からだノート



(一)ことば遊び

@うらめしや〜
 「ま」と「から
Aまじめ
Bタテ・ヨコ
 「ナナメ
Cおむすびコロ輪
D物曰(い)うなら、声低く語れ!

(二)内観技法の基本 

@
心眼(みずすましの目)
A
呼吸(ひょうたんの息)
B気力(間和るたまの腹)

@こし・はら

(三)日々の養生法 
三つの養生法
@
行気(ぎょうき)
A
活元(かつげん)
B
気合(きあい)
個人的な体験


(四)手間
(いのちにふれる手)




(一)ことば遊びpdfファイル A4)

@「うらめしや〜」

 稽古会で行っている稽古の一つに、「おばけアプローチレッスン」というものがある。これは、AB二人の人が4〜5メートルはなれて立ち、お互い目をつぶる。BがAに向かって両手をさしのべ、Aが――からだの感覚で――近づいてゆくというものである。この時、Bは二通りのしかたで腕を出す。一つは手の甲を相手に向けて、もう一つは手の平を向けて、である。ではどちらが近づきやすいだろうか?

 一般的には、掌
(てのひら)を向けられた方が、距離が縮まる。ただまれに、邪気=「近づかないでえ」光線を(無意識で)発する人がいるので、そんな場合は「今晩のおかずはどうしようかな、とアレコレ考えてください」と指示を出すことにしている。

 私たちは、手の平で握手をし、手の甲で「しっ、しっ」と犬を追い払う。実は、からだとことばを育む会が稽古の拠り所にしている内観技法では、〈表〉と〈裏〉という根元的な二つのからだの感覚があり、肉体的な象徴が、表=面手
(おもて)すなわち顔と手、裏=大地とふれる足の裏ととらえ、さらに手もこまかく見れば、甲が表、平が裏なのである。

 高校の文化祭の定番、お化け屋敷には幽霊がつきものだが、誰もがおもいうかべるあの姿(額に三角巾、身に白い経帷子
(きょうかたびら)をまとい、両手をゆらゆらと前に出して、「うらめしや〜」と迫ってくる)は、江戸時代の絵師・円山応挙(まるやま・おうきょ)が初めて描いたそうだが、とげられなかった己(おのれ)の欲望や深い恨みをあらわすには、まさに手の甲を向けるしかないだろう。

 なぜなら、もの(者・物・霊)との関係性でいえば、〈裏〉は、つながる感覚「わ」(漢字であらわせば、和・輪・環・我・倭)を生み、〈表〉はわかれる(和枯れる)感覚「こ」(漢字であらわせば、個・孤・小・子・粉)を生むからである。掌を向けられて幽霊に抱きつかれては、たまったものではない。

 では、お決まりの殺し文句は、「裏飯屋」=裏においしい飯屋がありますよ、だろうか。まさか。裏盲
(めしい)+感嘆の「や」、つまり、あなたに裏切られてもう目がみえない。このままでは成仏(じょうぶつ)できない。この落とし前を、どうつけてくれるの――という悲痛な自我の叫びなのである。

 内観技法は、肉眼を閉じて心眼でからだの感覚を視覚的にとらえようとする技法だが、〈表〉の感覚は白、〈裏〉の感覚は黒と位置づけている(クレヨンのような色彩感覚で理解されると困るが)。いわば、〈表〉は生、〈裏〉は死の象徴である(ただし、死とはいっても、生を産む母胎としての死=“おおいなる生”といったほうがよいかもしれない)。

 結婚式では、なぜ白いウエディングドレスを着るのか。葬式では、なぜ黒い喪服なのか。パトカーは、なぜ、上が白、下が黒く塗り分けられているのか。整体協会の創立者・野口晴哉
(のぐち・はるちか)は、テレビで相撲観戦をしていて、どちらが勝つか、言い当てたそうな、「腹が黒い方が勝つ」。別に浅黒い肌をした力士のことではない。からだの感覚としてのはらが黒、死に勝る生はあるまい。

 

 夏の朝、早起きをして虫取りに行く。ズック靴を朝露でぬらし、狭い山道を、近所の友達と前になり後になりながら、急
(せ)く気持ちをおさえて歩いてゆく。

 お目あては、くぬぎの木――樹液に、カブトムシやクワガタが、群れているのだ。いつか小走りになって木に駆けよる。「いたぞ!」見つけたもんの勝ちである。遊び仲間どうしでも、ここは競争だ。子ども時代の思い出・・・。

 そこは、裏山だった。いつから「里山」という――耳にはここちよい――言葉に代わってしまったのだろう。人家のすぐ裏手にひかえていた。子ども達の遊び場だった。でも夕暮れがせまり、あたりが薄暗くなってくると、逃げるようにして家に帰らなければ、こわかった。

 山姥
(やまんば)や神隠しの話を、親から聞かされていたわけでもなければ、そんな知識を持ち合わせていたわけでもない。でも、気配が、雰囲気が、教えていたのだ。さらに奥には、人間が踏み入ってはいけない禁忌・聖域が、ひかえていることを。

 社会科の地図帳には、日本海側は「裏日本」・太平洋側は「表日本」と表記されていた。裏は暗い、マイナスイメージ? 昭和三十年代からはじまる高度経済成長期、裏山はけずられて団地が造成され(スタジオジブリのアニメ『平成狸合戦
(へいせいたぬきがっせん)ぽんぽこ』で描かれた世界である)、海辺の浦は埋め立てられて工業地帯に様変わりした。

 人間と自然は一体である。私たちがからだの〈裏〉の感覚を喪った時、自然からも“うら”が消滅していた。もう二度と元にもどることはない――子どもたちに海山のうらを伝えられなかったことに、私は立ちすくむ。

 

 物事には白黒がつけられるかもしれないが、私たちの人生は、そうもいくまい。詩人の宮沢賢治
(みやざわ・けんじ)は、詩集『春と修羅(しゅら)の「序」で、次のように語りかけている。
 

 なぜ、青なのだろうか。漢字学者・白川静
(しらかわ・しずか)の指摘が、ひとつのヒントになるだろう。

 
「(青は)古くは黒から白までの中間の暗をいい」『字訓』普及版p.55 平凡社)

 そして、万葉仮名では、「こころ」に情の字をあてていた例もある、と何かの本で読んだ記憶がある。そう、私たちの心は、白−あたま−人間的悟性の世界と、黒−はら−動物的本能の世界の間で、日々、この瞬間にもゆれうごいているのである。

 「地球は青かった」――宇宙船から地球を見た宇宙飛行士はこう発したが、私には(常識的には、海の青さであろうが)この地に生きる七十億の人間達が、せわしくせわしく生きながら発光させている、いとおしくもあわれな、生の光のように思える。

「ま」と「から」

 ある朝、いつものトイレ掃除に入ると、スリッパが横を向いている。あなたなら、この後どうしますか? (1)足先で、ちょこちょこっと向きを変える、(2)スリッパをはいて、向きを変える、(3)腰を落とし、手で向きを変える。

 白状すれば――普段の私なら(1)をしていたのを――その日ばかりは、何か“そぐわない気”がして、(3)で直していた。

 その時、「手間
(てま)をかける」というのは、こういうことか、と初めて腑に落ちた気がした。「かける」を漢字であらわすと、駈ける・掛ける・架けるetc.になる。A→Bへの空間的な移動、それにともなう時間の発生、そして事前事後の間の何らかの変容をさしているように思われる。空の間(ま)と時の間(ま)をもっとも用いるのは、(3)の動作だろう。

 もちろん私とて、この用語の意味は知っていたが、「丁寧に」という言葉の置き換え、単なる比喩としての知識だった。大仰
(おおぎょう)に聞こえるかもしれないが、初めてからだの感覚として、言葉が身に染みたのだ。

 からだとことばを育む会の活動を続けてきて、このところ間
(ま)という言葉が大切ではないか、と思うようになってきた。何より、人間であり、人が生きる時間・空間であり、日本という文化共同“体”での世間(せけん)であり、そして手間である。

間(ま)

 整体では、もの(者・物・霊)にふれる(「さわる」ではない)手のことを、愉気
(ゆき)と称している。究極には、“いのちにふれる手”である。普段私たちは、ものから情報を得て識別するために、頭で手を操作している。それでは、いのちにふれられない。稽古会の稽古は、ひとことでいって、ふれるための技(わざ)と理(ことわり)の追究である。

 では、どのようにすれば手で間を創れるのか?スポーツや武術・技芸では、「ひじをはれ」「ひざをぬけ」とよく言われる。これが肉体的な意味での――目に見えてわかりやすいという点では、〈表〉的な――間のとりかただろう。つまり、肩胛骨の中央と肘、手首をむすぶ三角形と、股関節、膝、足首をむすぶ三角形である。では、その〈裏〉付けは?

