【第二稿】
■一年を振り返る、人生を振り返る
今年(2025年)、古希を迎えました。七十歳です。身のまわりでも50代、60代の人が亡くなっているので、どうしても自分の来し方、行く末を考えてしまいます。そんな折りに手にとったのが、松本卓也(まつもと・たくや)さんが書かれた『斜め論』(筑摩書房)でした。同じ頃、〈からだとことばを育む会〉の稽古会でナナメの勘覚を稽古していたので、心身がこの本とシンクロナイズしたのかもしれません。

京都大学準教授の松本氏は、精神病理学が専門で、まだ四十代半ばの若い研究者です。この本の副題には「空間の病理学」とあって、帯には、「ビンスワンガー、中井久夫、上野千鶴子、信田さよ子、当事者研究、ガタリ、ウリ、ラカン、ハイデガーらの議論をもとに、「生き延びと当事者の時代」へと至る「心」の」議論の変遷を跡付ける」―「ケアは、どうひらかれたのか? 垂直から水平、そして斜めへ」と書かれています。
アマゾンのカスタマーレビューで、「精神医療の歴史、特に二十世紀から現代までの歴史を、俯瞰的に知ることができる好著」とコメントしている方がいました。私には“名のみぞ知る”人物や初めて目にした名前も多く、内容を十分に理解できたとは言えませんが、同じような読後感を持ちました。自分が咀嚼(そしゃく)できた範囲で、私なりに著者の論点を整理してみると――
近代の精神医療は、人間が、理想あるいは神へ、垂直方向・タテに向かうこと、いいかえれば自己超越に、人間の本性をみてきました。そのために、医者が上に立って患者を導くという治療スタイル―医者/患者のヒエラルキーを、自明のこととして疑うことがなかったのです。そのような―精神医療に限らない―人間を疎外・抑圧する既存の政治・社会体制に対抗して、1968年にフランスのパリで「五月革命」が起こります。その“異議申し立て”が他の欧米諸国や日本にも波及して、日本では、学生たちによる「全共闘運動」が闘われました。精神医療の現場では、医者/患者のヒエラルキーを否定して、患者の主体性や権利を尊重し保証するという、水平方向・ヨコに向かう治療が試みられました。具体的な実践例として、フランスのウリ&ガタリによる精神病院の「自主管理」や、フィンランドのオープンダイアローグ、日本では、信田(のぶた)さよ子氏によるアディクションアプローチや北海道・べてるの家の当事者研究などがあげられています。
ただ、実践が積み重なるにつれて、ヨコに傾きすぎるのもよくないのでは、という反省点が生まれてきました。例えば、アルコール依存症などの自助会は、患者同士の対話を通して心身の回復や社会復帰がはかられるという貴重な場ですが、ともすれば“仲良しグループ”に陥る危険性が、なきにしもあらず。また―あくまで一般論ですが―人間集団や組織には、常に“○○長”という権威付けや“先輩後輩”といった序列化の力学が、働きがちになります。そのようなタテ・ヨコの二極化を避けるために、永久革命というか、理論と実践の双方において、ちょっとしたナナメの「仕掛け」、意識的な取り組みが必要ではないか、というのが、著者の主張ではないかと思います。具体例をお知りになりたい方は、ぜひ、本書を手にとってみて下さい。
この本を読みながら、実は、私は、議論の展開と自分の人生とを重ね合わせていました。タテからヨコ、そしてナナメへの流れです。他人(ひと)の書いたものに便乗して自分を語るとは、「他人(たにん)の褌(ふんどし)で相撲を取るな」、と言われそうですが、一つの物語として聞いてもらえれば幸いです。
■めぐるめぐるよ、時代は巡る
私は1955年(昭和三十年)生まれですから、松本氏がターニングポイントとする1968年には、十三歳でした。ですから、全共闘より一つ下の世代になります。運動の高揚と挫折を、見ていた年代ですね。私たちは上の世代から、何を学ぶのか――何を継承してどう乗り越えてゆくのか?学生の時から自問自答していましたが、自分なりの答えが、地域で生きる生活者として、地道に具体的な課題に取り組んでいく、という在り方でした。
大学卒業後、私は横須賀で高校の教師をしながら、市民運動や日教組の教研活動に打ち込んでいきました。社会が変われば、自分も変われる、と自らに言い聞かせていたんですが、残念ながらそのような社会的活動、政治的運動では、自分がトータルに解放されることはありませんでした。自分を変えたいという自己超越の欲求が、松本氏の言うハイデッガー主義に陥って、頭でっかちな正義の旗を振り続けたのです。心の奥底でうごめいていた心身を解き放ちたいという欲望には、具体的な術(すべ)が見つからずに、フタをして・・・。二十代から三十代にかけての十年は、まさに私にとってタテの時代でした。
