・政治的な実践を産んだのではないだろうか。

 そのような(ひろい意味での)文化創造の母胎となったのが、からだの勘覚ではないかと私は思いたいのだが、鶏が先か卵が先かで、ほんとうのところは、勘覚→文化&文化→勘覚という、二つの相互作用によるものだろう。いずれにせよ、中世から近世にかけて、日本という共同体にはおおきな転機がおとずれ――パラダイムの転換といってもよいかもしれない――勝俣が考究したように「さき」「あと」という言葉の意味(ベクトル)が反転し、網野が論じたように「高声」という言葉の身体性に価値の逆転がおこったのだ。

 神の世紀から人の世紀へ。それは洋の東西を問わないのではないか。

 

 三年ほど前、家族でイタリアに旅行したことがある。バチカンを訪れ、システィーナ礼拝堂に入って、ミケランジェロの描いた天井画と対面した。聖書の『創世記』をモチーフに描かれた壁画の、人間(と神)の躍動美に圧倒され――立ち止まれないほどの混雑に押し出された私は、テラスのベンチにすわって陽光をあびながら、目を閉じてものおもいにふけっていた。

 ミケランジェロ・・・16世紀イタリア・ルネサンスの画家&彫刻家・・・ルネサンス=キリスト教神学からの人間の解放・・・古代ギリシャ・ローマへの回帰・・・文芸復興・・・宗教改革によるキリスト教界の混乱・・・カトリック教会の聖堂に、宗教画を描く・・・肉体美・・・軋轢
(あつれき)葛藤(かっとう)はなかったのか・・・

 私がこのように自問自答していたのは、以前に読んだ評論家・林達夫
(はやし・たつお 1896-1984年)の『新しき幕開き』という文章(1950年に発表)の冒頭に、ミケランジェロの詩の一節が引用されていたからだ。

 
われに慕わしきは眠ること、更に慕わしきは石になること、
 迫害と屈辱とのつづく限りは。
 見ず、聞かず、なべて感ぜず、それにもまさるさいわいは今のわれにはあらじ。
 されば、われを揺り起こすなかれ・・・物曰うなら、声低く語れ!
 ――ミケランジェロ――
(『林達夫セレクション1』平凡社ライブラリー p.178)

 高校の美術の教科書に載っている程度の知識しか持ち合わせてない私には、この詩を書いたミケランジェロの背景に何があったのか、どんな“逆流”におそわれていたのか、分からない。ただ、時代の、いや文化文明の転換期には、さまざまな潮流がうずまくだろうな、とは想像できる。

 林達夫が『新しき幕開き』を書いたのも、敗戦後の日本の転形期においてであった。林はこの文章のなかで、「
occupied 抜きの Japan 論議ほど間の抜けた、ふざけたものはない」(同上書 p.182)と喝破(かっぱ)している。今にいたる日本(文化共同体)の退嬰(たいえい)の原点はここにあり――このことはまた、稿をあらためて書きたいが、今という時代も日本の、世界の、グローバル資本主義の、人間にとっての、転換期ではないだろうか。
2020/03/10 記)

(六)「三つの心、□△〇」

 京都へ移る前、山口に住んでいたころは、家の前に水路があって、初夏になると蛍がとんでいた。こちらに来てからは、蛍をみかけることもなくなってしまったが。

 評論家の小林秀雄
(こばやし・ひでお 1902-1983年)は、母が死んだ数日後に体験した“妙な経験”を、『感想』と題した文章で次のように記している。

 「
仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に沿うて小川が流れていた。もう夕暮れであった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。(中略)

 
ゆるい傾斜の道は、やがて左に折れる。曲り角の手前で、蛍は見えなくなった。――(中略 引用者注)いつもはおとなしい近所の犬が吠えながらついてきてくるぶしをなめられた、という描写が続き――もう其処は、横須賀線の踏切の直ぐ近くであったが、その時、後の方から、あわただしい足音がして、男の子が二人、何やら大声で喚きながら、私を追いこし、踏切への道を駈けて行った。それを又追いこして、電車が、けたたましい音を立てて、右手の土手の上を走って行った。私が踏切に達した時、横木を上げて番小屋に這入ろうとする踏切番と駈けて来た子供二人とが大声で言い合いをしていた。踏切番は笑いながら手を振っていた。子供は口々に、本当だ、本当だ、火の玉が飛んで行ったんだ、と言っていた。私は、何んだ、そうだったのか、と思った。私は何の驚きも感じなかった」(『人生について』中公文庫 pp.221-223)

 小林秀雄『人生について』
 
『人生について』

 小林は、これは“事実に基づいた童話”だと述べている。「
寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう」(同 p.224) とも。

 

 心はどこにある?――というのが、私が長年いだいてきた(今もいだいている)疑問だった。私が学んでいる整体では、「身心一如
(しんしんいちにょ)、心と体は一つ」「体を通して心を整える」ということをよく言う。では、その心は何処に?

 ある人いわく、「今の子どもは『心はどこにある』と聞かれたら、頭に手をあてるだろう。昔はそうではなかった。胸に手をあてていた。もっと昔は、腹だったのではないか。武士が切腹したように」

 三つの心の、どれが本当なのだろう。いや、一つが時代とともに遷移
(せんい)したのか・・・。そんな疑問を感じながら整体の稽古を続けてきて、私は、心は三つある、その比重がかわってきたのではないか、と思うようになった。以下、からだの勘覚体験から得た私のこころ論をつづってみたい。
 
 

 整体(の内観技法)では、勘覚(知覚―五感ではない、勘や直感に類するもの)の礎
(いしずえ)をはら・こしにおいている。人間の体を弦楽器にたとえれば、肉体が器・弦がこし・そこからうみだされる豊かな音が、はらである。

 稽古で少しずつからだの勘覚をとりもどしてくると、はらが初めは(円)に、それからふくらみをもった球に感じられるようになった。いうなれば、母なる地球である。

 武術の新陰流を習い始めたこともあって――近くの児童公園で、時々、木刀を振るていどだが――整体の参考にと、私は合気道や中国武術の本も読んでいた。その中の一冊に、戴氏心意拳
(たいししんいけん)という中国武術の丹田功(たんでんこう)という鍛錬法が紹介されていた(『中国武術で脅威のカラダ革命』立風書房 pp.80-87)

 丹田をソフトボールのような球ととらえて、その回転から肉体の力をこえた気力をうみだすものである。私は、これだ、と思った。地球が自転しているのとシンクロナイズして、勘覚としてのはらも前後左右に間和
(まわ)ることによって、元気がうまれるのではないか、と。しかしこの段階では、まだ心は――私は昔気質(かたぎ)の人間なので――はらにあるとは思えず、漠然と胸だろうと推測していた。

 日本文化の武術や芸事
(げいごと)さらに座禅などでは、頭をからっぽにすること=天心・無心になれ、と教えられるだろう。整体でも、集中とは意識集中ではなく、勘覚の集中だと強調される。その自覚が生まれてくると、頭(視覚・聴覚・嗅覚・味覚の四覚があつまる)って、四角なのかなあ、と思えてきた。

 世界をきりとる窓、まさにパソコンのOS「windows」、「目は心の窓」とも言うではないか。なぜテレビやスマートフォンのディスプレイは、□なのか・・・。それでも、頭が心だとはまだ思えなかった。

 そうこうしているうちに、合気道の開祖・植芝盛平
(うえしば・もりへい 1883-1969年)が、合気道の神髄(しんずい)を、「三角に動いて・丸く捌(さば)いて・四角で留める(△〇□)」と語っていたのを知ることになる。

 この三つの手順が、整体の愉気(=内観技法の手間)の他者に手をふれる技法と同じではないか、と思いいたった。つまり、感じる処に手をあてて三角形をつくり(序)→はらにまるくおさめ(破)→最後に活!をあたえる(急)である。すると、頭と腹の中間にある胸に、心は三角の形をしているのだろうか・・・。

 整体では、腹部・頭部ともに五つの調律点を措定
(そてい)し、それが勘覚探求の手がかりになるが、胸部には、ない。ではどのようにしたら、心を△に感じられるのだろう・・・。

 疑問をかかえたまま稽古を続けるうちに、心が水面のように感じられるようになった。たとえば、夫婦喧嘩(!)で怒りにとらわれると、激しく波立つ。落ちこむと、渦潮のような穴が開く。自分の心のありようを映す鏡である。しかし、なかなか、三角の鏡には・・・。

 そんな折、江戸時代の仙豪`梵
(せんがい・ぎぼん 1750-1837年)という禅僧が、〇△□の禅画をえがいていたことを知る。

 仙豪`梵「『○△□』

 所蔵している出光美術館のホームページでは、以下のように解説している。

 「
「○」「△」「□」という図形のみを描いたシンプルな図。左端には「扶桑最初禅窟(日本最古の禅寺)」聖福寺の仙高ェ描いたとする落款を記すのみで、画中に作品解釈の手がかりとなる賛文がなく、仙国T画のなかでは最も難解な作品とされます。「○」が象徴する満月のように円満な悟道の境地に至る修行の階梯を図示したとも、この世の存在すべてを3つの図形に代表させ、「大宇宙」を小画面に凝縮させたともいわれ、その解釈には諸説があります。」 

 タテで駄目ならヨコにしてみな。仙腰a尚の禪画を観ていて、私はシーソーが思い浮かんだ。心とは、あの公園の遊具の中央でささえている、支柱のような存在ではないか、と。

 今、私はこのように考えている。
 頭部の間
(ま)(肉体的には頭蓋腔(ずがいこう))にあるこころ(上心)は、一字であらわせば「憶」(おもい)=心が日に向かって立つ。人間が二本足で立ったことによって「こし」の勘覚が生まれ、手が自由になり、脳が発達した。文化・文明の建設、〈父〉。動物的・本能的な「はら」からの切断→人間的な自由、個としてのからだ=個体。(注1)

 一方、腹部の間
(ま)(肉体的には腹腔(ふくこう))にあるこころ(下心)は、一字であらわせば「性」(さが)=文字どおりセックス。生き物として、私たちを――他の動物とひとしなみに――駆動(くどう)する原動力。いのちのもえ、「はら」の勘覚、〈母〉。大地とむすびついた束縛(そくばく)→生命の絶対平等、和としてのからだ=和体。

 そのあいだにある胸部の間
(ま)(肉体的には胸腔(きょうこう))にあるこころ(中心)は、一字であらわせば「情」(なさけ)=憶と性の間でゆれる、とりとめなき“わたし”。なぜ青なのか。(注2)

 内観技法では、からだの勘覚に〈裏〉(受容)と〈表〉(表出)という対概念をたて、心眼(からだの内を観る目)では裏を黒、表を白、と視覚的にとらえる稽古を行っている。漢字学者の白川静
(しらかわ・しずか)によれば、「(青は)古くは黒から白までの中間の暗をいい」(『字訓』普及版p.55 平凡社)とされる。

 こころのシーソーであるが、自分自身をふりかえっても社会事象を見ても、意に傾けば性が浮く。頭でっかちになれば、体が悲鳴をあげる。アフガン戦争で日本政府がアメリカの侵略を支持する声明を出した時、ペシャワール会の故・中村哲
(なかむら・てつ)が、「日本人は地から足が浮いてしまったのではないか」と慨嘆(がいたん)したことが思い出される。

 また、性に傾けば憶が浮く。下心
(したごころ)・下品(げひん)・下衆(げす)である。今様の言葉をつかえば、「今だけ、金だけ、オレだけ」の新自由主義(者)であろうか。

 性と憶、〈裏〉と〈表〉、受容と表出、内なる母と父のバランスをとること。我が身(個体)においては、こころの間
(ま)を調えることによって、我々の身(和体)においては、人の間を調えることによって。

 

 シーソーは大地に据えられる。それが前提になる。すなわち、裏打ちされた、裏付けられた表である。その上に立って、一人二役のバランスをとるのは、難しい。あっちむいてホイ、こっちむいてホイ、の世界になってしまう。

 稽古会では、一本歯の高下駄をつかって稽古することがある。歩くのは比較的たやすいが、ただ立つのだけがムツカシイ。両足を前後にひらけば立ちやすいが、左右にひらくと――肉体的な構造上――ふらついてしまう(特に頭に気が上っている人は)。

 その時、小指の一本でも脇にいる補助者にあてると(片手でしがみつかなくとも)、安定する。が、こしが抜ける。

 この指一本が曲者
(くせもの)である。あからさまにもたれかかれば、一目でわかる。しかし、自立しているように見えて、その実、誰かに、何かに――思想、信条や宗教の場合もありうる――よりかかってないか。ふらつきふらつきながら、それでも独り、立つ。整体の追求する人間像である。(注3)

 