 内観技法では、物質的な肉体を名
(めい)、からだの感覚を実(じつ)ととらえている。「名実ともに」という時の表現である。あくまでも感覚が主であり、肉体は従であるとしている。では、からだの感覚としての間とは?

 語呂合わせに聞こえるかもしれないが、からだは、から(空・殻・腔)+強調・断定の「だ」ではないだろうか。こういったからといって荒唐無稽な話ではなく、医学的には、頭蓋腔
(ずがいこう)・胸腔(きょうこう)・腹腔(ふくこう)という三つの空間が存在する(だんご三兄弟!)。

 内観技法では、それぞれ「意識」の間/「心情」の間/「気力」の間ととらえ――イメージとしては、PCのos・windowsならぬ四角形の窓(平面)/ピラミッドの形をした三角錐の鏡(立体)/欠くところなき光の玉(球)――この三つの間
(あいだ)を調えることを旨としている。頭は〈表〉(例 「面白い」)、腹は〈裏〉(例 「腹黒い」)の感覚の源ともいえるので、二つを映す胸の鏡・心鏡(しんきょう>心境)で、日々どのようにして表裏のバランスを保つか、の鍛錬になる。

 具体的にいえば――内観に慣れていない人には分かりづらいと思うが――手でふれながら、胸においた心眼で、からだの感覚の焦点=気力の“煮こごり”(<二凝り・凍り)と、はらの中央の原点をむすんで三角形をつくり、「かどがとれて、まるくはらにおさまる」まで待つ。

 ただ、間は真(ま)に転換しうるが、魔にも陥りやすいという事は、重々
(じゅうじゅう)こころしておかないといけない。

 

 「和を以
(もつ)て貴(とうと)しと為し・・・」(聖徳太子『憲法十七條』)とされた日本という文化共同“体”は、150年まえの明治維新と1945年の敗戦によって、おおきくそこなわれた。では、私たちは、〈裏〉から〈表〉へ、和から個にのりかえて、大和人(やまとびと)よりも一個人として自立しえたのだろうか。いや、昨今の政治状況・社会情勢をみれば、そんなことは言えまい。文化・歴史を担う主体としての自覚を欠き、かといって客体の感覚を喪失して、根こぎにされたからだやことばが、この時空(じくう)を浮遊している。

 ただ、大言壮語癖のある私は、伝教大師・最澄
(さいちょう)が若き僧侶に向けて記したとされる文言を、自らの戒めにしたい。
 

 「一隅
(いちぐう)を守り、千里を照らす」

 この言葉で思いおこすのは、近くのお好み焼きやのおばちゃんだ。北野天満宮のバス停の前で、「おもひで焼き」ののぼりをかかげて、四十年近く商売をしてきた。わずか三畳ほどの店、1個100円から特大でも480円。

 実は去年の正月に、イギリスに留学した娘を訪ねて家族で旅行したことがあった。そのストレスからか、高校生の息子がアトピーが悪化し、いつもおいしく食べているおもひで焼きで元気になりたいと、私が代わりに買いに行った。

 ひとしきり世間話にはながさいた後、「ここらあたりでおばちゃんのが一番おいしいと子どもが言ってるよ」と言うと、おばちゃんは喜んでくれたがすぐに真顔になって言った。
 
「わたしは外国に行ったことがない。ここで日本を守っている」

 別に右翼でもなんでもない。普段、そんなことを話すような人ではない。朝は、店のまえを門
(かど)掃きし、「欲ばらんと」数百円の粉もんを売って子どもを育ててきた。

 私ははずかしかった。おまえは幸運にも何ヵ国か外国旅行ができたが、その体験を社会に還元しているのか?
 「和を以て貴しと為す」&「個として立たむと欲す」
(2018/03/20 記)

A「まじめ

 去る3月28日の朝日新聞朝刊に、前日の国会で行われた証人喚問についてのジャーナリスト・青木理
(あおき・おさむ)氏の感想が載っていた。

 
「見ていた限り、佐川氏は一度もいすの背もたれに寄りかからず、いかにも真面目な官僚然としていた。ただ、発される言葉は国民や社会全体ではなく、政権と保身ばかり考えたものではないか」

 私は青木氏のコメントにYes!を投じるが――決してあげあしとりではなく――「真面目」という言葉に違和感を感じた。この当て字は、“真(ま=真理、真実)に面する顔、真からそむけない目”という意味で用いられてきたのではないか。私もテレビで観ていたが、彼の態度(からだ)は不真面目そのものだった。

 確かに現代では、「真面目な良い生徒」とか「仕事ぶりは真面目だった」というように、目そのものではなく、ある様態を表現する場合に用いられることがほとんどだろう。では、真面目とはどのような目を持つことなのだろうか?

 内観技法では、三つの目を措定している(よく見ると、「真面目」という文字には、目が三つ含まれているではないか!)。

 まず、頭の上心
(じょうしん)にある肉眼。これは、ものを識別し、ものから情報を得るという、動物の目プラス、常識や科学の目である。からだの感覚では、基本的に〈表〉になる。

 次に、胸の中心
(ちゅうしん)にある心眼。この目は、自己の内をみつめる内省の目であり、外に向けてはもの(者・物・霊)の――表面・物質ではなく、深層・本質という意味での――“こころ”を感じる目である。心眼は、上心の〈表〉・下心の〈裏〉のどちらも映す“合わせ鏡”になっている。

 稽古会では、この心眼を鍛えることをメインにすえ、原則として目を閉じて稽古している。まぶたを開けていては、心眼が上に(脳へ)引きずられて本来の働きを失い、肉眼とかわらなくなってしまうからである。

 それでは、第三の目とは――漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に登場を願おう?!

ゲゲゲの鬼太郎

 鬼太郎には、目が一つしかない。右目である。左には鬼太郎の父親・“目玉おやじ”がひそんでいて、鬼太郎のメンター(師)としての役をはたしている。妖怪の鬼太郎が、なぜ“こちらとあちらの世界”を往き来できるのか?それは、鬼太郎が――左目を失って――右目しか持っていないから、というのが私の仮説である。

 現界
(げんかい)を生、幽界(ゆうかい)を死(=生の母胎でもあるおおいなる世界)ととらえてみると、それぞれの象徴が太陽と月ではないだろうか。『古事記』に曰く、

 
「ここに(伊邪那伎命(いざなきのみこと))左の御目(みめ)を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀命(つくよみのみこと)。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)(倉野憲司校注『古事記』岩波文庫 p.30)

 内観技法では、からだの感覚として、左目−右半身は〈表出〉を、右目−左半身は〈受容〉をあらわすととらえている。二つの感覚世界は、首の一点で×(交差)している。ゲゲゲの鬼太郎は、左目をまさに表に出し、右目でこの世とあの世の二世を生きている(受容している)といえないだろうか。