今から思えば―いや、自分でも気づいていたんですが、当時の私には、ウイークポイントが二つ、ありました。経済と身体です。
まず経済についていえば、地方公務員でしたから、働いても働かなくても、毎月、給料をもらっていました。これが今の楽天堂のように日銭(ひぜに)をかせぐ商売だったら、ましてお客さんから直接お金をもらう生業(なりわい)だったら―教師の場合、生徒からですが―もう少し経済というかカネの問題に真剣に向き合っていたのではないか、と思います。人々が、日々、“何処(どこ)に立って何を求めて”生きているのか――英語のLifeの「人生」ではなく、「生活」の意味ですね――分かっていませんでした。そのしっぺがえしを、十年後に、受けるハメになります(笑)。
次に身体ですが、人間にとって、セックス抜きでは人生を語れない、と思います―語らなくてもよいのですが。整体の野口晴哉が、書いていました、「性欲を抑圧すると、どこかで歪みが身体症状に出る」と。私がその典型例で、週末、疲れ切った体と心を癒そうと、夕食後、中島みゆきや豊田勇造のレコードをかけながら、ビールを飲み始めます。酔いがまわってくると、意識の押さえがきかなくなって、普段はみむきもしないピーナッツチョコを、一袋も空けてしまう。翌朝は、二日酔いに胃もたれ・・・。そんなことの、繰り返しでした。今度は三十年後に、大腸ガンとなって、因果応報の報いを受けました(笑)。
私にとって人生の転機は、三十三歳の時に訪れました。タテからヨコへ、180度の―数学的にいえば90度でしょうか、転換です。整体の活元運動を初めて行った時に起こったのですが、その時の体験は別に書いているのでここではくりかえしません(注1)。よくいえば、からだの中から生命力が噴き上げた、reborn−再生、わるくいえば、“常識のタガ”がはずれて気がちがったのでした。勤めを辞め、旅に出て――四国を歩いてお遍路したのが象徴的ですね。四国一周、ヨコの水平運動です。
その後は縁あって、結婚し、縫製業を営んでいた義父が、山口で出店した外国ブランドの洋服店の社長におさまって、働き始めました。世間では、「辞め教師は使い物にならない」というのが通り相場ですが、私はそのハンディを克服すべく、必死でした。何しろ、開店当初から赤字体質、従業員も雇っていたので雇用責任がある、子どもも二人生まれて、家族が喰っていかなきゃならない・・・。中小企業大学校の経営者研修に参加し、簿記も一から勉強してetc.と、ほんとうにカネに追われる日々でした。十年ほど気張ったのですが、最終的には消費税の増税やユニクロなどの台頭が決定打になって、倒産―自己破産に至り、ヨコの時代が幕を閉じます。
続いてナナメの時代―ではなくて、明治維新になります。
■坂本龍馬のようになろう!
話は、今から十数年まえにさかのぼります。〈からだとことばを育む会〉の講習会に参加した三十代の男性から、「僕、なで肩で悩んでるんです」と打ち明けられたことがありました。その時、どう返答したのか覚えてないのですが、後で思い返すと、『幕末 写真の時代』(小沢健志・編 ちくま学芸文庫)という本を教えてあげればよかったな、と思います。この本には、幕末に日本を訪れた外国人などが撮った人物写真が数多くのっているのですが、高杉晋作・福沢諭吉・勝海舟・坂本龍馬のような著名人をはじめ市井(しせい)の人々が、なで肩で写ってるんですね。

この写真は、1866年に撮影された坂本龍馬です。私たちも写真撮影の際は、意識してポーズをとりますよね。まして初めて西洋の文物に触れたわけですから、緊張しないではいらいられなかったと推測しますが、このなで肩は如何(いか)に? 件(くだん)の男性は、なで肩=男らしくない、弱い、女々(めめ)しい、という想い、固定観念に縛られていたと思うのですが、坂本龍馬を“軟弱男”とさげすむような日本人は、まず、いないでしょう。
それ以来、私は道行く人々の肩を観察するようになりました。結果からいうと、なで肩はほとんど見られず――あ、一人だけいます。ご近所の施設から毎日このあたりを散歩して、楽天堂にも必ず寄る認知症のおばあさんが、なで肩でした。興味ぶかいですね――自分も含めて、良くて下がり気味。肩が上がっている“怒り肩”の人も多いです。