 後年、小林秀雄は学生達に向かって、次のように語った。

 「
諸君は自分の心の中に、諸君のイマジネーションによって日本の歴史をいきいきと呼び起こすことができる。諸君はそれを見ることができる。心の眼によってね。日本語には〈心眼〉という面白い言葉があるじゃないか。歴史は、諸君の肉眼なんかで見えるものじゃない、心眼で見るんだよ。生物学がいう眼の構造など、非常に抽象的なものです。ベルグソンは、人間は眼があるから見えるのではない、眼があるにもかかわらず見えているのだと言っているよ。僕の肉眼は、僕の心眼の邪魔をしているんだ。そして、心眼が優れている人は、物の裏側まで見えるんだ。」(小林秀雄『学生との対話』新潮社 p.130)

 『感想』で述べられている「不思議」も、上の文章の「歴史」も、「真実」という言葉に置きかえてもよいのでは――己
(おのれ)をかえりみる。

 憶(こころ)の窓は、くもってないか。
 情(こころ)の鏡は、にごってないか。
 性(こころ)の玉は、いのちの火は、くすぶってないか。

(注1)宮本武蔵「兵法三十五箇条」より、一部抜粋
一 心持の事
 心の持様は、めらず、からず、たくまず、おそれず、直
(すぐ)に広くして、意のこゝろかろく、心のこゝろおもく、心を水にして、折にふれ、事に応ずる心也。水にへきたんの色あり。一滴もあり、滄海も在り。能々吟味あるべし」(『五輪書』岩波文庫 p.144)

(注2)宮澤賢治『春と修羅』序 前掲

(注3)朝日新聞2020年9月16日付け朝刊〈(インタビュー)緩和ケア医、がんになる〉の医師・大橋洋平
(おおはし・ようへい)氏の言葉より、一部抜粋

 「
余命を気にしてもキリがないな、とも。『あと千日、生きられる』と言われたところで、1日ずつ減るカウントダウンの先にあるのは死です。ならばと思いついたのが、余命ではなく『足し算命』。転移を知ったどん底の日がスタートで朝起きるたびに増えていく。ちなみに本日、528日です。(中略)

 
苦しい時ほど人は生き方の指南を仰ぎ、元気づけてくれる『魔法の言葉』を求めるように感じます。でもね、そんな言葉はないんです。どう生きるかは人それぞれ、自分の力で探し出すものだから。わがままなお願いをできるなら、今度の本(『がんを生きる緩和ケア医が答える命の質問58』双葉社)は読んだ後で『やっぱり私には役に立たなかった』と捨ててほしい。答えは傾聴と一緒で、自分の中にあるんです
2020/09/23 記)

知的な、余りに痴的な

 過日、私の外出中にあるお客さんが店に来られた。彼女は千晶に次のように語ったという。

 「コロナウイルスは存在しない。それはドイツの学者が証明している。マスクは体によくないから、あなたもマスクをはずしたほうがいい。正しい情報を学んでほしい」

 千晶がいうには、ドイツに留学経験があり、市議会議員の選挙に立候補(落選)したこともある、社会的な活動を行っている女性だという。頭がよいので論議しても負けてしまうから反論はしなかった、と千晶は言っていた。私なら、どう対応していただろう・・・。気の短い江戸っ子のことだから、「とっとと帰ってくれ」と塩をまいていたかもしれない。 

 実際に亡くなられた方がいる、日々非常事態にある医療関係者や職を失ったり減収に苦しんでいる人の存在どう思っているのだろうか。楽天堂、このせまい店に、老若をとわず買い物に来られる、昨年ガンの手術をした六十五歳の基礎疾患者(=私)も働いている、ここでクラスターを発生させてしまったら・・・などとは考えもしない、想像力が及ばないのだろうか。

 “反知性主義”の言動ととらえる向きもあろうが、私には、知的であること自体がはらんでいる危険性、過剰な知性(頭でっかち!)がもたらす病
(やまい)そのもの――整体的にいうと“気がふれている”――に思えた。「知に傾けば命が軽んじられる」。

 「こころのシーソー」
   
“こころのシーソー”

 春の“アベノマスク”そして今「go to キャンペーン」という、あっかんべー&すかすか内閣による無為無策は、意図的に行われているのではないか――彼らもバカな人間たちばかりではあるまい、知的に“優秀な”エリートがバックオフィスで冷徹に計算しているに違いない――と私は疑っていたが、経済アナリスト・森永卓郎
(もりなが・たくろう)氏の毎日新聞に掲載された論考〈政府は清算主義に走ったのではないか〉(2020/09/17付け)を読んで、腑に落ちた(同紙より一部抜粋)。

 「
なぜ、政府と東京都は、感染拡大が見込まれるなかでの自粛緩和という危険な選択をしたのか。私は、政府が「清算主義」に走り始めたのではないかと考えている。

 清算主義というのは、新しい経済構造を実現するためには、時代遅れになったものを破壊して、資源を成長力のあるところに集中しようという思想だ。代表的なものは、1930年代にシュンペーターが唱えた「創造的破壊」の理論だ。資本主義経済が発展していくためには、不要になった企業を切り捨て、成長力のある企業に資本や人材を投入すべきだというのだ。

 今回のコロナ対策で、小池知事は、「ハンマー・アンド・ダンス」という言葉を使い始めた。感染者数が増えていけば、規制というハンマーを振り下ろす。そして、感染者が減ってきたら、規制を緩めて経済活動を活発化させる。それを繰り返すというのだ。

 そのことは、きれいな言葉で言えば「コロナとの共生」だが、その実態はズルズルとコロナ自粛の経済を続けるということだ。そうなると何が起きるのか。

 まず犠牲になるのは、体力に劣る企業だ。すでにじわじわと倒産・廃業が増え始めている。年を越えられないだろうという倒産予備軍は、圧倒的に多い。そうした企業を救うのではなく、彼らが抱えてきたマーケットや人材を明け渡せと政府は考えているのではないか。

 第二の犠牲者は、労働者だ。コロナ経済が続けば、雇用情勢は確実に悪化する。現に、昨年12月に1.57倍だった有効求人倍率は、今年7月には1.08倍と1倍割れ寸前まで下がっている。雇用情勢が悪化すれば、企業の採用活動は容易になり、安い賃金で人を雇えるようになる。強い企業の経営者にとっては、最高の環境がもたらされるのだ。

 そして第三の犠牲者は、高齢者だ。コロナを根絶しないと、高齢者の命が確実に奪われていく。厚生労働省の「新型コロナウイルス感染症の国内発生動向」(7月15日現在)によると、新型コロナに感染した場合の死亡率は、全体では4.4%だが、20代以下は0.0%、30代で0.1%、40代で0.4%、50代で1.0%、60代で4.7%、70代で14.2%、そして80代以上は28.3%だ。

 新型コロナウイルス感染症に乗じた清算主義という「構造改革」策は、日本経済を根底から変えるだろう。問題は、それが本当に日本人に幸福をもたらすのかということだ


 “国民の命と暮らしを守る”というのは空念仏
(からねんぶつ)で、みもふたもない新自由主義的、資本主義の延命策である。

 それでは私たち民草
(たみぐさ)は、この危機にどう臨んだららよいのだろう。私が信頼をよせる感染症の専門医・神戸大学の岩田健太郎(いわた・けんたろう)教授は、「自分で考えて判断する」ことの大切さを説いている(以下、『BESTT!MES』のホームページ2020/10/22付けインタビュー記事〈なぜ、日本人の多くは自分で判断することを嫌うのか〉より一部引用)

 「
「正しく判断する」には、ただアルゴリズムとして厚労省の基準に従いましょうということではダメで、自分で頭を使って考えなきゃいけないわけです。

 (例えば)「
ライブハウスから帰ってきて、熱が37度4分ってことは、線は超えてないけど、ほぼ線だよね」と考える。ここは、それぞれの保健所、病院が「厚労省の基準そのままではダメなところだぞ」と心得るべき、判断のしどころです。

 でも、それができないんですよ。なぜなら日本人の多くは自分で判断することを嫌うから。
(中略)

 
我々感染症のプロは「病気の後を追っかけてはダメだ」を鉄則にしています。我々は常に、病気の前にいないといけない。先手を打って、「こういうふうに拡がってくるだろうな」という予測をして、前もって病気の拡大をピシッと止める。これが感染症予防の鉄則です。

 病気がワッと拡がってから、「病気はどこいった、病気はどこだ」って追っかけるのは、下手くそな医者がやることです。
(中略)

 
日本では昔から、上からのファックスに従う習性が続いていて、「お上のお達しには服従」という奴隷根性が染み付いてる。そして逆に、いざというときは「私は厚労省の言うことを聞きましたよ」と言ってお上に責任を丸投げする無責任体質も備わっている。だから、判断ができない。(中略)

 「
PCRをどんどんやれ」ではないし、あるいは「意味がないからやるな」でもない。「この人はコロナに感染しているリスクが十分にある」、あるいは「ここでアウトブレイクの可能性を見逃したらやばい」。そういった判断を、保健所あるいは医療機関がその場その場でしっかりできていて、必要な人には必要な検査ができていて、アウトブレイクの可能性を見逃していないか。それをやった上で、自分たちの方針を正しく話し続けるリスクコミュニケーションが大切なんです

 そして、長年ホームレスの支援活動にたずさわってきた牧師でNPO法人抱樸
(ほうぼく)の理事長・奥田知志(おくだ・ともし)さん――私が尊敬する方の一人――は、首相就任時に掲げられた「自助・共助・公助」論を批判し、人々の共感力に希望の光をみています(以下、毎日新聞2020/11/17付けインタビュー記事〈「公助」の前にボロボロになる 困窮者支援の現場が抱える菅首相への違和感〉より一部引用)。

 ――菅首相の口から「自助・共助・公助」という言葉を聞いて、国に突き放された気がしました。
 
菅首相の最大の過ちは、「助ける」ということに序列と順番を持ち込んだ点です。菅首相の言っているのは「自助」→「共助」→「公助」の順です。

 言わば「ダム決壊論」。「まずは自分でなんとかしてください、それで『自助』のダムが決壊したら、次は『共助』のダム、すなわち周囲で支えます。『共助』のダムも決壊したならば、最後は『公助』(国)のダムが助けましょう」と。

 一見筋は通っているように見えますが、困窮者支援の現場から見れば机上の空論です。

 ――どういうことですか。
 
「公助」に支えてもらう前に、「自分」も「周り」もボロボロに傷ついてしまうからです。例えば、お金に困っている人がいたとする。今の時代、地域住民でお金を貸そう、とはなりません。しかし公的な支援制度がしっかりしていれば、周囲の人々が「あの制度を使うといいよ」と「公助」につなげることができる。「公助」がしっかりしていれば、周囲も関わりやすいから、困っている人を一人にさせないで済むのです。

 逆に、まずは自分でなんとかしろ、ダメなら家族や地域で支えろ・・・と「公助」を後回しにすると、困っている人や地域が崩壊してしまい、二度と立ち上がれないほど傷ついてしまう。結局、「公助」で助ける時には、時間もお金もよけいにかかる。

 「自助」は大事です。しかし、「公助」を出し惜しみするほど、「自助」の成り立たない社会となってしまいます。
(中略)

 
実は私たちはコロナ禍で、初めてクラウドファンディングを企画しました。多くの人が住まいをなくし、リーマン・ショックの時より大変な事態が起こると考え、全国で住宅の確保のために必要な費用を算出し、目標総額を1億円に設定しました。

 これはクラウドファンディングの世界では前代未聞だったようです。100人中100人が「達成は無理だ」と言いました。しかし、達成できた。コロナ禍が背景にあったと思います。

 ――コロナ禍が?
 