 『ゲゲゲ〜』の作者・水木しげる
(みずき・しげる)が戦争体験を記した『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』 (河出文庫) を読むと、彼が壮絶な戦場体験を生き延びたことがうかがえる(左腕は失ってしまったが)。ニューギニアの戦地で文字どおり九死に一生をえたのは、水木のたぐいまれな生命力+生命感のたまものであったと言っても過言ではないだろう。妖怪=物の怪(け)の世界を漫画に描くことができたのは、彼の想像力&創造力が豊かであっただけでなく、この“からだ”が下地にあったと思われる。

 私は鬼太郎の右目を、離眼
(りがん)と名づけたい。この目は、人にあっては心眼よりさらに下へ、内へ、奥へはいった、はらの下心(かしん)中央に位置する気力の目である。その働きとは、自己そのものを相対化し、“世界は、肉眼で見ている(現に在ると思っている、実在を疑わない、科学という一つの近代のものさしで実測可能な)コレだけではない”ことを知らしめる。

 能の大成者・世阿弥
(ぜあみ)『花鏡(かきょう)で説いた「離見(りけん)の見」とは、この離眼ではないだろうか。
 
 【離見の見】
資料
(pdfファイル B5)

 稽古会では心眼を鍛える稽古しかできていないが、これから試行錯誤しながら、離眼を探求したいと思っている。今はまだ、はらの中央(下心)と右目、視覚の対象(例えば、世阿弥のいう「見所」)の三点をむすんで三角形の間
(ま)を創り――右目は開いて左目は閉じたまま――もの(者・物・霊)をはらにおさめることによって自己(自分の姿そのもの)を客体視できるのではないか、というおぼろげな推測の段階である。

 

 何年か前、私は夢の中でイエス・キリストに会ったことがある。前後関係は覚えていないが、湖の岸辺でイエスが小舟に乗ろうとしている。弟子(?)が二人、船を出そうとしている。私がその場に立っている。イエスと目があった時――「この男には自我がない!」と私は驚愕
(きょうがく)してしまった。

 その目は――摩周湖のように――深く、湖面に写った顔の影のように、私の姿だけがうつっていたのだ。「わたしについてきなさい」、そう言われたら、私は何もかも捨てて――手に持っているものも、家族も何もかも――この人についていくだろう、と直感していた。

 クリスチャンからは、「何をバカな!イエスは神の子だ」としかられそうだが、私は「人間は、ここまで達しうるのだ」と夢からさめた後、感慨にふけった。客観的に考えれば、キリストを描いた聖画の記憶と、その日の何らかの心的インパクトが合作した産物に過ぎないかもしれない。

 でも私にとっては、目がすべてをものがたっていることを――いわば身体知として――了解
(りょうげ)した体験だった。肉眼→心眼→離眼というのは、人間の成熟を表す三段階ではないだろうか。人はパンのみにて生くるにあらず。そして、死者とともに在る。

 まじめに生きようと思う。   
2018/04/16 記)
附記

 最近、マスメディアによく登場する政治家や芸能人に、左右の目の大きさが違う人が多いような気がする。からだの感覚でいえば、〈受容〉と〈表出〉のアンバランスが原因であろうが、どちらの目を開いて(あるいは閉じて)“世界”を見ようとしているのか、くらべてみるのも面白いかもしれない。

 ゲゲゲの鬼太郎は、生まれつき左目を失っていたが、戦国武将の伊達政宗
(だて・まさむね)は、幼い頃に病気によって右目を失明したそうである。彼は〈表出〉の人となり、「独眼竜」(どくがんりゅう)と呼ばれた。

 また、目の左右ではないが、劇作家&演出家&役者の野田秀樹
(のだ・ひでき )氏は、舞台で集注すると、寄り目になるという興味深い体験をつづっている。
 
 【役者の寄り目】
資料
(pdfファイル B5)

 
最後に、では、目の見えない人はどうなのか、という疑問が当然おこってくるだろう。私には正直わからないと言うしかない。他の知覚(特に聴覚)と心眼で補っているのでは、と推測するばかりだ。さらに、耳も聞こえない盲聾者
(もうろうしゃ)のケースは?

 思春期に、視覚と聴覚をすべて失った福島智(ふくしま・さとし)東京大学教授は、著書
ぼくの命は言葉とともにある(致知出版社)の中で、次のように述べている。(同上書 pp.16-17)

 
「『光』と『音』を失った高校生のころ、私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、狭くて暗く静かな『世界』。
 ここはどこだろう。(中略)私は限定のない暗黒の中で呻吟
(しんぎん)していた。

 
美しい言葉に出会ったことがある。全盲ろうの状態になって失意のうちに学友たちのもとに戻ったとき、一人の友人が私の手のひらに指先で書いてくれた。
 『しさくは きみの ために ある』
 私が直面した過酷な運命を目
(ま)の当たりにして、私に残されたもの、そして新たな意味を帯びて立ち現れたもの、すなわち『言葉と思索』の世界を、彼はさりげなく示してくれたのだった」

B「タテ・ヨコ

 三十代なかばの時、一年ほど熊野の山間
(やまあい)で“仙人暮らし”をしていた。廃校になった小学校に一人住み、米や野菜をつくり、小説を書いていた。そんな折り、ある人から紹介されて、ヨガの“行者”に会いに行ったことがある。

 彼は若き頃はクラシックの演奏家で、一方、酒浸りの生活を送っていたそうだが、ヨガに出会ってからは音楽とアルコールとは縁を切り、修行一筋の道を歩んできたという。私の住処
(すみか)からさらに奥にはいった処にある彼の家からは、重畳(ちょうじょう)たる熊野の山並みが見え、壁際の本棚は、ヨガの原典らしき本や解説書で埋めつくされていた。

 書斎に端座
(たんざ)した彼は、しずかにヨガ三昧(ざんまい)のよろこびを語った・・・・今は、請(こ)われて大阪までヨガを教えに行き、生活の糧を得ているという。インドから高名な指導者が来たときは、通訳などもしている。音楽家時代に結婚した奥さんと二人暮らしなのだが、「来世はもう結婚などしない。今生(こんじょう)は、妻には申し訳ないと思っている」とほほえんだ。

 実をいうと――帰りのバス便がなかったので――一晩泊めてもらおうと(内心)期待していたのだが、そんな話にはつゆならず、夕刻に近づいたとき、「妻に送らせましょう」という一言で会見はジ・エンドになった。

 窓外に鳥の鳴き声しか聞こえない静まりかえった家の中で、その時、初めて奥さんが姿を見せ、私は彼女の運転する車で路線バスのある国道まで――短い雑談をかわしながら――一送ってもらったのだった。礼をいって車を降りた後、私はいたたまれない気持ちにしずんでいた。それは、彼女の表情やかもしだす雰囲気が、かぎりなく悲しみにみちていたからだ。

 道を得た(と称する)人間の最も近くにいる人が幸せに感じられないのは、ナゼか・・・・。それは長い間、私にとっての疑問だった。

 

 今なら、私はこう言える。

 ヨガは、輪廻転生
(りんねてんしょう)からの解脱(げだつ)を求める技(わざ)と理(ことわり)だからだ、と(カルチャーセンターやスポーツジムのヨガ教室は、そこまで求めていないだろうが)。この世で、他者とどのように関係を持って生きていくかは、本質的に問うことをしないのだ。スイカを皮から一心不乱に食べていたり、からだ中に釘をさして苦行に励む、インドの行者を映した写真集やテレビを思い出す。

 一度、ハタ・ヨーガの指導者・成瀬雅春
(なるせ・まさはる)氏の倍音声明(ばいおんしょうみょう)のワークショップ(WS)に参加したことがある。倍音声明とは、チベット密教の瞑想法の一つで、第1チャクラから第7チャクラへ下から上に向けて「タテ」に、それぞれ対応する母音「m・う・お・あ・え・い・n」を順に発声し、チャクラを開いていく技法である。WSでは、皆で輪になってチャント(唱和)を繰り返していた。