この違いは、何だろう?と考えつづけて、出した結論が「着ているものが違う」―みもふたもありませんが。私は整体の稽古をはじめて二十年ちかく、日常着で着物を着ています。外出する時は作務衣を、トレッキングにはそれなりのウエアで、と使い分けていますが。着物を着るようになって、「着物は腰で、洋服は肩で着る」と言われることの意味が、分かってきました。実はそのキモが、からだのナナメの勘覚だったんです。
帯の締め方に「貝の口」というのがあります。どのように結ぶかというと、まず腰のあたりでヨコにまわし、次にタテに一回しばります。最後にナナメにしめて閉じます。ヨコ→タテ→ナナメの順です。横や縦は、それぞれ腰骨・背骨という分かりやすい指標があるのですが、斜めは何だろう?と考えた時、私は、肉体的には何もないけれど、“気の筋交(すじか)い”とでも呼ぶべきものが、からだの中に通っているのではいか、という仮説を立てました。股関節から逆側の肩胛骨の中央へ、おおきなXになっている二本の筋です。

私の探求している内観技法では、からだの勘覚(気)こそが文化の礎(いしずえ)であり、言葉をはじめ衣食住のさまざまな事物を形づくっている、と捉えています。ですから、貝の口にも、勘覚の根拠があると考えます。この点で、女性の帯のしめ方でポピュラーな「お太鼓結び」、これは江戸時代後期にはじまり明治時代以降、一般的になったと言われてますが、貝の口の最後をしめるナナメがないんですね。タテで終わっている。そのため、補正具を多用しなければなりません。この点もまた、興味ぶかくありませんか。
気の筋交いを措定すると、さまざまな身体運用の“秘密”というか“秘訣”が、見えてきました。例えば、たすきがけ。これは着物の袂(たもと)を始末するために紐で結ぶのですが――前から見てもわかりません――背中にまわると、大きなXが。合理的に考えたら、ゴムのようなものでささっと縛ったっていいじゃないですか。そうは思いませんか。
なんだか、強引なこじつけだなあ、と感じられた方のために。もう少し、日常的で身近なからだの使い方で説明しましょう。まずは、“なんば歩き”から。この歩法は、江戸時代までの人々の歩き方だったそうですが、「歩く時に同側の手足が前に出る」とよく説明されます。でも、意識してそうしようとしても、元に戻っちゃうんですよね。では、その勘覚の根拠とは?
両足をそろえて立ちます。左足に重心をおいて右足を踏み出そうとした時、意識が――というより無意識でしょうが――勘覚のこしにあれば、気の筋交いがはたらいて力が左の股関節から右の肩胛骨の中央、さらに肩を通さずに――ここがポイントです――肘から小指まで、気力が通って右手が前に出ます。しかし、気の筋交いの勘覚を失っていると――勘覚=文化、ですから、西洋文化圏の人たちにとっては、現代日本人もそうですが――意識が「手を前へ」と指令した時、腰の力は左の股関節からタテに向かって肩から左手が出る、という解釈になります。このような歩き方を、私たちは“体育の授業”・“軍隊の行進”歩き、と呼んでいます。まさに、教育による、近代国家教育の賜(たまもの)ではいないか、と。
なんば歩きの原理に気づくと、例えば、農耕での鍬(くわ)の振り方、武術の剣の扱い、包丁や鋸(のこぎり)の切り方――日本は引いて、西洋は押して――皆、気の筋交いが基(もとい)になっていることが分かります。この勘覚がないと、常に頭から肩、手へのルートだけが作用して、首や肩で気詰まりが起こり、緊張状態が続きます。すると、いつも肩が上がったままになって、首痛や肩凝(こ)りに悩まされる。今この文章を、私はパソコンで書いてるんですが、肩が上がってます。現代社会で生きるかぎり、坂本龍馬への道は、限りなく遠い・・・。日常着に着物を着るのが、近道にはちがいないのでしょうが。「××維新」?、口が裂けても言えませんね。
■まわるまわるよ、水車は回る
「おまえの言わんとすることは、分かったことにしよう。ところで、ナナメの時代はどうなったん?」という質問には、用意してきました(笑)。結論から言うと―オレは、このフレーズが好きだなあ―タテ→ヨコと来て、ナナメの人生が始まった、というのではないんです。タテ・ヨコを同時に、どちらかに偏らずに生きることが、ナナメではないか、と思うようになりました。