集まった1億1500万円をよく見ると、98%までが3万円以下の寄付でした。寄付に参加した人の数は1万人を超えていました。つまり、大口寄付が中心ではなく、大変多くの人が参加くださった。

 コメント欄を見て驚きました。「実は私も失業しましたが、いざという時になんとか生きていける社会にしたいので参加します」というコメントもありました。

 コロナ禍で「自分だけ」が蔓延
(まんえん)した一方で、みんなで助け合わないと切り抜けられない、というリアルな思いも共有されていたのだと思います。

 「自分だけ」と共感と。コロナ禍で、人々はその両方の間で揺れているように思います。
(中略)

 
私は「自助」の本質は「自立」ではなく「自律」だと考えています。

 「自律」とは、自分のことは自分で決められる、自分が自分らしくいられる、ということです。憲法13条の<すべて国民は、個人として尊重される>という思想です。

 ところが、今の社会は「個人」がますます尊重されなくなっている。自分が自分らしく生きられない。しかも、自民党の憲法改正案では、<全て国民は、人として尊重される>と、わざわざ「個人」を「人」と言い換えている。

 本来、個人が個人として大切にされることこそが、一人一人の「自助」につながっていくと私は思います。

 菅首相が「自律」という意味合いで「自助は大切だ。自助を大切にできる社会を全力で作ります」と言ってくれたのだったら、私はむしろ、もろ手を挙げて賛成したでしょうね。


 ――奥田さんは、菅首相にどんなメッセージを出してほしかったですか。
 
菅首相は「たたきあげ」だといわれます。地盤もカバンも看板もない東北地方の若者が首相に上り詰めるまで、きっと誰より多くの人々に支えてもらってきたのではないでしょうか。それを自分の言葉で語ってほしかった。「私は周囲に助けられ、ここまで来ました。だからこそ、この国を助け合える国にしたい」となぜ言えないのでしょう。

 私がもしも首相の立場なら、むしろ、こう呼びかけたいと思います。

 「社会のみんなであなたを助けるから、絶対に心配しないでください。思いあまって自死を選ぶようなことはしないでください。この国、いや世界中が助け合わねば、コロナ禍は乗り切れませんから。必ず助けますから」


 マスク反対論者の中には、件
(くだん)の御仁(ごじん)のような、「みなさんこんにちは、ガースーです」(と、12/11のニコニコ生放送で国民にメッセージ?!を発した)首相と――政治的には――対極の立場の人もいると思うが、結果的に、彼らが企図(きと)する清算主義に与(くみ)しているのではないか、と私は――こころの底から――語りたい。

 

自然法爾
(じねんほうに)
 私は毎朝、近くの北野天満宮まで散歩をかねて参拝に行っているが、過日、帰り道に乾窓院(去年まで、稽古会で会場をお借りしていた曹洞宗の寺院)の前を通りかかったら、このような標語が墨書されてあった。

 「
(ほどこ)して酬(むく)いを求めず、受けて恩を忘れず

 ああ、いい言葉だなと思って何度かくちずさみ、家に帰ってからノートに書きとめておいた。

 数日後、またお寺の前を通ったときによくみると、私が記憶ちがいをしていたことに気づかされた。後半ではなく、前半の「求めず」は、「願わず」と書かれていたのだ。

 なぜ、まちがって覚えてしまったのだろう・・・何日か考えつづけて、私は心のなせるワザではないか、と思えてきた。

 心には三つある。頭の憶
(こころ)、一字であらわせば「知」、胸の情(こころ)、同じく「心」(狭義のこころ)、そして腹の性(こころ)、「命」である。

 求める心は、give and take 、私のように商いをしていれば、商品と金銭のやりとりをお客さんとの間でしている。働いて給料をもらうのも同じである。この世の習わしと言ってもよいだろう。

 それでは願う心とは――親が子のすこやかな成長を願い、子は親がすこしでも長生きしてくれることを願う、人間的な心情と言える。

 求めも願いもしない、左で受け、右で渡す、右で受け、左で渡す、それこそ自然なふるまい(言動)ではないだろうか。natureの翻訳語の「しぜん」ではなく、「じねん」、曹洞宗の開祖・道元
(どうげん)が説いた「只管打坐(しかんたざ) 」、あるいは浄土真宗の教祖・親鸞(しんらん)が諭した「自然法爾(じねんほうに)」の境地に、つながるのではないか・・・。

 言葉は(書き言葉でも話し言葉でも)ブーメランのごとく、我が身に返ってくる――そうでなければ、力を持たないだろう。求める・願う・求めも願いもしない・・・山の木霊
(こだま)のように言葉は私のからだの中で反響し、自分にひきつけて、私は考えてみた。

 一年ほど前から、店のまえで「ご自由にお持ち帰り下さいコーナー」というのを設けてきた。我が家でもう使わなくなった物やお客さんが持ってきてくれた不用品(リサイクル品)を並べて、自由に持ち帰ってもらおう、という趣旨だ。

 始めた当初、集客の一助になれば、という気持ちは、確かにあった。ただ、続けていくなかで、持ってきてくれる客層(お店の顧客が多数をしめる)と持ってゆく客層(家の前を通りかかるこのあたりの人たち)が違う、という事実を知らされた。

 この学区は、低所得層が多い。子どもが小学校に通っていたころ、校長先生から「4割の家庭が修学援助を受けている」(我が家もその一軒だった)と聞いたことがある。給食時間は、おかわりを求めて、早食い競争になるそうだ。

 不用品を持ち帰る人たちは、店で買い物はしない、と分かってからは、求める心はなくなった。が、それでも――我が家で使わせてもらっている物も多々あって助かっているけれども――「一言いってほしい」という気持ち(願う心)は、残った(今もある)。

 というのも、管理にそれなりに手間をかけているからである。誰も持っていかない古着や古靴(新聞紙が詰めてあったので日付をみると、2003年の京都新聞だった)、市立図書館の廃棄本を黙って置いてゆく人がいる。仕方がないから、こちらで処分する。“無料のゴミ捨て場”と勘違いしている人には――本人は「善意」のつもりだろうが――「ご自宅の前でやられたらどうですか」という言葉が喉まで出かかってくる。一方、物色したあと乱雑なままにしていたり、中にはガラスの器を落として割ってそのまま立ち去った人もいる。

 「いただいていきます」と言ってくる人は、ほんとうにまれなケースだ。閉店時ならともかく、店があいている時は、私だったら一言、礼を言うのだが・・・。

 このようにグチるのは――他者に言わなくとも、それこそ心で思ってしまうのは――私の未熟さ故だが、あえて自己弁護すれば、「不求不願」とは、われわれ凡人には“到達できない境地”ではないだろうか。なぜなら、他の動物とは異なり、人間は、希求・祈願せずにはいられない(社会的)存在だと思うからである。

 それでも求めず・願わずに向かって、修行・稽古をとおして精進しようとするのは、「知」に傾きすぎるのを――特に現代人は――一種の予防策としてふせぐための知恵ではないか、と私には思える。

 もちろん、この世に完璧なワクチンなど、存在しないだろうが。

 

パスは後ろへ回す
 先日、西本願寺で開かれた日曜講演会に行ってきた。講師は、元ラグビー日本代表で神戸親和女子大学教授の平尾剛
(ひらお・つよし)氏。タイトルは、〈ラグビーを通して考える「言葉と平和」〉。

 私は初めて知ったのだが、ラグビーのルーツはイングランドのコミュニティーのお祭りで、その後サッカーとラグビーに分かれ、近代になってパブリックスクールの生徒達の手で洗練(スポーツ化)されたそうだ。

 平尾氏が言うには、人間は根元的に暴力性を秘めている、それを年に一度か二度の祭りで発散させ、試合が終わったあとは「ノーサイド」の精神で肩を抱き合い、さらに着替えて飲食を共にする(「アフターマッチファンクション」とよばれ、平尾氏にもその経験があった)という。

 私は聴きながら、ラグビーは――例えば、サッカーやアメリカンフットボールと違って――パスを後ろに回す(前に送ると反則になる)のも、地域共同体の融和と存続を図るという、そもそもの誕生精神をひきついでいるのではないか、と思った。

 後ろへ・・・後代へ、あるいは自分より遅れた者たちへ。

 では、私は、どういう球を受けとり、どんなパスを、誰に、渡そうとするのか・・・。

 

神社でなぜ柏手
(かしわで)を二度うつのか?

 稲荷神社

 私は毎朝、北野天満宮の境内にある稲荷神社の前で手をあわせているが、あるとき、ふと、なぜ柏手を二度うつのだろうか、という疑問がうかんだ。どうして一度でも三度でもなく(また手を打たないのでもなく)、二回なのか。

 「みんながそうしているから、なんとなく」?「そうするのが作法だと、書かれていたから」?

 どんな事にも――極端過ぎるかもしれないが、文化、すなわち言葉や衣食住のありよう一つひとつに対して――からだの勘覚の根拠を求めるのが、整体(内観技法)の立場である。では、二度の柏手のよってきたる所以
(ゆえん)とは?

 琉球舞踊の型に、「拝み手」と「御願手」というのがあるのを、本で知った。前者は、“外なる大宇宙”への拝み、後者は“内なる小宇宙”への拝みであるという。私はその文章がヒントになって、次のように考えた。

 大宇宙を神(××教の教祖とか、××宗の宗祖ではなく、人間をこえたおおいなる存在)ととらえたときに、御願手→拝み手という一連の所作は、神との応答を示しているのではないか。 

 すなわち、まず神の願い(キリスト教的にいうと「召命
(しょうめい)」)を聞き――「命をうけたまわった証(あかし)に手を一度うつ――続いて、命にしたがって身を神に捧げる(同じく、「使命」)決意表明として、再度、柏手を打つ、のではないだろうか。

 そこで大切なのは、二つの柏手の間に、間
(ま)をもつことではないかと思う。なぜなら、神の命は抽象的であり、すぐには即答できない――我が身にひきよせて省察し、具体的に可能なこと、チャレンジできることしか、神には返答できないからである。

 例えば、「隣人を愛せ」という命が下ったとき、あなたは隣家の、朝からロック音楽を大音響で流し、ゴミ出しルールも守らない、町内の“こまったちゃん”を、無条件で愛せますか。私は博愛主義者ではないので、できません。でも、何かひとつ、「おはようございます」の声かけでも、できるのでは・・・と、両手を合わせる

 稽古会でも行っている柏手と祈願は、次のとおり。

 目を閉じて両手をたかくかかげ、「憶
(こころ)の窓はくもってないか」と念じて「はらひたまへ」と祝詞(のりと)をとなえ、「情(こころ)の鏡はにごってないか」と念じて「きよめたまへ」ととなえ、「性(こころ)の玉は、いのちの火は、くすぶってないか」と念じて「さきわひたまへ」ととなえる。

 胸の前まで手を下ろして合掌し、召命を待つ。神の声が聞こえたら、柏手。自問自答の間
(ま)。使命を覚えたら、柏手。両手を頭上にあげながら、身命を神にさしだす。

 さあ、今日も、一歩、前へ。 
2020/12/23 記)

語りえぬもの
 神奈川県大磯の旧東海道わきに、ちいさな沢がある。小川とも呼べないような溝で、ごみがポイステされそうな場所だ。ここを、今からさかのぼること平安時代の昔に、一人の僧が通りかかった。彼は感興にかられて、歌を一首、詠
(よ)む。
 「秋ものへまかりける道にて」の詞(ことば)書きに続けて、
 
心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の秋の夕ぐれ(『山家集』岩波文庫 p.67)

 上村淳之(うえむら・あつし)『鴫』 
 上村淳之(うえむら・あつし)『鴫』

 この僧で歌人・西行
(さいぎょう 1118-1190年)は、何に感動したのだろう。何を見て表現の欲求が生まれたのだろうか。
 この和歌の下の句は、情景を描写している。鴫
(しぎ)鳥が「たつ」は、「立ち尽くしている」と「飛び立つ」の二様に解釈されるが、私は余韻という間(ま)がある後者をとりたい。では上の句は?

 まず、「心なき身」が分からない。身=からだとすると、心が無い人間など存在するのだろうか。次に、「あはれ」とは、何が哀れというのか? そして、この歌の「知る」は、知的認証というよりも――もとより西行は、「あはれ」という単語を知識として持っていただろうから――「感じる」という言葉がふさわしいように思われるが・・・。

 この歌を文字どおり知って、彼の地も訪れてみてから、果たして何年が経ったか。国文学者の文献を読みあさって理解を深めたわけではなく、整体を二十年学んできて自分なりにこうでは、と思うようになっただけであるから、ことば遊びに過ぎないといえば言葉あそびだが、私は次のように解釈している。

 まず、身体の捉え方(身体観+身体感)が、私たち近(現)代人とは、違う、ということ。身=肉体ではないのだ。いやこの言い方は適切ではない。身とは、表層に肉体を、深層にからだの勘覚(気)をつつんだ、生命的&社会的な存在の謂
(い)いなのだ。そして、「心」以上に「気」を含む語句・表現――例えば、「気持ちがよい」「お元気ですか」etc.――が日常的に用いられているように、肉体がメインではなく、気=主/肉=従とする捉え方が、大前提になる(これが、会で稽古している内観技法の肝(キモ)でもある)。

 そのように考えると、心は脳内神経に生じる刺激・反応の作用ではない。いや、この言い方も適切ではないだろう。三つの心、頭の憶・胸の情・腹の性のうち、西行が「無い」としたのは、意識や記憶に象徴される分別の憶ではなかっただろうか。

 では、どの心が知るかといえば、胸の狭義の心=情であり、頭の〈表〉(内観技法では白/有色と観る、主体性の源泉)と腹の〈裏〉(同じく、黒/無色と観る、客体性の源泉)の間
(あいだ)で常にゆれうごいている、青ざめた(青は白と黒の中間色)わたしたちの心である。情緒は、ここから生まれる。

 次に「あはれ」であるが、私は――何の根拠もなく――「もののあわれ」とは、「現われ」ではないかと考えるようになった。「現」という漢字を調べてみると、「王+見」の他に「玉+見」が原義とする解釈もあるようだ。玉が見える・・・内観技法では、はらを玉ととらえ、むねの情(こころ)の鏡(水鏡)が澄めば、玉が現われ、その間和り(回転)によって、元気はもとより様々な勘覚が生まれる、と捉えて稽古している。では、何があらわれるのか?