 内観技法では、下から上へ・内から外へという気のベクトルは、からだの感覚〈表〉にあたる。それに対して、上から下へ・外から内へという気のベクトルはからだの感覚〈裏〉と位置づけ、日本文化の身体運用では――整体のみならず、武術や伝統芸能など――こちらに重きを置いていると捉えている。

 からだの感覚と母音との関係でいえば、内観技法では、はら
に5つの調律点があると措定(そてい)し、それぞれ母音の「あ・い・う・え・お」に対応するとしている。【下図 参照】
はらと母音
 試みに、「う・お・あ」と発音してみると、倍音声明と同じく下から上へ気は「タテ」に昇華するが、「え・い」では一転して左から右へ「ヨコ」に向かう。“気合いを入れる”時の「えい!」である。また、「あ・い・う・え・お」と五十音順に発声すると、反時計回りの渦ができる。これは北半球で水がつくる渦巻きと同じ向きだそうな。

 この「タテ」の感覚は、内観技法では“こし”から生まれたと捉えている。ヒトが四つ足動物から二本足で「立った」=ある線を「越した」、すなわち手が自由になり、脳が発達して、今日の――重力を脱して月まで届かんとする――文化・文明を築いた原動力である。一方、「ヨコ」とは、生きとし生けるものすべての母胎である大地=野原によこたわる感覚、文字どおり“はら”である。生(ナマ)の、動物的な、生命力にほかならない。

 こしは父性的で、はらは母性的とも言えよう。どちらも人間にとって欠くべからざる身体感覚であるが、あえていえば、ヨガ(を産んだインド文化)に限らず西欧文化は、一般論としてこしを主・はらを従とするのに対して、日本文化は(近代以前の江戸時代までは)はらが主だったのではないだろうか。神は――天上の唯一神・絶対神ではなく――八百万
(やおよろず)・山川草木(さんせんそうもく)にいまします。生者は死者=命(みこと)と共にこの地にある、解脱ではなく生命(命を生きる)を求める文化である。

 評論家の加藤周一
(かとう・しゅういち)は、『日本文化における時間と空間』(岩波書店)の中で、時間的に「いま」・空間的に「ここ」に生きる日本人の共同性を日本文化の本質として指摘し、文学や絵画、建築などで具体的に検証している。

 まず、文学における時間の表現:

 
「閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声
 そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、『今=ここ』に、全世界が集約される。
 芭蕉はそこまで行った。俳人の誰もがそこまで行ったのではない。しかし誰もが『今=ここ』の印象に注意し、その時までのいきさつからは離れ、その後の成り行きも気にかけず、現在において自己完結的な印象の意味を、見定めようとしたのである。俳句は日本語の抒情詩の形式が歴史的に発展した最後の帰結である。今ではおそらく数十万の人々が俳句でその『心』を表現しようとしている。さればこそ数百万の発行部数をもつ大新聞にも読者の俳句の欄がある。そのことの背景は、おそらく彼らが、少なくともその心情の一面において、現在の瞬間に生きているということであろう。」
(同上書 p.78)

 続いて、建築における空間の表現:

 
「日本では宗教的建築でさえも、平屋または二階建てで、地表に沿って広がり、天へ向って伸びてゆくことはない。神社には塔がない。(中略)例外は仏教寺院の五重塔である。しかし第一に、仏教は外来宗教であり、五重塔は外来宗教の造形的表現の一つである仏塔の『日本化』である。第二に、中国には大雁塔のように高い仏塔もあるが、日本では層を五重または三重に限り、幅の広い廂(ひさし)をほとんど水平に四方に出して、垂直の線を隠した。日本化とは塔の非塔化である。多数作られた五重塔は、日本建築にも高さへの志向があったということを証言するのではなく、日本では宗教建築においてさえも天を指して上昇する傾向はなかった、あるいはきわめて弱かったということ、建築的空間を水平面に沿って構成する傾向こそがきわめて強かった、ということを証言するのである。」(同上書 pp.167-168)

 それは何故なのか。列島、モンスーン気候、稲作、「単一」民族、帝国の周縁・・・さまざまな言葉がうかぶ。近代主義者の加藤周一は、農村共同体の「ムラ」意識に(個人の自由を抑圧するものとして否定的に)起源を求めている。そして、このような土壌から産まれた、歴史に対する責任&未来への洞察の欠如と、閉鎖的で多様性を認めない――武術でいうところの「居着いた」――大勢順応主義(コンフォルミズム)を断罪している。

 いにしえの――と言っても百五十年前まで――“はら>こしの文化”に生きていた武士は、切腹して身の証(あかし)を立てた。そこには確かに(西洋人の目から見てグロテスクと言われようとも)、身体性があった。ひるがえって、現代の日本はどうであろうか。「原子力ムラ」の存在や「今だけ・オレだけ・金だけ」という言葉に象徴されるように、加藤が指弾した“日本的なあまりに日本的な”事例にみちみちている。

 ただ――江戸時代と決定的に違うのは――共同体という身体性が欠落しているのだ。他者に共感する(まして共苦する)客体ではない。悪しき“本根(ほんね)”がむきだしなっている。かといって、西欧的な“立て前”(思想・信条といってもよい)で生きる主体でもない。他者との関係性の中で生きる喜びを喪
(うしな)ったデラシネ(根無し草)たちが、我利我利亡者(ガリガリもうじゃ)となって貨幣を、国家を、観念を、むさぼっている。

 

 先日、ビフィズス菌のサプリメントを、初めて買った。メディアで最近よく目にする、「初回限定、一週間分、何と500円」というアレである。実は飲んでお腹の具合をよくしようと思ったわけではなく、豆乳ヨーグルトを手作りでつくっているが、そこに(ヨーグルトは乳酸発酵。乳酸菌は小腸で活躍する)大腸で働いてくれるビフィズス菌を種菌として仕込んだら、ダブル菌効果!が期待できるのでは、ともくろんだのだ。

 効果のほどはさておき、一緒に送られてきたパンフに、こんな一節があった。「腸は食べ物の消化や吸収にとどまらず、ホルモン系・神経系・免疫系をそなえており、特に脳から独立した神経系は『第二の脳』と呼ばれている」

 私はそれを読んで――言葉尻をとらえるつもりはないが――??に思った。第一と第二は、逆ではないか、と。つまり、人間の個体発生(受精卵が細胞分裂を始めて、まず)においても、生命の系統発生(単細胞生物から人類にいたる進化の歴史)においても、最初に腸がつくられ、脳は後からできたのであるから。人体は、ミミズ(腸+一本の神経で生きている、脳なし)が、基
(もとい)なのだ。

 この第一の腸脳(生命的な活動をになう)を、日本文化では「はら」と呼んできたのではないか。それに対して、第二の頭脳(人間的な活動をになう)は――時に揶揄
(やゆ)の対象として――「当た間(ま)」「尾詰(おつ)む」などと言い表されてきたのではないだろうか。

 私が子どものころ、「頭のいい人」「大学を出た学者さん」というのは、しばしば「世の中のことを何も分かってない、世間知らずの人間」という軽侮
(けいぶ)のニュアンスをこめて、庶民は使っていたように思う。

 では、こしは? 二つの脳をつなぐ、パイプである。稽古会では、これを心髄・真髄・神髄
(しんずい)と名づけている。息や気、それに心眼の通り道である。現代人である我々は、近代以前の――たこ焼きに上から爪楊枝(つまようじ)を刺しても倒れない――「はらがすわった」“腸脳>頭脳スタイル”に戻るのは、不可能だろう。また、人権など無いに等しかった身分制社会を良しとすることもできない。

 ただ――下から爪楊枝を刺すとたこ焼きはあっけなく倒れてしまう――「頭でっかち」な“唯脳・電脳生活”を脱して、タテ・ヨコ、〈表〉・〈裏〉のバランスが調った社会に世直しする道は、まだ残されているのではないか。すなわち、生命的であって人間的な、和でありつつ個として生きられる、〈分かち合う文化〉の創造である。殺戮
(さつりく)の二十世紀から、共生の二十一世紀へ。