別の言葉で言えば、中庸(ちゅうよう)、中道(ちゅうどう)です。左右、上下、前後、それぞれのベクトルで二者のどちらにも傾かずに、シーソーの上に立って、はら・こしでバランスを保とうと必死な中道(なかみち)君。何だ、そりゃあ、昔から言われてることじゃねえか―その通りです。反論するわけではありませんが、人間は、その事を自覚するために、「一日一生」、日々、生き直さなければならないのか・・・。
ナナメとは、生き方である、と気づいてきたのは、調体(せいたい)の稽古を積み重ねてナナメの勘覚の重要さを体感した、身体知として知ってきたことと、パラレルな関係でした。からだの勘覚で、タテは“こし”、ヨコは“はら”にあたりますが(注2)、それだけでは心眼でからだの内を観ても、平板に感じてしまう。そこに気の筋交いが入ると、からだがふくらみを帯びてくるんですね。着物を着る時に帯でからだがしまる、でも洋服のように、襟(えり)元も袖口も足元もしめつけない、あの勘覚です。
では、ナナメをどう生活の中で具現化していくか。二つの場面で考えてみました。一つは、生業であるお店の運営。商売は、搾取―タテでも贈与―ヨコでもない交換の関係性ですから、基本的にナナメの場です。でも気をつけないと――特に、店頭の接客では――客に感応してこちらがブレてしまう危険が常にあります。近すぎず、遠すぎず、適度な間(ま)を、こころがけなければ。
もう一つ、私が主宰している調体の稽古会では、上下関係を避けつつ上下関係にならざるをえない、というジレンマがあります。まずはじめに、「先生」と呼ばれない―呼ばせないために、「無々々さんと呼んで下さい」と言います。また稽古スタイルは、試行錯誤のすえに、現在では前半の進行役を他のメンバーに委ねるかたちに落ち着いています。ただ、どうしても私とは経験・力量の差があるので――事実としての認識です――「指導する」という側面が強くなってしまいます。理想をいえば、メンバーが順ぐりに、お茶会の亭主のような役を務められたらいいんですが・・・。会として、継続的な課題ですね。
最後に、江戸時代の農村復興につくした農政家・二宮尊徳(にのみや・そんとく)が語った言葉を、引用したいと思います。『二宮翁夜話』(岩波文庫)より――

彼が生きた時代は、圧倒的に農民が占めていたわけですから、誰もが田畑の水車を見ていた。二宮は、そんな日常的な光景から思想=生き方を自ら修(おさめ)た、あるいは逆に言えば、皆が知っている現実・現象にたくして人の道を説いた、とも言えます。ひるがえって現代では、人間が主体的に関わる work
が複雑に細分化してますから、“もの”や“こと”の common sense(共感/常識)が分かち合えなくなっているのではないか。そう考えた時、私は、私たちの
base(土台)となるべき最後の拠り所が身体ではないだろうか、と思うのです。仏教的にいえば、生老病死―生きて、老いて、病んで、死ぬ、このからだを、思想の基にすること。
ただ、その際に忘れてならないのは、二宮尊徳が残したとされる名言、「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」です。一言でいって、カネの問題、どうやって飯を食っていくか。今、あなた/わたしの得ているお金が、clean なのか dirty なのか? いや、お金そのものには、清濁のイロはついてませんから、わたし/あなたの life が、タテ=搾取やヨコ=贈与のどちらにも傾き過ぎずに、ナナメ=交換のバランスが保たれ、word and action の釣り合いがとれているかどうか?
それは、一人一人が果たすべき life work ではないでしょうか。私はわたしなりに、家業の豆屋にいそしみ、からだの勘覚を稽古しながら、自分にとって「義務」とは何かを問い続け、中庸の道を歩みたいと思います。
(注1)楽天堂ホームページ〈堂守随想〉「声、沈黙と測りあえるほどに(1)」
(注2)下の写真をご覧ください。ある日の稽古風景@からだとことばを育む会です。立って歩き始めた、一歳の子が写っています。赤ちゃんが、寝返りからハイハイを経て、初めてつかまり立ちした時、誰もが感動するでしょう。おお、人間の誕生だ!と。

四足動物には、誰にも“はら”はあると思うのです。生物としての、本能です。ただ人間だけが、立つことによって“こし”の勘覚を得た―結果として脳が発達して手が自由になり、面手(おもて)=〈表〉の勘覚が生まれ、“はら”が〈裏〉になった――そう考えると、ヨコ→タテ→ナナメの着物の着方は、人類史の流れに沿っているのかもしれません。着物の
recycle などではなく、reborn を!