 「語りえぬものの前では、沈黙しなければならない」とドイツの哲学者・ウィトゲンシュタイン
(1889-1951年)は記したそうだ。西行も何も表していない。沈黙とは、時間&空間の間(ま)である。もの(者・物・霊)という形あるものー名づけえる(名づけえた)もの、地に対する図をとおしてしか、私たちは〈世界〉を認識できないが、頭の(憶の)窓枠を越えた何か、形なきものー名づけえぬもの、図に対する地は、言葉(事の端・葉 注1)では表しえない・・・であるからこそ、“何か”を身をもって(身に沁みて)知るしかないのではないだろうか。知とは、本来そのような身体性をともなった営みであると思う。

 しかし、残念ながら、間
(ま)が真になる――僥倖(ぎょうこう)・啓示・覚醒ともいえる――知覚(肉体の感覚ではなく、からだの勘覚としての)は、永続しない。私たちは、生き物として生きるかぎり、感覚ー認識による憶の分別(識別)を、止めることはできない。では、どうすればよい。

 飛躍するようだが、『般若心経
(はんにゃしんぎょう)』の説く「色即是空、空即是色」(しきそくぜくう、くうそくぜしき)とは、“その後”の心のありようをさししめした教えのように思われる。

 つまり、「己
(おのれ)がおのれが」の頭の憶と、“いのちがつながっている”腹の性の間で、ぎったんばったんシーソーをこいでいる日々の私たちに、調和を諭(さと)す声としての、お経である。

 色即是空
    
“こころのシーソー”

 子どもの頃、公園で友だちとシーソーをこいで遊んでいた。勢いよく地面をけって、バタバタしているのに飽きると、足を板のうえに投げだしたりして、休むのだった。すっと、シーソーが水平になる瞬間があった。不思議な、お互い恥ずかしいような、顔を見合わせて、何とも言えない体験だった。

     

 三十四歳の春、四国をお遍路して回ったことがある。阿波(徳島県)の一番札所・霊山
(りょうぜん)寺からはじめて土佐(高知県)に入り、室戸岬に向かって国道を歩いていた時、前を行くお遍路さんと出会った。カジュアルな服装に袖無しの白衣をはおり、「慈悲の心に愛の花が咲く」と書いた金剛杖(こんごうじょう)をついている。家々の戸口に立ってお経らしきを唱えては、お金やご飯をもらっているようだ。五十年配の彼は、「空心」(くうしん)と名乗った・・・。

 その後、若き日の弘法大師・空海
(くうかい)が修行した室戸岬の洞窟に近い岩場で、二泊三日、彼と――もう一人、空心さんが「僕の先生、四国の主(ぬし)」と呼ぶ真言宗のN僧侶の三人で――寝食をともにした。空心さんの持っていた小鍋に野草をつんでご飯を炊き、カップ酒をくみかわし、N僧の一人用テントに三人で押し詰まって寝たり、と思い出はつきない。

 別れ際に――私はお寺を順番どおりに回る“順打ち”で、二人は逆に回る“逆打ち”で歩いていたので――空心さんが「今にプレミアムがつくよ」と冗談めかしに言って、一枚の色紙をくれた。

 
陽光に語りて歩く遍路道

 海に浮かぶ小島の上を飛ぶ四羽の鳥の絵、その下に「高島さん、マイ・ウエイで急がず自己実現をして下さい。空心」と筆ペンで書かれてあった。

 「一日一生」 by 空心
  
『一日一生』 by 空心

 当時の私は、九年間つとめた教師を辞めて空白のページを生きていた。「高島さん、僕はこれだけしかお金を持ってないんだ」と、ある時、空心さんがポケットから何枚か小銭を取り出してみせた。「でも、なんの不安もないよ」とつけくわえた彼の境地にはほど遠かったが、自由といえば自由だった。ただ、何のアテもなく詩や童話を書き始めて、ドイツのミヒャエル・エンデ(1931-2021年)のような童話作家になりたいと夢のようなことを語っていた私の姿に、焦りを感じとっていたのかもしれない。

 このように書くと、空心さんは篤信
とくしんの仏道修行者と思われるかもしれないが、なかなかどうして、泥臭い男だった。師匠が言うには、「冬は大阪の釜ヶ崎でドカチン(土方仕事)をし、暖かくなると四国に渡ってお接待を受けながら暮らす“職業的お遍路”」ということだった。確かに彼は、赤銅色(しゃくどういろ)に日焼けした大男で、私も道中、それらしき人と会って言葉をかわしたことがある。

 半月ほど後、四国の反対側、讃岐(香川県)の多度津で、N僧と再会した。空心さんの姿が見えなかったので、「どうしたのですか」と聞くと、「接待を受けた家で、風呂の湯が黒いと文句を言うから、ほっぽってきたわ」という返事だった。さもありなん、とはいえもう会うことはないだろう、一期一会
(いちごいちえ)

 実は、四国を回っていた間、女三人衆――水戸黄門
(みと・こうもん)ご一行よろしく、托鉢で得たお布施で遍路に来ていた生駒の尼僧と、二人の信者さん――にも、私は二度会っている。この時の体験から、私は心の階梯(かいてい)・人間的な成熟度に応じて、雲の上から弘法大師が、「お、高島はこれこれの段階か。それなら、この人物と引き合わせて」と、糸で操っているように感じたが、人間の出会いは――偶然や必然というよりも――自然(じねん、英語のnatureの翻訳語「しぜん」ではなく、自ずから然り)ではないか、と今では思っている。

 さて、四国遍路を終えて、“我が道”を見いだせたかというと、そんなことはなかった。迷い、惑いて十数年。四十代の半ばで整体に出会い――「師」と呼べる人との邂逅
(かいこう)――それなりに歩いてきて、豆屋を生業&整体をライフワークと道はようやく定まったが、では、自己実現は?

 こんなことを考え、三十年以上前の体験を思い返していたのは、正月三日に腓骨神経麻痺
(ひこつしんけいまひ)をわずらってしまったからだ。

 朝起きてみると、右膝から下がしびれて力が入らない。まるで棒がぶらさがっているようだ。右足の甲が上に曲げられないので、少しの段差でつまずき、二度、転倒してしまった。「もしや脳の病気では」と不安になって救急外来を受診したら、レントゲンで骨折にあらず、しばらく様子をみて、治らなければ一度整形外科でMRI検査を受けてみたら、という医者の見立てだった。

 家に帰ってwebで調べると、どうも腓骨神経ー鍼灸で足の三里と呼ばれるツボにある神経が麻痺したようだった。原因は分からなかったが、強く圧迫しただけでもなるという。ほっとして、“日にち薬”と明
(あきら)め、病院には行かずに自宅で養生することにした。

 痛みはない。しかし、神経が通じないしんどさを、初めて体験した。もどかしい。たとえてみると、かわいた砂漠に、一日一ミリずつ、水路がのびていくような感覚だった。京都で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性が、嘱託
(しょくたく)殺人を依頼したという事件があったが、彼女の気持ちが――爪の先ほどは――分かるような気がした。

 焦る心を押さえて、というのも、アスリート達が病気や怪我で休養したのはいいが、復帰を急ぐあまり無理をしてかえって症状を悪化させてしまうことがよくあるそうなので――日一日、慎重にも用心をかさねて、step by step と歩をすすめてきた。二ヶ月たって、何とか正座ができるようになったが、その間、引き出しの奥にねむっていた空心さんの色紙をとりだして、「急がず」という言葉をかみしめていた。

 そして、「自己実現」。自己とは何か?それは終わらぬ探求課題だろう。「実
(み)が現れる」に関していえば、稽古会では、からだの内から現れる“いのちのもえ”を、うたい・おどり・かたり・えがいて表わすことを主眼の一つに置いている(注2)。現代、特にこの電脳時代になって、自己表現ならぬぺらぺらした自己表表が横溢(おういつ)している社会にあっては、現れるのを待つ姿勢は,間抜けに見られるかもしれない。まして、“何か”が熟して実のるまでには、十年、二十年、三十年かかるかもしれないのだ(いや、かかると思い定めたほうがいいだろう)。

 野口晴哉は画家・中川一政
(なかがわ・かずまさ 1893-1991年)との対談〈勘を育てる――教育における「機」「度」「間」〉で、次のように語っている。(http://noguchi-haruchika.comより引用)

 中川
初めにちゃんとした純粋な勘を持っている人が、勘を鈍らせられるということはあるんでしょうか。
 野口
こうしなければならない、こうしてはならない、こうしては笑われる、こうしたら褒められるというのは、みんな勘を鈍くします。
 中川
そうでしょう。それからまた抜けるということがあるんでしょう?
 野口
抜けるにはそれから三十年かかります。
 中川
そう、そうです。抜けるにはそのくらいかかる。
 野口
一旦そうなってから抜けたのは見事ですね。

 思い返せば、室戸岬への道中、軽トラが止まって、おじさんが「乗ってかないか」と声をかけてきた。四国(死国)を歩いてお遍路するゾという信念?(まあ、こだわりというか、思い込み。旅の後半はその呪縛もとけて、バスにも乗ったが)を抱いていた私は、親切なお接待を断った。もし、同乗していたら・・・空心さんとは、出会わなかっただろう。正に仏教でいう因縁(いんねん。因は近い原因・理由、縁は遠いそれ)である。
 「急ぐな、間和れ」

注1)精神科医で精神病理学者の木村敏
(きむら・びん 1931-2021年)は、『時間と自己』(中公新書)で、〈こととことば〉について、次のように考察している。

 「
日本語には、元来、事(こと)と言(こと)との区別がなかった。『古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで、言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された』(『岩波古語辞典』、「こと」の項)。ところが、奈良・平安時代以降になると両者は次第に分化してきて、「言」は『コト(言)のすべてではなく、ほんの端(はし)にすぎないもの』(同、「ことば」の項)を表す「ことのは」、「ことば」として事(こと)から独立するようになった。(中略)

 
この花が赤いということは、もちろんその全部が「この花は赤い」ということばによって表現されつくせるものではない。そしてそのかぎりでは、このことばは、この花が赤いということ、赤い花が私の眼の前にあるということ、私がそれを眺めて美しいと感じていること等々の、現在私のもとに現前していることの世界のごく一端を言い表しているにすぎない。しかしそれにしても、「この花は赤い」ということばを用いなかったならば、この花が赤いということを表現したり伝達したりすることは不可能である。ものはその実物を眼の前に示すことによって確認を求めることができるだろう。これに反して、ことは眼に見えるように呈示することができない。ことはことばによって語り、それを聞くことによって理解する以外ないのである」(同上書 pp.14-15)

注2)ミヒャエル・エンデ
も次のように語っている。

 「
言葉は(作家が)自分で作るわけじゃない。それはすでにそこにあるものです。それに、言葉は、現れるものでもある。そして、つかみかたが乱暴でなければないほど、さわりかたが、そっとやさしくあればあるほど、現れるものも多くなるし、言語がおのずから提供してくれるものも多くなります。わたしはそれを頼りにすることがよくあるのです。わたしの旅には大雑把な地図があって、残りはわたしに向かって生じるのだし、どこかから与えられるわけであり、わたしに起きるのです」(『ものがたりの余白』岩波書店 p.22)
2021/03/20 記)

日本が見えない
 2021年5月11日の朝、新聞を手にして、思わず「座布団、一枚!」と声をあげたくなった読者も多いのではないか。私も溜飲
(りゅういん)をさげた一人だった。中ほどの見開き二面に、次のような意見広告が載っていたのだ。

 宝島社 意見広告

 [
緊急事態]「ワクチンもない。クスリもない。タケヤリで戦えというのか。このままじゃ、政治に殺される。私たちは騙されている。この一年は、いったい何だったのか。いつまで自粛をすればいいのか。我慢大会は、もう終わりにして欲しい。ごちゃごちゃ言い訳するな。無理を強いるだけで、なにひとつ変わらないではないか。今こそ、怒りの声をあげるべきだ。

 出版社の宝島社が、朝日・読売・日本経済の三紙に出した、メッセージ広告だった。そのとおり、アッカンベーとスカスカの二人の首相は、私たちに何を護らせようとしてきたのか。感染症対策の基本とされる検査と隔離の不徹底、アベノマスクからgo to travel、医療体制の不備にワクチン接種の遅延・・・衆目
(しゅうもく)の一致するところ、東京オリンピックにまつわる利権(カネカネカネの利益と自らの権力の保持、メンツ)の護持(ごじ)ではないか。「国民のいのちとくらし」という言葉が、鼻紙のように、かるく、かる〜く、風に千切れとんでゆく・・・。

 それにしても、写真に写っている幼女(小学校低学年?)はーー十五年戦争の末期、1945(昭和20)年の撮影だとするとーー存命なら今は八十代半ば。人生で、二度も竹槍を持たされようとは・・・。

 後日談だが、ある方がツイッターで、広告文中の「政治」という語は、翻訳しづらい。「Our government」(私たちの政府)とでも訳すしかないのでは、という旨をツイートしていた。私は、虚
(きょ)をつかれたように感じた。そうだ、問われているのは、抽象的な政治“一般”ではなく、具体的な政治“家”や政治“制度”なのだ。個々の事実を捨象して抽象論で語ってしまうと、解決すべき/解決しうる課題が、何か手の届かぬ、アイマイモコとしたものに化してしまう。「政治とカネ」「政治不信」等々、マスメディアの常套句(じょうとうく)に馴らされてしまうと、私たちは大切なもの(政治に向きあう感性や視点、人間として政治的であることの自覚)を失ってしまうのではないだろうか・・・。

 

 それでは、第一次竹槍戦争の時は、大日本帝国は国民(臣民)に、何を護らせようとしたのだろうか。一言でいって、国民体育大会ならぬ、国体(旧字体では國體)であった。では、国体とは何か?