長崎 平和祈念像 

長崎 平和祈念像


ナナメ

 我が家の近くに、法輪寺
(ほうりんじ)という臨済宗の寺院がある。別名「達磨寺(だるまでら)」、中国禅宗の開祖とされる達磨(ボーディダルマ)をまつり、毎年、節分にはだるまさんを求めて多くの参拝客でにぎわう。私も数年前、ひとつを買った。息子の高校受験のげんをかついだのだが、息子は第一志望の学校に落ちてしまった。次の大学受験では、目を入れられるよう、親バカで願っている。

だるまさん

 「達磨大師はなぜ手足を失ってしまったか?」

 伝説では、壁に向かって九(苦)年の間、坐禅を続けたため、両手足が腐ってしまったという。それでは死んでしまうではないか、とチャチャを入れたくなるが、私は“からだの感覚”として、四肢がなくなったように感じられた――本人にも、周囲の人間にも――と推測している。

 というのも、稽古会で行っている「だるまさんレッスン」では、同じような(決して「同じ」とは言わない)感覚がおとずれることがあるからだ。

 レッスンは、次のように行う。

 結跏趺坐
(けっかふざ)または半跏趺坐(はんかふざ)で足を組む(結跏の場合:左足を右太股の上に→右足を左太股の上に置く。半跏の場合:右足を左太股の上に置く)。右足の踵(かかと)が左の股関節(こかんせつ)に、左足の踵が右の股関節につながるものとする(実際には離れているが)。上体は、左右の掌(てのひら)の中央=鎮心(ちんしん)を同側の股関節にあてる(実際には触れられないので、下腹の左右にあてておく)。

 このようにすると、下半身には右股関節→右膝→右踵・左股関節→左膝→左踵・右股関節という
形のヨコの“気の筋道”が、上半身には右股関節→左の肩胛骨(けんこうこつ)中央→左肘→左手・左股関節→右の肩胛骨中央→右肘→右手・右股関節という同じくタテの“気の筋道”が生まれる。この時ポイントになるのが、肉体的には存在しないが背中(からだの感覚としては〈裏〉)で交差している“気の筋交(すじか)い”である。

 このX形の“気の筋道”は、普段意識することは難しいが、例えば――

(1)明治以前の日本人の歩行スタイルといわれている「なんば歩き」の原理であり(例えば左足に重心がある時は、左股関節から右肩胛骨中央をへて右腕に気力が伝わり、結果として右足と右手が同時に前に出る)
(2)着物の袂
(たもと)を始末する際に「たすきがけ」をすると、背中側にこのX形があらわれ、小手先(こてさき)ではないこしとつながった手の遣(つか)いになる
(3)「貝の口」で帯を結ぶと、ヨコに締め→タテに締め→両ナナメに小さく締めてまとめる(江戸時代の末からひろまった「お太鼓結び」では、最後の締めを欠くために、補整具が必要になる)

 などにうかがえる。

 以上の型を決めた後は、目を閉じて、内観技法の基本(呼吸・心眼・気力)で心身を調える。坐禅ではなかなか無念無想の境地に入れない(と思う)が、息を吐きながら左右の股関節で二つのがつながるように“気の筋道”を追っていると、いつしかタテのがヨコのに重なって一つになり、さらに左右の輪が中央に寄ってきて一つの小さなになる。

 この間
(かん)、手は自ずと下腹をはなれて、むねの前で両手を合わせて合掌(がっしょう)するか、腹の前で右手を下、左手を上に置いて坐禅の時の印(いん)を組むかたちをとってゆく。

 最終的にははらの中央の一点(下心)におさまるのだが、その時には手足の存在感が希薄になり(だるまさんというよりもお地蔵さんになったような気分)、「今=ここ」の感覚――あえていえば、絶対的な時間と空間の間
(ま)――にみたされ、充足感をあじわうのである。

 それはあくまで主観に過ぎないのでは、と問われれば、「そのとおり」としか答えようがない。しかし私には、このような感覚体験――と、後で反芻(はんすう)した際に得られる“身体知”――は、前掲書で加藤周一が下したような否定的なものには思えないのだ。

 なぜなら、「今=ここ」から自分が生きてゆく活力(元気の素
(もと)、生命力(感))が生まれてくるのであり、さらにいのちは他のもの(者・物・霊)とつながっているという、かけがえのない身体観=人間観=社会観=世界観を与えられるのだから・・・。

 

 今回、
『日本文化における時間と空間』を読み直してみて、私はひとつのことに気づいた。それは、タテ=垂直(感覚)とヨコ=水平(感覚)についてはさまざまな文物で詳しく分析されているが、ナナメに関しては何も言及がないのである。

 たしかに、“ものをものたらしめる”礎
(いしずえ)は、タテ・ヨコのラインかもしれない。私は染織家の志村ふくみさんが始めた「アルスシムラ」(市民の織物教室)に半年ほど通って帯地を織ったことがあるが、高機(たかばた)では経糸(たていと)を整えてから緯糸(よこいと)を一本ずつ通してゆく。言わずもがな、斜め糸はない(この「経」「緯」という漢字が、東西・南北を表す「経度・緯度」でも用いられているのは興味深い)。

【考察】[タテ糸とヨコ糸の織りなすもの

 建築をとりあげてみても、タテの柱とヨコの梁
(はり)が垂直&水平に交わらないと(=斜めにかしいでしまっては)、建物は立たないだろう。また、「ご機嫌(きげん)斜め」とか「斜(しゃ)に構える」という用語からは、否定的なニュアンスしか伝わってこない。

 しかし、このナナメが交差したXは――先に挙げたたすきがけや貝の口、さらにはテストの答案用紙のX点(いつから、誰が使い始めたのだろう? バツは「罰」を与えるため?)にみられるように――タテの〈表〉+ヨコの〈裏〉だけではもたらされない力を秘めているように感じられる。

 世界最古の木造建築・法隆寺には、補強材としての筋交いが使われていない。寺社建築だけではない。私が暮らす京都の町家(築百二十年ほどの下町の二軒長屋)にも、筋交いはない。それでも、地震の被害を免
(まぬが)れてきた。家の基礎を現代建築のようにコンクリートで固めずに、柱はただ石の上にのっているだけという柔構造も、寄与しているのだろう。

 工人たちは、筋交いの効用を知らなかったのだろうか。いや、木がどの方角を向いて生えていたかまで頭に入れて材として生かすという宮大工の話を読むと、知らなかったとは思えない。知ってて用いなかったのは――あえて〈表〉にしないで〈裏〉にとどめたのは――脈々と受け継がれてきた伝統の智恵か、それとも美的センスのなせる技
(わざ)か?