【第一稿】

私の店は、豆とスパイスの専門店です。そこで、お客さんから、またメディア(媒体)を通して、「からだの声を聞く」という言葉を耳にしたり目にしたりすることがあります。そのたびに私は、異和感をきんじえません。
声を聞くのは、いったい誰・何なのでしょう? 私という意識=あたまでしょうか。それではあたまが主、からだが従の関係でしょう。逆ではないか、と―――二十年、整体を学んできて――私は感じ・思うようになりました。
今、気候変動に象徴されるような、生命共同体としての地球環境の危機が叫ばれています。それは、自然を対象化し収奪してきた、人間の所業の果てではないでしょうか。私にはグローバルな環境破壊と、ひとつの小さな自然であり、生命共同体であるからだを対象化し(収奪とまではいわないまでも)あたまに従属させてきたこととは、相似関係にあると思います。かたや遺伝子操作、かたやAI(人工知能)・・・人類は、どこまで“ひととしての矩(のり)”をこえようとしているのでしょうか。
この機に臨んで、私には伝統的な―――と書いて、私は無条件にその存在を認めているわけではありませんが―――日本の身体感&身体観が、重要な示唆を与えてくれるように思います。ひとことでいって、あたまとからだのバランスを調える、いや、直裁(ちょくさい)的な表現をつかえば、主従の逆転です。
そのような認識転換の契機となったのが、私にとっては整体の稽古でした。他にも、宗教・芸能・武術etc.とさまざまな道があると思います。私が考える共通項は、「からだを」ではなく「からだが」を根幹にすえること。つきつめれば、いのちファーストです。
沖縄の言葉にある「命(ぬち)どぅ宝」ですし、また、いのちと書いて「みこと」と読ませた(いや、逆でしょうか。みことに命の字をあてた)古代の日本の死生観につながるものです。
以下、からだの復興(ルネッサンス)を願って、調体(せいたい)の身体感&身体観について書きました。感と観は、日々の暮らしを生きるうえでも、人生の羅針盤としても、車の両輪ではないかと思います。
からだから学ぶ、そのために技(わざ)と理(ことわり)を探求する。誰にでも可能であり、一人一人の努めの総和がわたしたちの文化を形づくるであろう営みを、私は“からだ学”と名づけたいです。
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調体とは、何を調えるのでしょうか?
間(ま)を調えることだと私は考えます。
それでは、間とは何でしょう。
間とは、時間であり空間であり、もの(者・物・霊)とものの間(あいだ)になる(生成・創造・結実)、真(ま)にも魔(ま)にもなりうる、こと(事・言)です。
内観技法では、この間を、次の4つのレベル(層)で捉えています。
一)自己と他者
二)からだとこころ
三)勘覚と肉体
四)〈裏〉と〈表〉
順をおって説明します。
一)は、社会的な存在としての人間が、家庭や職場・地域etc.日々暮らすなかで体験する、さまざまな関係性です。それは、空間的には京都から、日本から、世界から、さらには銀河系へ・・・とひろがり、また時間的には現在から無限の(人類は有限かもしれませんが)過去と未来へ下降/上昇する可能性を秘めています。
内観技法では、この二者のあいだに在る間を調えるために――逆説的ですが――あくまで自己に集中する、ジコチューの方法をとります。なぜなら、意識的に我に向かうことによって(具体的には、からだの内に胸の中心から腹の下心へと“しんずい”(真髄・心髄・神髄)をたてることによって)、我と汝(対象)の間(あいだ)に三角形の間(ま)がつくられ、そこに意識をこえた“何か”が生まれるからです。
一義的に他者を指向してしまうと、自他の二点をむすぶ直線のみが形成されて間が生じず、おうおうにして――たとえ善意からであっても――利他ではなく、自利の“投げ槍”になりがちだからです。
では、自己に集中するとはどのような意味なのでしょう。
二)内観技法では、シンプルに自己=からだ+こころと捉えています。そして――他の多くの日本の(東洋の?)身体技法がそうであるように――からだに集中することによってこころとの間(あいだ)に真が生まれ、結果的にこころが調うことをめざしています。
このように言ったからといって、こころを直接の対象にする方法(論)、たとえばカウンセリングや各種のセラピーを否定するものではありません。
では、からだとは何でしょうか。
三)一般的には、からだ=肉体でしょうが、内観技法ではからだ=肉体+身体と捉えています。