 驚くべきことに、1925(大正14)年に制定された治安維持法にいたるまで、法的には「国体」は定義されることがなかったという(大日本帝国憲法は、1890(明治23)年に施行)。 

 政治学者の丸山真男
(まるやま・まさお、1914-1996年)は書いている。
 「
治安維持法の「國體ヲ変革シ」という著名な第一条の規定においてはじめて國體は法律上の用語として登場し、したがって否応なくその「核心」を規定する必要が生じた。大審院の判例は、「万世一系ノ天皇君臨シ統治権ヲ総攬シ給フ」国柄、すなわち帝国憲法第一条第四条の規定をもつてこれを「定義」(昭四・五・三一判決)した。しかしいうまでもなく、國體はそうした散文的な規定に尽きるものではない。」(『日本の思想』岩波新書 pp.36-37)

 最後の一文はどのような意味か。それは、同書の次のような小見出しに如実にあらわれている。
 「近代日本の機軸としての「國體」の創出」「「國體」における臣民の無限責任」「「國體」の精神内面への滲透性」

 丸山は、続けて書く。
 「
敗戦によるポツダム宣言の受諾は、ふたたび、しかし今度はきわめて絶望的な状況の下で、「國體」のギリギリの定義を日本の支配層に強いることとなった。「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」という我が方の条件付の受諾にたいして「天皇及び日木国政府の国家統治の権限」は「連合国最高司令官に従属すること、及び日本の最終的な統治形態が「国民の自由に表明する意思によって」決定されるという連合国側の回答が寄せられたが、(中略)これが國體の変革を意味するかどうかが御前会議でもっとも激しい論戦の的となり、降伏の最後的決定を遅らせたこと周知のとおりである。ここで驚くべきことは、あのようなドタン場に臨んでも國體護持が支配層の最大の関心事だったという点よりもむしろ、彼等にとってそのように決定的な意味をもち、また事実あれほど効果的に国民統合の「原理」として作用して来た実体が究極的に何を意味するかについて、日本帝国の最高首脳部においてもついにー致した見解がえられず、「聖断」によって収拾されたということである。」(同上書 pp.37-38)

 このポツダム宣言受諾の際の裏話が、大和ミュージアム館長の戸高一成
(とだか・かずしげ)氏と作家の大木毅(おおき・たけし)氏の対談で、次のように語られている。

:土肥一夫さん(海軍中佐)で一番面白いのは、編制班だった時の話です。編制班とは、艦隊編制をする班のことですが、土肥さんはその班をやり繰りしていた。

 終戦前の八月一四日、ポツダム宣言受諾を決めた後に、富岡定俊さん
(海軍少将)に呼ばれてこのように言われたそうです。「とうとうポツダム宣言を受諾したが、文言が曖昧で、天皇や皇室がどうなるかはっきりしない。つまり、連合軍の管理下に置かれて命令を受けるのかどうかはっきりしない。ある語句の翻訳で揉(も)めたりしている時期なので、そのことが心配だ」と。海軍の最後の望みは、国体の護持です。さて、そもそも国体の護持とは何か? ということで、富岡さんが土肥さんと宮崎勇(みやざきいさむ)さん(海軍中佐)に「平泉澄(ひらいずみきよし)の所に行き、何をもって国体が護持されたと言えるのか、聞いてきてほしい」と言った。そこで、 一四日に本郷の平泉の自宅に行った。平泉の自伝『悲劇縦走』には、軍令部の参謀のDとMが来たと書いてあります。平泉は皇国史観歴史学者の重鎮です。

 大木:それは面白い(笑)。

 戸高:これが土肥一夫さんと宮崎勇さんです。内容は書いていませんが、軍令部の考えを聞き、「海軍はそこまでお考えですか」と平泉は感動する,そして「すべてお手伝いします」と返事をした、と自伝に書いてあります。その時に平泉は「国体とは、三種の神器の継承行為そのものである」と伝えました。わかるようでわからないような言葉ですが、富岡定俊さんの所に帰り、土肥さんはその通りに報告した。すると「ああ、そうか」と言って、富岡さんは安堵の表情を浮かべ、すぐ高松宮
(たかまつのみや)の所に行って伝えます。「万々一陛下が処刑されても、然(しか)るべき皇族が三種の神器を継承すれば、国体は護持できる」と。そして高松宮のOKを取り、源田実(げんだみのる 海軍大佐)を松山(まつやま)から呼んだ。

 大木:高松宮は海軍ですからね。戦争中はおおむね軍令部参謀でしたか?

 戸高:そうです。高松宮はその時、富岡定俊の部下です、形の上では。さて、万一に備え、三種の神器を継承するに値する皇族を隠そうということになった。隠す場所は九州の山奥に設定し、「平家
(へいけ)の落人(おちうど)集落」のような所を見つけて準備をし、源田さんを戦後になっても長く遣わしたわけです。これが、土肥一夫さんが終戦間際に行った一つの大きい仕事です。」(『帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』角川新書 pp.188-189)

 アメリカ・イギリス・中国の三カ国によって日本にポツダム宣言が発せられたのは、7月26日だった。直ちに無条件降伏していれば、ヒロシマ・ナガサキの惨劇(アメリカによる原水爆の人体実験)は、なかった、かもしれない。いや、太平洋戦争の分水嶺
(ぶんすいれい)といわれるミッドウエー海戦の敗北時(1942−昭和17年)に、日本が条件付き講和にもちこんでいれば、その後の各地の玉砕や特攻、本土の空襲、沖縄の地上戦は、なかった、かもしれない。三種の神器の裏話(物神化そのもの!)を聞いたら、“英霊”や無辜(むこ)の死をとげた人たちは、何と思うだろう・・・。

 同じ事が、今、起きているのではないか。東京オリンピックの意義を問われた首相の答弁は、この間、「震災からの復興五輪」→「人類がコロナウイルスに打ち克った証」→「平和の祭典」と二転三転し、先日ひらかれた党首討論では、何も答えなかった(答えられない?)。1年にわたる政府の無為無策(あるいは意図的な?)がひきおこした後手後手のドタバタ劇では、一万四千余名(6/13時点)が亡くなり、適切な医療を受けられずに無念の想いを抱いて逝った人も、少なくあるまい。

 世論調査では、国民の8割が中止または延期を望んでいるのに、なしくずし的に五輪に“特攻”しようとするのだろうか・・・。

 

 なぜ、二度までも(2011年のフクシマも含めて、三度目という人もある)繰り返されるのか?「
問題はどこまでも超(スーパー)近代と前近代が独特に結合している日本の「近代」の性格を私達自身が知ることにある」(同上書 p.6)という丸山の指摘が正鵠を射ていると思うが、『日本の思想』に所収された1958(昭和38)年の講演〈「である」ことと「する」こと〉では、シェークスピアの戯曲『ハムレット』の言葉を引用して次のように語られている。

 「
「プディングの味は食べてみなければわからない」という有名な言葉がありますが、プディングのなかに、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います。身分社会を打破し、概念実在論を唯名論に転回させ、あらゆるドグマを実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威にたいして、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックスは、まさに右のような「である」論理・「である」価値から「する」論理・「する」価値への相対的な重点の移動によって生まれたものです。もしハムレッ卜時代の人間にとって“to be or not to be”が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ“to do or not to do”という問いがますます大きな関心事になってきたといえるでしょう。

 もちろん、「『である』こと」に基づく組織(たとえば血族閲係とか、人種団体とか)や価値判断の仕方は将来とてもなくなるわけではないし、「『する』こと」の原則があらゆる領域で無差別に謳歌されてよいものでもありません。しかし、私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定するーつの基準を得ることができます。そればかりでなく、たとえばある面でははなはだしく近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなるのではないでしょうか。
」(同上書 pp.173-175)

 個人としての責任を問われることのない近代以前の「ある」論理と、個人としての責任を自覚した近代以降の「する」論理の対比は、あざやかな切口であると思う。が、丸山自身ーー私の憶測にすぎないがーー言いつくせぬものを、感じていたのではないか。

 というのも、先の講演から十数年後に発表された論文〈歴史意識の「古層」〉において、「なる」論理が提起されたからである。この論文の趣旨については、こう述べられている。

 「
いわゆる記紀神話、とくにその冒頭の、天地開闢から三貴子誕生に至る一連の神話に、たんに上古の歴史意識の素材をもとめるにとどまらず、そこでの発想記述様式のなかに、近代にいたる歴史意識の展開の諸様相の基底に執拗に流れつづけた、思考の枠組をたずねる手掛りを見よう」(『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫 pp.335-336)とある。

 具体的には、丸山は、『古事記』と『日本書紀』を題材に、江戸時代の国学者・本居宣長
(もとおり・のりなが 1730-1801年)を援用しつつ、彼が見出した三つのキーワード「なる」「つぎ」「いきほひ」について、詳述している。

 私は中でも「基底範疇のA」と表記された「なる」論理について注目したい。丸山は書く。

 「
生・成・変・化・為・産・実などがいずれも昔から「なる」と訓ぜられ、それらの意味をすべて包含してきたということは、たんに日本語の未分化とか、漢字の本来の意味への無関心というだけでは片附けられない。古代日本人にとって、これらの意味すべてを包括する「なる」のいわば原イメージがあったのではないか。さらにいえば、生誕・所生を意味する「生(な)る」はまた「生(あ)る」とも訓ぜられ、今度は「ある」というコ卜バについて見ればそれはまた存・有という字にも適用され、他方で、これまでかくれていたものが顕在化するという意味での「現(あ)る」にも通じている(現人神(あらひとがみ)の「現」)。こうした漢字の使用法は、たんに無法則な流用ではなくて、やはりそこに発想の一定の傾向性が潜んでいるのではなかろうか。」(同上書 pp.363-364)

 私は丸山が考究した「する」「ある」「なる」を、整体の内観技法が措定
(そてい)する三つの心、頭の憶・胸の情・腹の性に対置させたい誘惑にかられる。

 こころ:する・ある・なる

 ハムレットになぞらえて言うと、「する」は to behave(be+have)、「ある」は to be、そして「なる」は to become(be+come)である。

 まず「する」であるが、ロシアの作家レフ・トルストイ
(1828-1910年)の著した民話集に、『人にはどれほどの土地がいるか』という短編がある(岩波文庫『トルストイ民話集 イワンのばか』に所収)。

 農夫パホームは、悪魔にそそのかされて広い土地を手に入れようと、パシキール人の村まで出かけてゆく。「千ルーブリ払えば、一日まるく(!)歩いた分だけ全部あなたのものになります。ただし日没までに出発点にもどって下さい」という条件で、日の出とともに歩き始める。

 最初のうち意気ようようと歩を進めていたパホームだが、そのうち暑さに体がへたってくる。もう戻ろうかという思いがよぎるが、もう少し、もう少しと欲が勝つ。何とか四角(!)に区切る目印の角
(かど)を三つまで作って、ようやく戻り始める。

 日が没しようとするまさにその瞬間、出発地によろよろとたどりついたパホームは、そこで息絶えてしまうのだった・・・。

 これは欲望のいましめを説いた宗教倫理的な寓話だろうが、人間の所有(have)は観念(憶)の産物にすぎず、“人は本来無一物”を暗示してはないだろうか。人間は歩く――主体的に――いきものである。でも、過剰な頭でっかちは、いのちを滅ぼす。

 一方、「なる」であるが、たとえば「赤ちゃんをゲット!」とは言わない。赤ん坊は、こうのとりが運んで来る(come)。お迎えが来て、人は仏
(ほとけ)に成る。生き死にの大本(おおもと)としての性は、客体的である。

 このように、頭の主体性と腹の客体性の間で、日々、バランスをとろうともがき苦しんでいるのが、胸の情(狭義の心)ではないだろうか。ハムレットのセリフを借りれば、

 To behave, or to become : that is the question.