 1950(昭和25)年、『建築基準法』が制定されて、建造物に筋交いの使用が義務化された。私はそこに、ひとつの伝統の断絶(形骸化)を見る。
2018/05/08 記)

PS:私の住んでいる地域は、京都の下町であるが、一応南北の碁盤の目が整っている。先日、稽古会の会場のお寺に向かって急いでいた時に気づいたことがある。ある小路を曲がった際に、自分の呼吸が変わったように感じたのだ。もう少し具体的に言うと、はらの回転(内観技法では、表:外回転、裏:内回転)が、逆方向になったような気がした。

 改めて検証してみると、東西(ヨコ)の道では〈裏〉の呼吸(=吸い切る呼吸、はらは内回転)が、南北(タテ)の道では〈表〉の呼吸(=吐き切る呼吸、はらは外回転)がなじむ気がする。今まで、呼吸を〈裏〉or〈表〉で意識しながら歩いたことはあるが、東西南北という方角との関係は全く気づかなかった。

 アルスシムラで機を織った時、タテ糸はこしの感覚、ヨコ糸ははらの感覚ではないかと思ったが、なぜタテ糸を「経糸」、ヨコ糸を「緯糸」と、地球上の位置を示す経度・緯度で用いられている漢字が使われるのか、腑に落ちないままだった。

 私なりに考えてみた結論がこうである。

(一)こしの感覚(内観技法では〈表〉)=タテ=南北の気のベクトル、はらの感覚(同じく〈裏〉)=ヨコ=東西の気のベクトル、という身体感覚が、まず存在(共有感覚として)し、

(二)その後、中国から織りの技術が(漢字と共に)もたらされた際、織物の場合は一般的に用いられている「縦」「横」ではなく、糸偏にちなんだ「経」「緯」という漢字が使われ、

(三)さらに明治(?)の西洋分物の移植時に、「経」「緯」の漢字が「経度」「緯度」にも転用されたのではないだろうか。

 ちなみに大阪では、南北の道を「筋」、東西は「通り」と称している。筋とは、「背筋を伸ばす」という表現もあるように、こしの感覚家族の一員である。

 そう思うと(何の根拠もない推測だが)、あらためて言葉とからだの感覚の深い関係性に、思いが至る。
2018/08/18 記)

C「おむすびコロ輪


 昔々、あるところに正直者のおじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、おじいさんは山へ木を伐
(き)りに出かけました。お昼になっておばあさんのつくってくれた弁当をひろげようとしたところ、おにぎりを落としてしまいました。三角おむすびはころころところがって、小さな穴へ――おじいさんがあわてて穴をのぞくと、中から楽しげな歌声が聞こえてきます。

 おじいさんがおむすびをさがして穴に手を入れると、歌声は止んでしまいました。不思議なこともあるものだと、おじいさんは残りのおむすびも穴の中へ落としてみました。すると、地面の下からねずみが顔を出して、「どうぞ」とおじいさんをねずみの家へ招き入れたのです。

 そこでは、白いねずみたちが、楽しそうに歌いながら、お餅をついていました。おじいさんもその輪にくわわって、おどり、うたい、つきたてのお餅をご馳走になり、楽しいひとときを過ごしました。

 帰り際、ねずみが「お礼に一つさしあげましょう」と言って、いくつかの包みをおじいさんの前に並べました。おじいさんは、一番小さな箱をお土産にもらって、家に帰りました。

 事の始終をおばあさんに話し、二人で小箱を開けたところ――あら、びっくり。中には、小判が詰まっていたのです。それから二人は、幸せにくらしましたとさ。

 で、話は終わりません。窓から盗み見していた隣の強欲じいさんが、「オレも」とおむすびを握っていそいそと山へ出かけました。件
(くだん)の穴まで来ると、おじいさんはおむすびを放り込みました。

 すると、聞いていたとおりにねずみが姿を現し、根の国へ案内してくれたのです。ところがおじいさんは餅つきには目もくれず、「はやく土産をくれろ」とねずみたちに迫りました。「出さないと、猫の鳴き真似をするぞ」。

 ねずみたちはふるえあがって、お土産の包みを並べました。おじいさんは、一番大きな箱を選んで、ほくほく顔で家に帰りました。さて、家に着いたおじいさんが、胸をおどらせながら包みをほどいてみると――中には、石ころが詰まっていたとさ。

 

 この『おむすびころりん』の昔話(民話)は、各地で語り継がれ、様々なバリエーションがあるようだが、私は、以下、三つの面から、個人的に考察してみたい。

 まず第一に、“中庸
(ちゅうよう)の思想”である。

 私は、人間関係(社会的な人と人の在り方の関係性)は、〈収奪・交換・贈与〉の三つに収斂
(しゅうれん)されるのではないか、と考えている。

 収奪とは、文字どおり奪うことで、その極限が戦争や植民地である。それに対して贈与とは与えること、家族が典型であり、“いのち”そのものである。交換とは、私たちの日々の暮らしのありよう、すなわち商品やサービスと金銭とのやりとりである。

 人の道として収奪を排した場合、出家してお布施で生きることでもしないかぎり、民衆は贈与では食べていけない。残された在り方は交換であるが、交換が限りなく収奪に近づくか、それとも贈与を志向するかで、関係性はおおきく変わってくる。

 前者こそ、今、日本社会で問題になっているブラック企業(過労死、ハラスメント)や、外国人研修生の搾取(低賃金、人権無視)であろう。貨幣を仲立ちとした交換をよそおいつつ、実質は収奪にほかならない。

 一方後者は、古
(いにしえ)の近江商人の家訓「売り手良し、買い手良し、世間良し」に象徴される生き方ではないだろうか。まず、自己の欲望を肯定したうえで、強欲(収奪)にはしらないように抑制する、という。

 『おむすびころりん』のおじいさんは、はじめから贈与の気持ちでねずみに接したのでもないし、贈り物を断ってもいない。またねずみたちも、おむすびの返礼として小判を贈っている。

 このような民衆の心を、江戸時代の農政家・二宮尊徳
(にのみや・そんとく)は、水車になぞらえて、「人道は中庸を尊む」と説いた。
 
【二宮翁夜話】
資料
(pdfファイル B5)

 

 第二に、“場の二層性”ということである。

 おじいさんが木を伐った場所は、ねずみ(根住み)の国=根の国、黄泉
(よみ)の上であった。おじいさんは、家(Α地点)と山(Β地点)を単に往復したのではない。Βは、下へ降りれば、C地点(異界)でもあった。ここにΑΒCをむすぶ三角形が成立する。

 私はこの三角が、表現の肝
(キモ)ではないか、と思っている。

 例えば、夢幻能
(むげんのう)といわれる能の形式においても、旅の僧がある場――古跡にまつわる碑(いしぶみ)や柳の木など――を訪れると、何やらものうげな地の人に出会う。実は怨霊の化身で、僧の夢にあらわれて己の物語を語り、舞いくるう。僧が鎮魂(たましずめ)を行うと、霊は癒されて去ってゆく・・・という展開をとる。現界と霊界が、一点で交錯している(そのような場を、「聖地」というのだろう)。

 また、文学においても、二層から生まれる三角は、深い余韻を与える。例えば、江戸時代の俳人・松尾芭蕉
(まつお・ばしょう)『おくのほそ道』の一句――

 
(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声

 この句では、芭蕉(の心)(Α)と蝉(Β)と岩(C)が、三角形をなしている。さらに、『おむすび〜』ではねずみの歌声が一辺を引く(=おじいさんが異界へと降りてゆく)はたらきをしたように、蝉の鳴き声が――すこしずつ岩にしみていく、という描写をとおして――ΑΒCの三角形を、平面から立体(三角錐)へと深化させてゆくのである。 


 【おくのほそ道】
資料
(pdfファイル B5)

 「空蝉」
(うつせみ)という言葉があるように、七年間地の下にいて、地の上では一週間の短い命。蝉は人間のはかなさの、喩(たと)えである。これを、「閑さや 心にしみ入る 蝉の声」としては、凡句にしかなるまい。なぜなら、もの(者・物・霊)への仮託Cを欠くために、ΑΒの直線にとどまり、間(ま)がない→感興が生まれないのだ。

 
古池や 蛙(かわず)飛びこむ 水の音

 の句も、同じ構造をもっている。蛙がΒで、古池がCである。ここでも音(聴覚)が、感覚の深化→共感、感動へといざなっている。私はこれを、“三角のま(間・真・魔)法”と名づけたい。

 

 第三に、“自力
(じりき)と他力(たりき)の出会い”である。

 自力とは、己
(おのれ)の力――のみ――を頼りにして事に臨む姿勢であり、他力とは、自己の非力を悟って他に身をゆだねる在り方である。

 『おむすびころりん』では、小欲のおじいさんが半ばまで(山へ登って、二つ目のおむすびをころがすところまで)は自力で、その後は、他力というか、流れにまかせて受け身であったのに対して、大欲のおじいさんは、徹頭徹尾、自力で押し通そうとして、痛い目にあっている。