肉体とは文字どおり肉の体、物質的な存在です。肉体にはいわゆる五感(視・聴・嗅・味・触覚)がそなわっています。
一方、身体とは身(み)の体、五感では知覚されない感覚としての存在――「勘」や「直感」、あるいは「第六感」や「虫の知らせ」などと呼ばれてきたものです。
別の表現をもちいれば、「お元気ですか」とか「気持ちがよい」と言うときの“気”です。私はこの身体にそなわっている知覚を――肉体の感覚と区別するために――“勘覚”と名づけました。
日本語には「名実ともに」という表現がありますが、からだとこころの関係でいえば、からだ=名/こころ=実ではないでしょうか。同じように、肉体と身体の間(あいだ)では、肉体=名/身体(勘覚)=実の関係性がなりたつと思います。
内観技法は――世間で一般に理解されている整体とはことなり――肉体を対象とせず、身体の勘覚をとりもどす・きたえる稽古を主眼においています。それは、勘覚こそがからだの主であり(肉体は従)、私たちの意識やこころを規定するだけでなく、対人関係にも影響をおよぼし、さらには文化(ことばや衣食住のありよう)をかたちづくってきた母胎だと捉えているからです。
そうだからといって、肉体をないがしろにしているわけではありません。稽古をつみかさねて勘覚をふかめていけば、結果的に肉体も調うでしょう。
最後に、からだの勘覚を名実で分けてみます。
四)身体感覚の実は〈裏〉で、名が〈表〉です。
〈裏〉とは、肉体的には足の裏に象徴される、母なる大地とつながった、生きとし生けるものが持つ、いのちの一体感です。本能といってもいいかもしれません。
他方、〈表〉とは、肉体的には“面(おも)手”に象徴される、大地から分かれて独り立つ、人間がひとであることの証(あかし)・誇りです。
〈裏〉の勘覚は、いわゆる大和言葉の「わ」と発音され、後に中国からもたらされた漢字で、「和・輪・環・我・倭」と細分化(分節化)されたのではないでしょうか。
それに対して〈表〉は、「こ」=「個・子・小・弧・粉」と表現されてきたのだと思います。
ここで、裏表は中国の陰陽(思想)とどう違うのか、という疑問が生じるかもしれません。今の私には、二つの違いはよく分かりません(今後の探求課題です)。ただ、自然界では、地・月・夜・植物・根・女(メス)が〈裏〉/天・陽・昼・動物・花・男(オス)が〈表〉に感じられ、基本態が〈裏〉は受動/〈表〉が能動、シンボルカラーは黒に対して白ですから――端的にいって〈裏〉は死(=おおいなる生)/〈表〉は生――裏表と陰陽はほとんど重なるように思えます。
では、〈裏〉〈表〉の勘覚の源泉はどこにあるのでしょうか。内観技法では、“はら・こし”がその大本(おおもと)ではないかと捉えています。動物はひとしなみに(肉体としての)腹・腰を持っています。しかし人間が――何故か(宿命?)――二本足で立った=母なる地球から別(“和枯”)れたことによって、こしの勘覚が生まれ、同時に、はらが――腹の内に――自覚されたのではないか、と。
稽古会の稽古では、主に〈裏〉の勘覚に焦点をあてて稽古をしています。なぜなら、現代(の、特に日本)社会では、圧倒的に〈表〉が優位に立ち、〈裏〉の共勘覚(共によろこび・かなしみ・いかる)が失われているからです。
事例一:最近、赤ちゃんを胸に抱いて歩いているお母さん・お父さんをとみに(ほとんど?)見るようになりました。以前(注)では考えられなかった光景です。私は、この事象につよい危惧を抱いています。
というのも、四足動物にとっては陽のあたる背=〈表〉/かくれる胸=〈裏〉に感じられると思うのですが、人は二足歩行に移ることによって表裏の関係が逆転してしまった、すなわち、前をむく胸=〈表〉/後ろの背=〈裏〉の勘覚に変わったのです。
すると、赤ちゃんにとっては、どちらが心地よいでしょう。胸に抱かれて歩かれるということは、後ろ歩きしているようなものです。この往来を、背中歩き――まして、自転車に乗って!――したいでしょうか。こんな危険にさらされた赤ちゃんは、自らの勘覚を鈍くすることで適応しようとするのでは、と私は推測してしまいます。
つまずいて倒れたら、子どもが下敷きになって守られるのは親――逆ではないか、というのは言い過ぎでしょうか。
事例二:アベシンゾウs の、“今だけ、俺だけ、金だけ”の悪行の数々は、書きたてるまでもないでしょう。この間(かん)、日本という文化共同体が、どれほど汚(“気枯”)され、格差・分断・絶望社会におとしめられたことか!