 ここから、私の想いは、さらに飛躍する。三種の神器(剣・鏡・玉)とは、からだの勘覚としての三つの心、□△○を具象化したものではないか、と。

 人間は立つことによって、手(前足)が自由になり、脳が発達して今日の文化文明を築きあげた。それは一言でいって、母なる地球との“へそのお”を断ち切る作業だったのだ。

 「たつ」は漢字で立・断・絶・建・裁と表記されるが、根元的なこしの勘覚>たつ>たち(太刀)>剣が、「する」□にふさわしいだろう。

 一方、根元的なはらの勘覚>子宮>子球>玉は、「なる」○になる。

 「する」と「なる」、すなわち頭の憶と腹の性を上下から映す合わせ鏡としての存在が、胸の情(狭義のこころ)△である。この鏡を、個人から社会(共同体)へ、時間的空間的にひろげて記述したのが、『水鏡』
(みずかがみ)などの中世の歴史書ではないだろうか。

 日本文化(より正確にいえば、倭
(やまと)文化)を生きた人々は、共通勘覚として、剣・鏡・玉を感じていたのでは、と思われる。

 ならば、今を生きる私たち現代日本人のからだの中に、いわばDNAとして三つの勘覚が遺されている可能性も、否定できないのではないだろうか(何の根拠もない、ことば遊びにすぎないと言われてしまえば、それまでです)。

 私は天皇制廃止論の立場であるが――日本国民が真に自立し、天皇(家)が人間的に解放されることを願って――丸山の言う「超近代と前近代が独特に結合している」日本文化共同体で、だれもが活き活きと生きられる社会を創るためには、近代が生んだ価値〈自由・平等・友愛〉に立脚しつつ、近代主義によって前近代を全否定しない(逆に、復古=反動にも陥らない)事が大切ではないだろうか。そのためには、一人ひとりがいのちの客体性を自覚(自ずからなる覚醒)し、みずからの内なる――こう言ってよければ――霊性
(スピリチュアリティ)を、天皇制やその代替品に仮託しないことが求められていると思う。

 

 敗戦をむかえる四ヶ月ほどまえ、帝国海軍の“不沈”戦艦大和は沖縄に向けて海上特攻に出撃した。吉田満
(よしだ・みつる 1923-1979年)は学徒出陣の下士官として乗船し、戦後に小説『戦艦大和ノ最期』を著した。評論家・加藤典洋(かとう・のりひろ 1948-2019年)が1997年に発表した『敗戦後論』(講談社)には、吉田の書を引用して次のような記述がある。

吉田満は『戦艦大和ノ最期』にこのような少壮士官の言葉を記録している。

 大和が出航し、しばらくして士官室に若い士官たちが集まり、この作戦の行く末が論じられる。この作戦は、軍事的にはほとんど無意味な自殺行為だ、という点で皆の意見が一致するが、と、ぽつりと一人の士官、哨戒長である臼淵大尉がいう。

 進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギ夕 (中略)敗レテ目ザメル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺夕チハソノ先導ニナルノダ

 この大尉に吉田はー度、部下に優柔不断な態度を見せた時、間髪を入れず、殴られたことがあった。臼淵はこの時二十一歳、兵学校出身の根っからの軍人である。

 ところで、たとえ一人であれ、わたし達がこのような死者をもっていることは、わたし達にとって、一つの啓示ではないだろうか。死者は顔をもたなければならないが、ここにいるのは、どれほど自分たちが愚かしく、無意味な死を死ぬかを知りつつ、むしろそのことに意味を認めて、死んでいった一人の死者だからである。
」(同上書 pp.61-62)

 私はこのくだりを読むたびに、涙ぐんでしまう。

 そして、もう一人、フィリピンの密林で二十三歳で戦死した竹内浩三
(たけうち・こうぞう 1921-1945年)は、生前に遺(のこ)した詩「骨のうたう」でこう詠っている。

 
戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 とおい他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や
(後略 『竹内浩三全作品集』藤原書店 p.101)

 同じく、詩「日本が見えない」の最後の一節は、こう終わっている。

 
日本よ
 オレの国よ
 オレにはお前が見えない
 一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
 なんにも見えない
 オレの日本はなくなった
 オレの日本がみえない
(同上書 p.18)

  竹内 浩三

 軍服姿の、どことなく皮肉っぽい、批評性にみちた竹内の視線は、私を射る。
2021/06/20 記)
 
三つの目と「離見(りけん)の見」
 私の住む町内に、老舗(しにせ)の仕出し屋さんがある。そこの店主がまさに「大将」と呼ぶにふさわしい恰幅(かっぷく)と声の持ち主で、毎夕、楽天堂の前をとおって銭湯通いをしている。いつしか私と声をかわすようになり、何故か大将に気に入ってもらえた。

 趣味人で、店が休みの日には、早朝から郊外にバードウオッチングに出かける。「そりゃあ、かわいいもんでっせ」。そして、金剛流の謡
(うたい)を習っているという。芸事(げいごと)の世界では“あるある”なのだろうが、師匠の演能会のチケットを――半ば強制的に――割りあてられて、さばけずに自腹を切ることもあるそうだ。

 そんなおこぼれにあずかって――「高柳さん、どうぞ観に行っておくれやす」――五、六千円もする、自分ではとても買えない券をタダでもらって、一人であるいは大将とつれだって、京都御苑に隣接する金剛能楽堂に何度出かけたことか。

 観能の初心者である私には、あらすじは追えても詞章は分からないので、整体の学びになるような、能役者の動きを目で追っているだけだった。ある時、舞台に目をやっていた私は、シテ(主役)が泣いているように感じた。そんな仕草をしたのでもなければ、能面の眼孔
(がんこう)から水滴が落ちるのを見たわけでもない。視覚ではなく、からだの勘覚でとらえた、としかいえない体験だった。

 面を付けるー素面
(しらふ)を隠すのは、演者も見者も、肉体を越えた世界の時空を共有するために、あえて“肉眼を消す”ためだろうか、と思ったものだ。

 

 整体の内観技法では、三つの心に、それぞれ目があると措定している。頭の憶(こころ)には肉眼、胸の情(こころ)には心眼、そして腹の性(こころ)には離眼である。

 三つの目

 私が「離眼」という一般的でない言葉を考えるようになったのは、室町時代の能楽師・世阿弥
の書いた能楽論『花鏡』(かきょう)に触発されたからだった。世阿弥は、「舞声為根(ぶしょういこん)」という章で、次のように述べている。

 
「また、舞に、目前心後(もくぜんしんご)と云ふことあり。「目を前に見て、心を後に置け」となり。これは、以前申しつる舞智風体(ぶちふうたい)の用心なり。見所(けんしょ)より見る所の風姿(ふうし)は、わが離見(りけん)なり。しかれば、わが眼(まなこ)の見る所は我見(がけん)なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなはち見所同心(けんしょどうしん)の見なり。その時は、わが姿を見得(けんとく)するなり。わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども、目前(もくぜん)左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗(しょく)なる所をわきまへず。

 さるほどに、離見の見にて、見所同見
(けんしょどうけん)となりて、不及目(ふぎゅうもく)の身所(しんしょ)まで見智(けんち)して、五体相応の幽姿(ゆうし)をなすべし。これすなはち、心を後に置くにてあらずや。かへすがへす、離見の見をよくよく見得して、眼、まなこを見ぬ所を覚えて、左右前後を分明(ぶんみょう)に案見(あんけん)せよ。さだめて花姿玉得(かしぎょくとく)の幽舞に至らんこと、目前の証見(しょうけん)なるべし。 
    
 担板感
(たんばんかん)に云はく、「そうじて舞・働きに至るまで、左右前後と納むべし。」

 ―以下、現代語訳―

 「また、舞に「目前心後」ということがある。「目を前につけ、心を後に置け」という意味である。これは、前に述べた舞智の演じかたにおける心がけである。観客席から見る役者の演技は、客体化された自分の姿である。つまり、自分の意識する自己の姿は、我見であって、けっして離見で見た自分ではない。離見という態度で見るときには、観客の意識に同化して自分の芸を見るわけであって、そのとき、はじめて自己の姿というものを完全に見きわめることができる。自分の姿を見きわめることができれば、前後左右、どこだって完全に見るわけである。けれども、自分の眼で自分の姿を見れば、目前と左右とだけは見られるが、後姿はわからない。自己の後姿が感じとれなければ、たとえ姿に洗練を欠く点があっても、よくわからない。

 だから、いつも離見の見をもって、観衆と同じ眼で自己の姿をながめ、肉眼では見えない所までも見きわめて、身体ぜんたいの調和した優美な姿を完成しなければならない。そして、これは、すなわち、心を自己の後に置くという次第ではないか。どこまでも、離見の見ということをよく理解体得し、「眼は眼自身を見ることができない」筋あいを腹に入れて、前後左右を隈なく心眼で捉えるようにせよ。そうすれば、花や玉のように優美な芸の理想境に到達することは、はっきり立証されるであろう。

 
担板感に「すべて、舞や動作に到るまで、左右前後と破綻のないようにせよ」とある。」(小西甚一編訳『世阿弥能楽論集』たちばな出版 pp.198-199)

 世阿弥の「我見」を「肉眼で見る」、「離見」を「離眼で見る」に私はおきかえてみたい。すると、「見所同心」とは、整体でいう主客合一の感応の世界(はら・こしの手で他者にふれた際に生まれる、自他の境界=分別を越えたいのちのまじわり)ではないか。

 ここで一つの疑問が生じる。世阿弥は何故「離見の見」と、見をくりかえしたのだろう。ただの強調とは思えない。

 離れて見る、ことを見るとは?

 

 観世寿夫

 時代は数百年下って、現代の能楽師・観世寿夫
(かんぜ・ひさお 1925-1978年)は、世阿弥との対話から、次のように語っている。

「能舞台という、吹き抜けの、宇宙的空問の中に、一つの存在として立つ実感。それは自分の中の内的な力によって、劇空間の中の不確定なものを、いかにして極限にまで切りつめるかということに外ならない。言いかえれば、役者の奥底から立ち現われる何ものかが必要である。そしてそのためには、役者を固有の個性から無人称的なところへ持っていってしまう方法が要る。その上で「井筒の女」にも「式子内親王」にも「羽衣」の「天女」にもならなければならない。そこで獲得する舞台上の実在感。演者の内面が咲かせる見事な花。それこそが『九位』の最高位、「無心の感、無位の位風(ゐふう)の離見こそ、妙花にや有(ある)べき」といわれる「妙花風」であり、『六義(りくぎ)』の中では、意識を超越して発現するものと説明している境地といえよう。夢幻能はこうした演技を要求し、こうした演技はまた、夢幻能でこそ「妙なる花」と生きる。」(観世寿夫『心より心に傳ふる花』白水社 pp.46-47)

 
「能の役者は役に化けるのではなく、役を通して、生きている証言をするのだと先にも書いた。人間の生きざまを、舞台にさらすのだと。(引用者注――世阿弥の説いた)「ニ曲三体」論は、ただ勝手気ままに生きざまをさらしてみせるムササビではなく、人間の生身を濾して濾し抜いて、本来の人間性を洗い出し、舞台から「人間」を訴えようとするための、実際的な方法論に他ならないと思う。」(同上書 p.90)

 心眼という“ざる”をとお(通・透・徹)して、肉眼(我見)から離眼(離見)へと降りたとき、はじめて人間のナマ身が現れる。しかし、一度濾
(こ)しただけでは不十分なのだ。観世が「濾して濾し抜いて」と言っているのは、単なる強調ではあるまい。もう一度、濾す手順が必要になる。

 なぜなら、主客一体の世界を産みだしたうえでなお、能役者は舞台で演じつづける=場を創る――主体として表わす――役目があるのだから。下降とは逆の、離眼から心眼をフィルターに肉眼へといたる、この上昇の過程こそ、世阿弥が「離見の見」と念をおしたゆえんではないだろうか。

 この両者に共通する(と思われる)方法論は、何も能という技芸だけに限られたものではないだろう。映像作家で元NHKディレクターの佐々木昭一郎
(ささき・しょういちろう)氏は、素人の俳優を使い、しかも一回だけの撮影で作品を撮ってきた氏の創作論を次のように語っている。