 だが、考えてみれば、100%自力で生きている人間などおらず、また、100%人間は生かされているのだ、とも言い切れない。自力と他力、そのどこで折り合いをつけるか、二者の調和が問われているのではないだろうか(この点では、中庸の思想と重なるだろう)。

 日本の仏教史では、禅宗は自力門、念仏宗は他力門とされてきた。鎌倉時代に念仏宗の一派・時宗
(じしゅう)を興(おこ)した一遍上人(いっぺんしょうにん)の言行を記録した『一遍上人語録』に、次のような記述がある。

【一遍上人語録】
資料
(pdfファイル B5)

 ここでは、禅僧(自力)の法燈国師
(ほっとうこくし)と念仏僧(他力)の一遍が出会っているだけでなく、一遍が「南無阿弥陀仏」と唱える行い(自力)が、阿弥陀仏の救いの手(他力)を招いて、最終的には自他の分別をこえた境地=「仏もわれもなかりけり」に達している。

 坐禅をする=自力の行の場合でも、悟りとは得るものではなく与えられるもの(他力)ではないだろうか。つまり、自力といい他力といい、入る門は違っていても、行き着くところは、同じ頂
(いただき)なのだ。

 自力から他力へというのは、何も宗教的な修行にとどまらず、人間の成熟を表す歩みにも言えるのではないかと思う。

 

 実は、私が“三角のま(間・真・魔)法”に気づいたというか考えるようになったのは、整体でいう愉気(ゆき=手をあてること)の鍛錬をつんでいく過程であった。

 内観技法では、胸の中心(Α)に心眼を置き、はらの下心→さらに下の丹田(Β)に向かって息を吸う。次ぎに息を吐きながら、心眼を感覚の焦点(C)に向けると、ΑΒCをむすぶ三角形が成立して間が生まれ、生命力(気)が(C)に向かって流れる→からだの感覚が活性化され、心身が“生きる力”にみたされるのである。

 この原理は、(三)日々の養生法の[こしの行気]・[はらの行気]でも、(四)手間(いのちにふれる手)でも同じである。最終的には、産み出し(自力)生まれてきた(他力)三角の“おむすび”を、まるくはらにおさめて良しとする。

 これは、まさに『おむすびころりん』の、お結び(〈裏〉と〈表〉という二つのからだの感覚をむすんで=一緒に合わせて)をコロコロところがし、まるい穴(=はらのたま)へ落として輪
(りん)(わ)とする、昔話の説くところではないか。

 牽強付会
(けんきょうふかい)のそしりを怖れずに言えば、私は、民話や昔話一つとっても、からだの感覚こそが文化の母胎ではないか、ととらえてみたい。飛躍するようだが、京都の“一見(いちげん)さんお断り”や離婚の調停でも、間(あいだ)に仲介人を立てれば二者対峙よりも事がスムーズに運ぶのは、“三角のま(間・真・魔)法”から派生した生活の知恵ではないかと思える。

 まことに、二十世紀を生きたイギリスの詩人・WHオーデンが、いみじくも語っている。

「われわれの認識の最後はこういうことだ――
 存在のみで充分だ、
 動物の孤独であれ、愛の戯れであれ、
 生きとし生けるすべてのものは
 おんなと男と赤ん坊です。」
『謎』 深瀬基寛(ふかせ・もとひろ)『オーデン詩集』より)

 神(おおいなるもの)への信仰心を喪った現代人にとって、『おむすびころりん』で描かれた根の国などは童話の世界にしか過ぎまい。しかし、生と死、現界と霊界が、いま・ここに併存しているというからだの感覚+身体観・人間観・社会観で生きていた古人にとって、じいちゃんばあちゃんが話して聞かせる民話は、生きるうえでの道しるべでもあったのではないか。

 では、“外なる神”をもはや信じられない我々は、どこに信(真)を置けばよいのだろうか? 生と死をつらぬくもの、自己と他者をつなぐもの、生き物であって社会的存在でもある、己を律するものとして、何をよりどころにしたらよいのであろうか。

 私の(自分が得た・与えられた)答は、一遍上人が範
(はん)を示しているように、自己の内への気づき、すなわち“内なる神”=生命力(感)に目覚めることである。それを何と呼んでもよい。このからだのなかから、“三角のま(間・真・魔)法”で、人間の、文化の、文明の、新生が産声をあげることを、願ってやまない。
2018/05/28 記)

D「物曰(い)うなら、声低く語れ!

 
正月。多くの日本人は神社に初詣に行って、願い事をするだろう。胸の前で手を合わせて、「家族が健康でありますように」「商売繁盛」「志望校合格!」「恋愛成就」etc.・・・。人から神へ願うこのスタイルを、私たち現代人は疑うことはあるまい。

 内観技法には、〈受容〉と〈表出〉という二つの根本概念がある。〈受容〉とは、(からだの)外から内へという気のベクトルを、〈表出〉は逆に内から外へのベクトルを表す。その時に感じる感覚が、〈裏〉であり〈表〉である。

 〈表〉の代表的な身体技法が活元
(かつげん)と呼ばれているもので、〈裏〉には行気(ぎょうき)がある。例えば、胸の前で手を合わせて集注すれば、合掌行気(がっしょうぎょうき)になる。

 私は稽古を重ねてゆく中で、祈るという動作が行気の型をとるなら、ベクトルは外から内へ向かうはずだ。それでは“誰が”・“誰に”願うのだろうか、という疑問が浮かんできた。そんな折りに、沖縄の合気道家・宮城隼夫
(みやぎ・はやお)氏の著書を読んで、目が開かれる思いがした。氏は次のように書いている。

 
「王府時代に編纂された古い歌謡『おもろそうし』にも現れる、琉球舞踊の基本三手の一つ「拝み手」が、いわゆる気の養成と密接に関係していることがわかってきた。驚くことに、「拝み」の意識の深さが、引き出される潜在能力の度合いに、大きく影響することもわかってきたのである。言ってみれば、想いの深さ、すなわち「自分を中心とする空間の広がりの意識」にほぼ比例して、相手への作用はだんだん大きくなっていくようである。(中略)

 拝み手は、古来、天地を支配するものへの祈りや、敬意を表す原始的な動作であるが、拝み方にしても、次の二通りがあるので、古手では、一方を拝み手、他方を御願手(ウガンディ)として区別する。

 拝み手―外なる大宇宙への拝み。すなわち、自分の外側に存在する宇宙や大自然、あるいは、その心象としての神への祈りや敬意を表す動作。

 御願手―内なる小宇宙への拝みであり、自分に内在する小宇宙や神に向けて拝む動作。

 拝み手は、両手を上向きに広げて、そのまま頭の所まで掲げる動作であり、御願手は、合掌のように両手を胸の前にもっていき、手の平を合わせるものである。」
(『琉球秘伝・女踊りと武の神髄』pp.28,34-35 海鳴社)

 古代人にとって、神が願い、人が受容する。神の祈りとは、一人一人に授けた生命
(いのち)、使命と言ってもよいだろう。人は神の願いに力を尽くして応える――己(おのれ)の人生を捧げる。それが拝むということ、内観技法でいえば、〈表出〉=人生の表現なのだ。私はそのように解釈した(琉球古典舞踊も合気道も、どちらもうとい人間であるが)。

 では、古代から現代に至る長いスパンの中で、いつ・どのようにして「御願手」の祈りのベクトルが、180度反転してしまったのだろう?