But、このように書いたからといって、私は〈表〉を決してないがしろにしているわけではありません。〈裏〉=客体性/〈表〉=主体性という言葉におきかえた場合、“同調圧力社会”といわれるこの日本では、いのちに「裏打ちされた」「裏付けられた」主体の確立こそ求められているのではないでしょうか。
内観技法のキモは、一)二)三)四)を逆に、つまり〈裏〉と〈表〉の間(ま)を調えることによって、勘覚と肉体→からだとこころ→自己と他者の間(あいだ)に調和をもたらそうとすることにあります。
水面に落ちた小石が波紋を生み、数多くの小石の立てた波紋がおおきなわになって、社会ー世界の変革へ・・・何が起ころうとも、この日常をゴキブリのごとく(ゴキちゃん、ごめん)生き抜きつつ、あらたな〈分かち合う文化〉の創造に寄与する志を育むこと。
調体は、祈りであり実践です。
PS:はら・こしの勘覚は、内観的には、はら=○(えん・まる・わ・球・玉)、こし=│(直線・垂直・たつ・きる・いち)に感じられます。この点で、 博物学者・南方熊楠(みなかた・くまぐす)が真言宗僧侶・土宜法龍(どき・ほうりゅう)に宛てた書簡に描かれていた絵が興味深いです。
南方曼陀羅(みなかたまんだら)
南方は書いています。
「ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。余は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立てならべ得たることと思う。(中略)
これらの諸不思議は、不思議と称するものの、大いに大日如来の大不思議と異にして、法則だに立たんには、必ず人智にてしりうるものと思考す。(中略)
この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(中略)前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍追求するときは、いかなることをも見出し、いかなることをもなしうるようになっておる。(中略)
すなわち図中の、あるいは遠く近き一切の理が、心、物、事、理の不思議にして、それの理を(動かすことはならぬが)道筋を追従しえたるだけが、理由(実は現像(げんしょう)の総概括)となりおるなり。(中略)
さてすべて画にあらわれし外に何があるか、それこそ、大日、本体の大不思議なり。」(『南方熊楠・土宜法龍往復書簡』pp.307-309 八坂書房)
私は、南方のいう「不思議」を、「間」におきかえたい誘惑にかられます。
※
イチローさんのようになろう
「野球選手になれって言うんですか」
「違います」
「それじゃあ?」
「イチローさんを見習おうと言ってるんです」
「イチローさんは天才ですよ」
「いいえ、イチロー氏は天才ではありません」と、私が言っても説得力はありませんが、大リーグのマリナーズで一緒にプレーした城島健司(じょうじま・けんじ)さんが同じことを言ってるんです。
「イチさんは決して天才ではない。本当の天才は、自分のパフォーマンスを説明できないでしょ。でも、イチさんは自分のプレーをこと細かく語れる。努力している過程を含め、一から十まで理詰めで話せる。人に話すのが面倒くさいから、イチさんも『もう天才でいいよ』と思っているんじゃないかな」(朝日新聞2009年9月15日付け朝刊17面 〈9年連続200安打 108年ぶり更新〉より)
もちろん、その裏には、イチローさんの日々の努力の積み重ね(技と理の追究)があったからこそ、ですが。
会の稽古では、自らの勘覚を言葉で表現することを大切にしています(無論、むりじいはしませんが)。それは、言語表現による客観化によって、一人よがりの感覚に過ぎないかそれとも共勘覚の感応を生んでいるかのリトマス試験紙にもなれば、理(ことわり)が浮かんでくる端緒(たんちょ)にもなりうるからです。
逆もまた真なり――言葉を手がかり足がかりに、ことばを産んだ勘覚の考究へと、道がひらかれると思います。
例えば、私は、調体が調える体とは何かを考えたとき、肉体と身体という二つの言葉(づかい)の違いが、長い間分かりませんでした。ぼちぼち稽古にとりくみ、ない頭をしぼって、次のような仮説を立てました。
古来、からだは身という言葉で多義に表されてきたものが(日本語には数多くの“身熟語”があります)、幕末から明治にかけて西欧流の肉体(物質)観に“開国”せざるをえなくなり(e.g. 杉田玄白『解体新書』)、それでも「肉体」という言葉では掬(すく)いきれないからだを「身体」で対置させたのではないか、と。
こう考えると、なぜ明治の翻訳語に――subject=主体、object=客体、community=共同体というように――「体」という訳語があてられたのか、分かるような気がします。それは、日本文化を生きてきた人々が――少なくとも百数十年前までは――“個としての体”と“和としての体”の一人二体を持っていたからではないでしょうか。
現今流通している「身体感覚」という言葉は、誤解をまねきやすいのではないかと思って、私は原則として「からだの勘覚」に置きかえて使っています。
言うまでもなく、このような考察のベース(下地)には、仲間との稽古や生活での実践を通した勘覚の深化が必須になりますが。
今年(2020年)の2月に亡くなった元プロ野球の野村克也(のむら・かつや)さん――陽のあたる「ひまわり」長嶋・王と対比させて、自らを「月見草」と称していた――の追悼番組をテレビで観ていたら、「人間の最大の悪は何であるか」「鈍感である」と、つぶやいていました。
同じく1月にアフガニスタンで銃弾に倒れた医師・中村哲(なかむら・てつ)は、次のように語っています。
大地に立つ人 (C)ペシャワール会
「自分の身は、針で刺されても飛び上がるけれども、相手の体は槍(やり)で突いても平気だという感覚、これがなくならない限り、駄目ですね」(ノンフィクション作家・澤地久枝(さわち・ひさえ)氏との対談集『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』岩波書店 p.30)
「もし道に倒れている人がいたら手を差し伸べる。それは普通のことです」(朝日新聞2020年1月18日付け夕刊5面 〈惜別〉より)
二人の先達(せんだつ)の至言を胸に――では、人間の最善は何だろう。敏感?鋭感?純感? それとも・・・と、自問自答しつつ――真面目(まじめ)に生きていきたい。
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整体協会の創立者・野口晴哉(のぐち・はるちか 1911-1976)は、画家・中川一政(なかがわ・かずまさ 1893年- 1991)と1976年1月に行った対談で、次のように語っています。(注1)
中川:初めにちゃんとした純粋な勘を持っている人が、勘を鈍らせられるということはあるんでしょうか。
野口:こうしなければならない、こうしてはならない、こうしては笑われる、こうしたら褒められるというのは、みんな勘を鈍くします。
中川:そうでしょう。それからまた抜けるということがあるんでしょう?