 
「まず、自分がいる。その自分の一種時相的な記憶から、心的原風景と言われるようなものを引っぱり出してくる。しかし、その段階ではまだナマなんです。そのままでは“表現”にならない。それを自分の中から一度取り出して、眺める。真実になるかどうか。そうでなければ、みんな現実にそれなりの物語を背負って生きているから、日本に人口が一億いるとしたら、一億みんな詩人や物書きになってしまう。

 ナマのものは、最初脚本を書いたとき、「私」と言ってみるとわかります。「彼」とか「彼女」とか、人称をごまかすと、ちょっとボーッとしてわからなくなるけれど、「私」と言ってみると、それがナマかどうかよくわかる。そういうものは、外国人に見せるといっぺんでダメです。翻訳できないんです。英語でもフランス語でもそれだけシビア。それじゃ夢がないと言うかもしれないけれど、決してそうではなくて、日本語の持っている曖昧な表現というものもひっくるめてナマなんです。日本的優しさというのかな、そういうものをまずソギ落としていかなければならないとぼくは思っています。で、その段階で、自分の中の記憶の事実が想像カを補足的に加えてフィクションを生み出していく。ぼくの家に昔、ピアノが一台あってそれが燃えた、というのは事実なんです(『四季・ユートピアノ』
注1)。でも、それだけでは絶対ダメで、それをバネにしてどうフィクションにしていくか、そこのところが勝負になる。」(『創るということ』新装増補版 宝島社 p.21)

 『四季・ユートピアノ』
 『四季・ユートピアノ』 
      『四季・ユートピアノ』


 内観技法では、〈裏〉と〈表〉を、からだの勘覚の根本概念としてとらえている。〈裏〉とは“はら”を礎にした客体性・受動の勘覚であり、〈表〉とは“こし”を礎にした主体性・能動の勘覚である。〈裏〉は腹の性(こころ):現れる、〈表〉は頭の憶(こころ):表わす、ともとらえられる。

 すると、ナマが現れるのを――濾し抜いて――表わすというのは、裏付けられた・裏打ちされた表を生きる、ことになるだろう。ここに、表現(活動)の本質がある、と私は思う。 

 

世阿弥はその能楽論集を“秘伝”という形で遺
(のこ)した。また観世寿夫も、後に続く少数の者たちに向けて語っているように思われる。では、佐々木氏は?「持って生まれたもの」という身も蓋もない話なのだ。それでは我々持たざる者たちはどうすればいい?

 詩人の山尾三省
(やまお・さんせい 1938-2001年)は、若き日に「神を見よう」と東京から屋久島に移住した動機を、十九世紀のインドの聖者・ラーマクリシュナ(1836-1886年)の次の言葉にあったと回想している。

 
「神を求めて泣きなさい。夜も昼も神を求めて泣きなさい。あなたが泣くほどに神を求めれば、必ず神を見ることが出来ます」(山尾三省『アニミズムという希望 講演録・琉球大学の五日間』野草社 p.24)


 「求める」という能動性と「泣く」という受動性、その二つを同時に生きる隘路
(あいろ edge)を歩み続ければ、神=ナマ、霊性(スピリチュアリティ)は、現れる・・・。

 野球のイチロー氏も語っている。2009年のWBC(World Baseball Classic)の決勝戦で、スランプに陥っていたイチロー選手が、プレッシャーに抗して最後に決勝打をはなった後のインタビュー: 
「僕は持ってますね。神が降りてきました」

 そう、神は天から地へ、からだの内を、憶(こころ)から性(こころ)へと、下りてくるのだ。 降臨は、誰にも、ある。人間として、からだを持つかぎりは――
「衆生(しゅじょう)本来仏なり」( 白隠禅師)。

 では、下降から上昇にいたる次のプロセスに必要な「表わす」第二のザルは?広く芸能の世界では、先人によって培
(つちか)われてきた「型」(表現スタイル)と、師の存在という“重石”(おもし)ではないだろうか。それでは、“芸能人”ではない者にとって、型にあたるものは、どのようにして?

 私が思うに、日々の人生劇場(誕生:この世に現れ、死の大団円まで生きる:表わす、私たちの一生そのもの)で、「どこまで深く―性(こころ)へと、どこまで広く―他者と、共演できるか」と常に問い続けるなかで、自
(おの)ずと――その人なりの個性派俳優(!)として――形をなすのではないだろうか。(注2)

 

 『心より心に傳ふる花』の本を、私はwebで検索してある古書店に注文した(1979年発行の絶版本なので)。手元にきたとき、驚いた。パラフィン紙で包まれた、ショーウインドーにでも飾られているような、極上美品だった。よろこんだのもつかのま、落胆した。パラパラとめくると裏表紙に、「○○様 関弘子」というサインが書かれていたのだ。

 何だ、献本か、どうりで相場より安かったはずだ(本屋の説明にはなかったゾ)とがっかりしたが、「あとがき」を読んでまた驚いた。

 この本は、病床にあった観世寿夫の聞き書きがメインになっているのだが、彼の口述(絶筆となった)を書きとったのが、妻の関弘子だったのだ。

 ギフト(贈与)は、思いがけないかたちで現れる。そして私はこの文章を表わした。人生は、二度、ふるいにかけられる。

(注1)1980年にNHKテレビで放映されたドラマ。
(注2)この下降→上昇の往還運動は、禅の「十牛図」を思い起こさせる。牛に象徴される“真の自己”をさがして旅に出(往相 おうそう)、悟りを得て(=牛にまたがり)俗世界に戻って(還相 げんそう)、居士
(こじ)として生きる絵である。

 第六図「騎牛帰家(きぎゅうきか)」(京都・相国寺蔵) 
第六図「騎牛帰家(きぎゅうきか)」(京都・相国寺蔵)

2021/09/20 記)

(七)「右と左、“ドザイ 東西”」

 私が住む近辺は、“西の寺町”と言われるほどお寺が多い。ある朝、散歩をしていて、浄土宗の寺の門前で、一首の和歌を見かけた。

 「
月影のいたらぬ里はなけれども 眺むる人の心にぞすむ

 すむは、「住」か「澄」かなどと考えながら家に帰ってから、webで検索してみた。すると、浄土宗開祖の法然上人
(ほうねんしょうにん 1133ー1212年)の歌で、阿弥陀仏の慈悲は月の光のように万人にふりそそいでいるが、目を向ける者(=「南無阿弥陀仏」と唱える者)だけが救済にあずかれる、という趣旨のようだった。

 月の歌といえば、法然と同時代を生きた仏教僧に明恵上人
(みょうえしょうにん 1173ー1232年)がいる。作家の川端康成(かわばた・やすなり 1899ー1972年)は、ノーベル賞の受賞演説『美しい日本の私』で、明恵の和歌を紹介している。
 「
西行を桜の詩人といふことがあるのに対して、明恵を「月の歌人」と呼ぶ人もあるほどで、
  あかあかやあかあかあかやあかあかや
   あかやあかあかあかあかや月
 と、ただ感動の声をそのまま連ねた歌があったりします
」(川端康成『美しい日本の私』講談社現代新書 pp.8-9)

 あかは、「明」か「赤」か・・・。禅定(ぜんじょう)で研ぎ澄まされた心身にうつる月が、峻烈(しゅんれつ)な表現になっている。

 法然が日本浄土教の始祖になり、のちにその流れをくむ浄土真宗が歴史的にも組織的にもおおきな存在になったのに対して、華厳宗に属していた明恵は――当時は名僧とうたわれ、慕う弟子も多かったようだが――教祖になることはなく、教団も形成されなかった。むしろ、浄土宗などの“鎌倉新仏教”と対立する、いわば守旧派(旧仏教)の代表者と目される僧であった。

 しかし心理学者の河合隼雄
(かわい・はやお 1928-2007年)によれば、明恵は私たちに大きな“遺産”をのこしてくれた。生涯にわたって書き続けられた夢の記録である。河合によれば、明恵は夢を持ち上げることも持ち下げることもせず、つまり近代人的な合理主義の精神で解釈を行い、文字どおり実生活と夢生活をリンクさせて生きたのである。

 河合の著書『明恵 夢を生きる』(京都松柏社)は、明恵の残した『夢記』
(ゆめのき)や弟子が書いた『高山寺明恵上人行状』『栂尾(とがのお)明恵上人伝記』などの資料を、ユング派の立場から夢分析し、明恵がどのように生き抜いたかを、明らかにしている。

 『明恵 夢を生きる』
 
 『明恵 夢を生きる』

 私はこの本を読みながら、テレビのホームドラマのようなたわいのない夢しか見られない我が身にくらべて、明恵の深く、烈
(はげ)しい夢に、ためいきしか出なかった。

 一言でいうと、明恵は釈迦に会おうとした――二度までも天竺(インド)行きを試みて断念している――会えないまでも、釈迦の教えを忠実に生きようとしたのだ。実際、仏道を志す者が第一に守らなければならない婬戒(いんかい=女性との性交を禁じること)を、生涯おかさなかったのである。「隠すは上人、せぬは仏」(by 後白河法皇)と揶揄
(やゆ)されたように、当時から破戒僧が横行した世相にあって、明恵は希有な存在であった。

 明恵の強い意志をあらわすエピソードに、“耳切り事件”がある。二十四歳の時に、彼は仏前で自ら片耳を切り落とすのである。前掲書で河合は、次のように明恵の言葉を引用し、なぜそのような行為をおこなったかの解釈をしている。

 「
剃髪や僧衣を着る意味がほとんど失われているとするならば、なんとかして自分の姿を変え、俗世間から離れて仏道への志を確立しよう、と明恵は考えた。しかし、眼をつぶしてはお経を読めなくなるし、鼻をそいでは鼻水が落ちてお経を汚すであろう。手が無くなると印を結ぶことができなくなる。そこで、耳を切れば、耳は切っても聞こえるために法文を聞くのに不自由はないので、耳を切ることを決意する。このような決意に至るなかで、明恵は、耳を切ることは「五根の闕(か)けたるに似たり。去れども、片輪者にならずば、猶も人の崇敬に妖(ばか)されて、思はざる外に心弱き身なれば、出世もしつべし。左様にては、おぼろけの方便をからずば、一定(いちぢゃう)損とりぬべし」(『伝記』)と考えている。自分は気が弱いので、人の崇敬に乗って出世してしまうだろう、というところが、いかにも明恵らしい。

 明恵はこのように考えた後に、「志を堅くして、仏眼如来の御前にして、念誦の次
(つい)でに、自ら剃刀を取りて右の耳を切る。余りて走り散る血、本尊并(ならび)に仏具.聖教等に懸(か)かる。其の血、本所に未だ失せず」といわれるような凄まじい行為をするのである。(中略)

 明恵はこれまで、母なるものの世界にひたり切るような生き方をしていたのだが、ここでその世界を出て、父なるものの世界とも接触する必要が生じてきた。彼が極めて内向的な性格であることは明らかであるが、いつまでも自分だけの世界に留まらず、社会と接触し、他人のためにも大きい仕事をする運命をもっていた。そのためには、母性性のみならず父性性をも合わせ持つ人格となることが必要であり、そのような強さを獲得するために、白上の峰での荒行が必要だったのである。そして、その完結のためには、今まで一体であった母なるものに対して捧げるべきいけにえが必要であったし、父性的な強さを立証するための試練に耐えることも必要であった。これらの意味をかねそなえた自己去勢の行為として、明恵の耳を切る行為を解釈することが妥当のように思われる。

 他から加えられる去勢は、文字どおり、その個人の男性としての力を奪い去るものである。母なるものは、自分の息子たちの自立を望まず、いつまでも母なるものの子どもたちとして膝下に置こうとするとき、息子たちを去勢してしまう。父性的な厳しさをもった釈迦の説いた仏教は、日本に移入されてくると日本における母なるものの強さによって去勢されてしまい、つぎつぎと破戒僧を生み出し、明恵が嘆くように、その時代においては淫戒を守る僧がほとんどいなくなってしまった。ここに、淫戒を破る行為は、肉体的な男性性を保持し、そのために精神的男性性を棄て去ることを意味している。明恵は、あくまでも精神性を追求するために、肉体的次元における自己去勢を行なったのである。自己去勢には、このように、激しい精神性への希求がこめられている。
」(同上書 pp.127-129)

 何というイニシエーション(通過儀礼)であろうか。後年、明恵が臨終の時にのこした最期の言葉が、「
我、戒ヲ護ル中ヨリ来ル」であった。

 『明恵上人樹上坐禅像』(高山寺)
 
 『明恵上人樹上坐禅像』(高山寺) 

 それにしても、なぜ右の耳なのか?

 

 西洋にも一人、耳を切り落とした男がいた。画家のヴィンセント・ファン・ゴッホ
(1853-1890年)である。プロテスタントの牧師の家に生まれたゴッホは、一度は牧師を志すが挫折し、独自に絵を学び、描き続けたが、生前は一枚しか買い手が見つからなかった。ゴッホにとって、絵画は目的ではなくあくまで手段であった。何のための手段かというと、自己探求=イエス・キリストの福音を伝え、“イエスにならひて生きる”ための、彼自身の表現(自己実現)ではなかったのか、と私は思う。

 ストレートな題名をまとっている『ゴッホの耳―天才画家最大の謎―』(バーナデット・マーフィー著 早川書房)の解説で、精神科医の斎藤環
(さいとう・たまき)氏は、まず次のように事件についての定説を紹介している。

 「
ゴッホはゴーギャンをパリから呼び寄せ、共同生活をしていたが、二人の強烈な個性は相容れなかった。口論の末にゴーギャンが家から出て行くと、ゴッホは力ミソリを持って彼を追い、その後《黄色い家》に帰って自らの片耳を切り落とし、これを娼婦に届けるという奇行に及んだ。ゴッホは病院に収容され、やがて傷も癒えて帰宅するが、ゴッホの狂気を恐れたアルルの住民たちが市長に請願書を提出し、ゴッホは精神科病院に入院させられる。

 ……これがこの事件の従来の理解である。
」(同上書 p.355)

 しかし、マーフィー女史の丹念な探索によれば、ゴッホが耳を渡したのは娼婦ではなく、娼館に出入りしている若くて貧しい掃除婦であり、「
ゴッホにとってあの耳は、彼女の苦しみを和らげるつもりで贈った心からのプレゼントだった。この特異な行為から、ゴッホについてこれまで見すごされてきた大切なことがわかる。それは、利他の心である。ゴッホは、思いやりがあり、感受性が強く、異常なほど共感能力の高い人間だった。」(同上書 p.342)

 それでは、ゴッホがわずらっていたとされる“心の病”ゆえの狂気なのだろうか。当時は、いわゆる精神病は「てんかん」とひとくくりにされ、しかも狭義のてんかんでさえも有効な治療薬が存在しなかった。

 斉藤氏は、ゴッホはてんかんの発作に苦しんでいたのではないかと推測しているが、しかし、と続けて言う。
 「
てんかん患者は、発作の前兆として「アウラ体験」と呼ばれる現象を経験することがある。それはしばしば、視覚的な変容として表れるとされている。ゴッホの代表作の一つである『星月夜』の描写は、こぅしたアウラ体験における視覚変容が反映されている可能性がきわめて高い。そこには具体的な宗教的モチーフが描かれていないにもかかわらず、ある種の宗教性、象徴性を強く感じさせる「強度」がある。

 『聖月夜』
      
『聖月夜』

 それならば、やはりゴッホの創造性は病的なものなのだろうか。おそらくそうではない。体験を作品に結びつける「健康な創造性」こそが、ゴッホの本質にあるからだ。発作の渦中にあるときに、作品制作は不可能である。画家ゴッホには、自身の「病的」なビジョンですら創造性に転換できる「健康さ」があった。私にはそう思われてならない。
(中略)

 
本書を読み終えた今、私はつくづくゴッホという天才の「強靱さ」に感じ入っている。彼の不幸は幼少期からはじまった。生後まもなく死んだ長兄に対する母親の悲嘆はなかなか癒えず、ゴッホは長らく死児の代理の位置にあった。その後の彼の人生も挫折の連続だった。仕事は続かず、経済的には弟テオにずっと依存せざるを得なかった。激しい愛情飢餓を抱えながらも、ついに伴侶には恵まれなかった。理解し合えるはずだったゴーギャンは、彼の熱情に怯えるかのように去っていった。その名前すら正しく記されず、溢れんばかりの才能を発揮しながら、生前はほとんどまともに評価されなかった。不安定な境遇に宿痾としての精神障害が加わり、ようやく見出した安住の場所である《黄色い家》からも、周囲の住民の排斥(という思い込み)によって追われてしまった。

 
これほどの不遇と孤独にもかかわらず、ゴッホは画家として活動したわずか一〇年間ほどの間に、ニ〇〇〇点近い作品を制作している。しかも主要な代表作は、もっとも不幸だったとも言える晩年の約ニ年間に集中して描かれている。春のアルル地方に吹くというミストラルのように激しい創造力の源泉は、彼の病と言うよりは、彼の健康さ、あるいはレジリエンス(病に抵抗するカ)によるとは考えられないだろうか。」(同上書 pp.357-359)

 レジリエンス・・・病の先には死がある。ゴッホは生と死、そして自らの病を、どのように考えていたのか。小林秀雄『ゴッホの手紙』(新潮文庫)を読むと、ゴッホ自身の自己分析として、次のような弟テオ宛の手紙が引用されている。
 
 「
この事こそ、僕の精神錯乱の最初にして、又最後の原因だ。君は或るオランダの詩人の言葉を知っているか、『私は地上の絆(きずな)以上のものでこの大地に結び付けられている』、これが、苦しみ乍(なが)ら、特に所謂(いわゆる)精神病を患(わずら)い乍ら、僕が経験した事である」(No.581)」注(同上書 p.143)

 そして、死の一年前、『刈入れ』という絵についての自己解説で、ゴッホはテオ宛に次のように語っている。
 「
仕事はうまく行っている、身体の具合が悪くなる数日前に始めた一つのカンヴァスと、今、悪戦苦闘している。《刈入れ》という全部黄色の習作だ。恐ろしく厚く描かれているが、主題は美しく単純なのである。暑熱の唯中(ただなか)で、仕事をやり上げようと悪魔の様に戦っている一人の判然としない人間の姿、この刈る人に、僕は、死の影像を見ている、と言うのは、人間共は、こいつが刈っている麦かも知れぬという意味でだ。今度のは以前に試みた麦刈りの真反対だと言いたければ言ってもいいが、この死には悲しいものはすこしもないのだ。あらゆるものの上に純金の光を漲(みなぎ)らす太陽とともに、死は、白昼、己れの道を進んで行くのだ。……さあ、《刈入れ》が出来上った、君が手許(てもと)に置いていい絵の一つだと僕は思うよ。自然という偉大な本の語る死の影像だ、だが僕が描こうとしたのは殆ど微笑している死だ。紫色の岡の線を除いては、凡(すべ)てが黄色だ、薄い明るい黄色だ。獄房の鉄格子越しにこんな具合に景色が眺められるとは、われ乍ら妙な事だよ。扨て、今僕が抱き始めた希望とはどんなものか、君には解るかな。僕にとっての自然、土くれや草や黄色い麦や百姓は、君にとっての家庭の様なものだろうという希望だ、と言うのは、君は人々に対する君の愛の裡(うち)に、必要とあれば、ただ人々の為に働くばかりではなく、自分を慰め、自分を建て直す何物かを見付けてよろしい、という意味だ」(No.604)」(同上書 pp.167-168)

 さらに、ゴッホの遺作とされる二枚の麦畑の絵があるが――一枚の『烏のいる麦畑』は人気のない麦畑のうえを烏(死の象徴?)が群れ飛んでいく構図で、もう一枚『荒れ模様の空の麦畑』では、烏さえも消えてただ麦畑がひろがっている――私はこの絵を見ると、新約聖書『ヨハネによる福音書』のイエス・キリストの言葉を思い浮かべる。「
一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし

 『荒れ模様の空の麦畑』
  
  『荒れ模様の空の麦畑』

 ピストル自殺をしたゴッホの最期の言葉は、次のようであったという。

 「
翌日、勤先きで報(しら)せを見て馳(は)せつけた弟に看取られ、廿九日の午前一時半、ゴッホは死んだ。最後の言葉は「扨(さ)てもう死ねそうだよ」という言葉だった、とテオからの手紙にあった、とボンゲル夫人は記している。」(同上書 p.199


 『包帯をしてパイプをくわえた自画像』
『包帯をしてパイプをくわえた自画像』

 耳切り事件でゴッホは左の耳を落としている(『包帯をしてパイプをくわえた自画像』では右耳のように見えるが、これは鏡に向かって描いているためである)。

 それにしても、なぜ左の耳なのか?

 

 私が学んでいる整体の内観技法では、からだの勘覚として左脳-右半身は〈表出〉の勘覚世界を、右脳-左半身は〈受容〉のそれをあらわしている、と捉えている。〈表出〉とは、からだの内から外へ、こしから生まれる能動的な在り方、すなわち――肉体的な性別に関係なく――男性性・父性を、〈受容〉とは、はらから生まれる受動的な在り方、女性性・母性を属性とする概念である。

 この観点からすると、明恵は――河合が指摘しているように――あえて母性を(良い意味で)抑圧し、この地から超越して輪廻転生しないために右耳を切り落としたのに対して、ゴッホは――日本の浮世絵から学ぼうとしていた――絶対的な超越を(良い意味で)拒否し、農夫のように麦粒のようにこの地で生きるために左耳を切り落としたのではないだろうか。

 

 先月(十一月)、腸閉塞で二週間、入院した。幸い開腹手術はしないですんだので、後半は二階の南に面した談話室で、ひなたぼっこをしながら『ゴッホの手紙』を少しずつ読んで過ごしていた。院内では、お年寄りが手すりにつかまりながらリハビリに励んでいる。窓から丸太町通を見下ろすと、車が行き交い、自転車や通行人の姿が見える。人は病み、人は暮らす。ナゼ、生きるのか・・・。

 『ゴッホの手紙』
  
『ゴッホの手紙』

 明恵もゴッホも、バランスを欠いていた。個性といってしまえばそれまでだが、内観的には一方に偏らずに、〈受容〉と〈表出〉 が調和した生き方ができれば ・ ・ ・ 。 そんなことをぼんやり考えていた私は、小林がモネやルノワールの印象派の画家たちからゴッホが受けた影響を考察した一節に、目をうばわれた。

 「
この分析的なimpressionから、どういう総合的なexpressionが可能か。」(同上書 p.103)

 expression=〈表出〉とすると、impression=〈受容〉?、どうもそぐわない。持っていたスマホで、語源をぐぐってみた。im(=in)「内へ」、ex「外へ」、pressionはpress「圧す」の名詞形で、「圧縮」。「外へ圧縮」が一般的な訳語として「表現」なのは分かるが、「内へ圧縮」が、なぜ「印象」になるのか。印象というと、「あるがままに」=「目に見えたとおりに、聞こえたとおりに」というそれこそ印象になる。

 違うのではないか、と私は頬を打たれた気がした。西洋の人々にとって、世界をどのように見るかは、強い意志をともなった主知的な行為なのではないだろうか。まして私が〈表出〉の対概念に〈受容〉をもってきたのは、日本的なあまりに日本的な言葉づかいだろう。それでは、impressionをどのように訳すのか?・・・。
 考えをめぐらしていた私は、はじめて東洋と西洋の間に存在する深い溝に気づいたきがした。そして、ゴッホがどんなに困難な闘いを強いられたか、そのゴッホの苦闘に逆照射されて、明恵の生き様が、胸にせまってきた。

 ふりかえれば『明恵上人樹上坐禅像』は――本人が描いたのではないとはいえ――木々に囲まれて座禅をする明恵を動物たちが見まもるという母性的アニミズム的な絵になっているし――それよりも、虚空(星空)に独り座す明恵像の方がふさわしいのでは――ゴッホの『聖月夜』は、縄文土器に描かれた文様を思わせる気の渦巻きに充ち満ちている。

 私は二人が平衡
(へいこう)を失している、などとは言うまい。誰に批判できようか。明恵は明恵を生きた。ゴッホはゴッホを生きた。そして私は私を生きる。その“わたし”とは?

 

 ゴッホと同じオランダで、17世紀に生きた画家、ヨハネス・フェルメール
(1632-1675年)がいる。数少ない作品のひとつに、『牛乳を注ぐ女』がある。私の好きな一枚だ。

 『牛乳を注ぐ女』
  
   『牛乳を注ぐ女』

 窓から、陽光がさしこんでいる。女性(家政婦といわれている)が右頬でうけている。神(おおいなる存在、名づけえぬもの)の慈光を・・・。

 ポットから、牛乳をそそぐ音が聞こえる。しずかな、ひそやかな、よろこびの。

 乳
(ち)は、地からうまれ、血となり、父をつくる。

 ( )内のNo.は、ゴッホ兄弟の死後、テオ宛てにゴッホが送った書簡を、テオの妻ボンゲル夫人が編纂出版した際に付した通しナンバー。以下、同。

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 一)からだ学び 事始め
 二)ことば遊び
 三)内観技法 覚書



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