野口:抜けるにはそれから三十年かかります。
中川:そう、そうです。抜けるにはそのくらいかかる。
野口:一旦そうなってから抜けたのは見事ですね。
※
「月を見るものは、指を忘れて可なり」
磯田道史(いそだ・みちふみ)著『無私の日本人』(文春文庫)には、“村儒者として生き、村儒者として死んだ”江戸時代の人・中根東里(なかね・とうり)の創作評伝がおさめられています。
「学問は道に近づくためのもので、書物をたくわえるものではないと思う。聖人君子の言葉も、いってみれば、指のようなものにすぎない」
「指ですか」
弟が怪訝(けげん)な顔をすると、東里はまっすぐに窓の外の月を指さした。
「この指の案内によって、まなざしを転じなければ、このむさ苦しい長屋の中しか、われわれは見ることがない。そこが自分の天地だと思ってしまう。しかし、指の先をたどれば、そこには広い空があり、美しい月がある。聖人君子のことばは、われわれを美しい月に案内してくれる指のようなものだ。わたしたちはただ、ひたすらに月をみればよい」
「・・・・・」
「無益の文字を追いかけ、読み難きをよみ、解し難きを解せんとして、精神を費やし、あたら光陰を失ってはいけない。わたしも、あやうく、指をもって月とするところであった。四書五経は指にすぎない。大切なのはその彼方にある月だ」(同上書 pp.236-237)
――下野(栃木県)佐野で、村人に王陽明の『伝習録』を講じた私塾「知松庵」には、次の一節が心得として掲げられていたといいます。
「出る月を待つべし。散る花を追うことなかれ」(同上書 p.258)
(注1)整体協会機関誌『月刊 全生 増刊号』より一部引用 / 稽古会参加者には、全文のコピーをお渡ししています。
(注2)朝日新聞日曜版の連載〈歴史のパラダイム〉2020年3月28日付け〈戦後初の総選挙を読むと〉で、政治学者の原武史(はら・たけし)氏が書いています。
「この(1946年4月)総選挙では女性に初めて参政権が認められ、京都府でも3人の女性が当選した(定数10、立候補者72名)。国務大臣だった小林一三(こばやし・いちぞう)は、『婦人の当選者の多いのには驚いた、正に世界一だ。米国は下院議員四百三十五名の中、僅(わずか)に九名、英国は六百十五名の中二十三名、我国では四百六十名の中、驚く勿(なか)れ、三十九名』と記している(『小林一三日記』第二巻)。日本の女性議員の割合が「世界一」とされた時代があったこと自体、いまとなっては驚異というほかない」
1946年総選挙 投票所の名簿照会
会場の緊迫感、赤ん坊をおぶった女性たちの真剣なまなざしに、私は胸がうたれます。男は女に対してYesと言えるように、女は男に対してNoと言えるようになりたい。
PS:精神病理学者・木村敏(きむら・びん)氏の『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫)という本を読んでいたら、次のような記述があった。
「「主観」というのはドイツ語のズプイェクト Subjekt` 英語の subject` フランス語のジュジェ sujet などの訳語です。(中略)これが明治時代に日本に紹介され、西周(にし・あまね)という哲学者によって「主観」と訳されたのです。(中略)
行動主体を、認識の意味をもつ「観」の字のはいった「主観」という言葉で訳すことは、もはやできません。それに気づいた日本の哲学者が――だれが最初だったのかは知りませんが、西谷啓治が『根元的主体性の哲学』(一九四〇年)にまとめたいくつかの論文あたりが一番古いのではないかと思います――同じこのズプイェクトを、今度は「主体」と訳すことにしたのです。」(同上書 pp.20,21,22)
果たしてそうだろうか。明治以前の近世において「国体」という概念(用語)が用いられていたことを考えると、昭和十五年になって初めて「主体」という語があてられたというのは、疑問に思える。
からだノート
一)からだ学び 事始め
二)ことば遊び
三)内観技法 覚書
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