 

 
奈良から柳生
(やぎゅう)の里に向かう往事の街道沿いに、一つの碑(いしぶみ)が建っている。史跡「柳生の徳政碑文」と呼ばれているその石碑は、室町時代末期の正長元年(1428年)に農民が徳政を要求して蜂起した土一揆に対して、柳生の里の守護権を持つ興福寺が徳政令を発し、その記録(?)に郷民が彫ったものと言われている。

 
「正長元年ヨリサキ者、カンヘ(神戸)四カンカウ(四ヵ郷)ニヲヰメ(負目)アルヘカラス、」

 歴史学者の勝俣鎭夫
(かつまた・しずお)は、「正長元年以後、神戸四ヵ郷にはいっさいの負債がない」という従来からの解釈に疑問を抱いた。なぜなら、徳政とは“××年までの借金をチャラにする”という性格を有していて、今後負債をおわなくてすむとしたら、借財しほうだい、社会が成り立たないではないか。

 勝俣は、碑文中の「サキ」という単語に着目し、先が「以後」ではなく「以前」を意味しているのではないかという仮説をたてた。そして古代から戦国時代までの歴史的・文学的な文献を渉猟し、次のような結論を導き出した。

 
「日本語のある時点を基準にして、時間の経過をあらわす「サキ」・「アト」という言葉は、世界の他の多くの諸言語と同じように、「サキ」は過去を、「アト」は未来を意味する言葉として、古代から現代にいたるまで使用されてきた。ところが、日本語のこの言葉は、戦国時代という大きな社会転換のなかから、「サキ」=未来、「アト」=過去というまったく正反対の意味を派生させ、以後、この言葉は、新・旧両方の正反対の意味をもつ言葉として使用され、近代以降、新語意は旧語意を圧倒するかたちで定着した。

 「サキ」・「アト」という言葉の本来の言語表現は、古代ギリシヤ語、南米アンデス地方の先住民のケチュア語、アイマラ語の言葉の成り立ちについての説明論理から明らかなように、未来を背に、過去と現在を眼前に置いた姿勢での視覚的体験より生みだされたものであった。そして、この表現は、人々が実感しうる社会的共通感覚を基礎にして形成された社会的時間認識にささえられて使用されてきたという性格をもっていた。このように、言語表現と社会意識との深い関係を具体的に示す「サキ」・「アト」という語の意味が、「サキ」=過去、「アト」=未来から正反対の「サキ」=未来、「アト」=過去に転換したということは、時間に対する視覚的認識のあり方と、言葉の表現の関係をそのままにして、それを認識する眼の位置、体の姿勢の向きを百八十度回転させたことになる。すなわち、「サキ」・「アト」の戦国時代における語意の転換は、日本列島で暮らす人々の原始・古代以来の伝統的時間認識の転換を前提とし、それをストレートなかたちで表現したものであった。(中略)

 ここで新しく形成された、未来に向き合うという時間認識の姿勢は、西欧近代社会のもとで明確なかたちで形成された「近代的時間観念」と同じ認識の方向性――知覚的に認識しうると考えていた時間に、神仏の支配領域に属し、人間が知覚できないものと考えていた時間を、知覚可能な時間として、新しく「人間」社会の時間に加え、過去・現在・未来という時間構造をつくりあげ、人間が正常な姿勢で進む前方に未来をおく方向性――をしめすものであった」
(勝俣鎭夫『中世社会の基層をさぐる』pp.21-22 山川出版社)

 なるほど、言われてみれば我々は、真逆のベクトル(指向性)を持つ「さき」「あと」という言葉を、日常生活では平気で(矛盾を意識せずに)使用しているではないか。例)「ご先祖様に申し訳ない」←→「先の見通しが立たない」、「また後で会いましょう」←→「跡形もなく消える」。

 私が思うに、古代の人々は、目を(肉眼ではなく心眼とでも言おうか)後に=背中に向けていたのだ。自らのルーツに、人と神が親和していた神話の時代へと・・・。現代の私たちのように、生きる基準・規範が〈未来〉にではなく、〈過去〉にあったのだ。それが戦国時代という中世から近世への転換期にあって、人間的な自我の成長(成熟?)にともない、神(の束縛)から身を離し、目を前(未来)に向けて、独り、歩み始めたのではないだろうか。

 ※
 
 
五年前に父が死んだ。父は無宗教を自認していたが、母が熱心な金光教の信者だったことから、葬儀は神式(金光教式)で行うことになった。

 私も子どもの頃、よく母に手を引かれて通った、石段を上り詰めたところに建つ、横須賀教会の古びた会堂。平屋の建物の大広間で、親族だけの葬儀がとりおこんわれた。

 白装束
しょうぞくに身を包んだ教会長が、式次第に則(のっと)って、朗々と祝詞(のりと)を奉じて儀式は進んだのだが、彼が自身に言及する時に、「私、横須賀教会長○○○○は」と、急に小声になって言うのだった。謙遜なのか、不思議な物言いをするなと思ったが、その場はそれで終わった。

 後日、歴史家・網野善彦
(あみの・よしひこ)の論考、『高声(こうしょう)と微音(びいん)』(網野善彦・笠松宏至(かさまつ・ひろし)・勝俣鎭夫・佐藤進一(さとう・しんいち)編『ことばの文化史[中世一]』平凡社 所収)を読んだ時、その謎が解けたように思った。網野は書いている。(以下、続く)

(二)内観技法の基本

【型】
 人間の身体を、肉体(物質)ととらえるか、からだ(空・殻+強調の「だ」 例)「ダメだ」)ととらえるか、あるいはどちらに比重をおくかで、身体観・人間観、ひいては世界観がおおきく異なってくるでしょう。肉体は、あくまで個体としての生命活動を行っているのに対して、からだは、個を超えて、“いのち”(「いの」は強調 例)「いの一番」+ち「地・血・乳・父」=根元的な存在)をつなぐ、いわば“いのちのもえ”とでも呼ぶべき生命力+生命感の働きがあります。

 人間をなぜ“人の間”と書くのかと考えた時、人が物理的な間
(あいだ)という以上に、感覚的で関係的な時間・空間・世間(せけん)の間(ま)を生きている存在だからではないでしょうか。何よりも、からだが一つの間(ま)なのです。この間は、日本文化の伝統的な身体運用では、はら・こしを礎(いしずえ)にしています。

 私たちが真面目
(まじめ)に、手間(てま)をかけて生きれば――語呂合わせではありませんが――間は真(ま)にかわりうるのではないでしょうか。真面目とは、真に面する目を持つこと=真理・真実から目をそむけない事であり、手間とは、真=いのちにふれる手を持つこと=もの(者・物・霊)と一体になる事です。

 “いのちのもえ”(生命感+生命力)を活かし、与えられた命を生き切るために――整体が産んだのが内観技法です。この身体技法は、心眼(みずすましの目)・呼吸(ひょうたんの息)・気力(間和るたまの腹)の三つの型で、はら・こしを礎
(いしずえ)とするからだの感覚を、視覚的にとらえようとする(わざ)と(ことわり)です。

@
心眼(みずすましの目)
技法&資料
(pdfファイル B5)

 心眼とは、からだの内の感覚を観る内観の目であり、外に向けては、もの(者・物・霊)の本質を見抜く心の目でもあります。

 一方、肉眼は、ものの表面を、外から、形で、物質的に把握しようとする目です。

 水棲昆虫のみずすましは、目を四つ!持っています。実際には左右の目がそれぞれ上下に分かれ、上の目で空中の敵や餌を、下の目で水中のそれをとらえるそうです。

 稽古会では、気づきを得るために肉眼を閉じて稽古をしますが、心眼が鍛えられれば――日常生活において、肉眼を開けている時でも――真面目に生きられるのではないかと思います。

A呼吸(ひょうたんの息)
技法&資料(pdfファイル B5)

 臨済宗
(りんざいしゅう)・中興の祖といわれる江戸時代の禅僧・白隠(はくいん)は、若くして禅病にかかり(おそらく公案の解を考え続けて頭に血がのぼり、心身のバランスをくずした状態ではないかと思われます)、京都・白川の仙人に教えをこいて、丹田を意識した呼吸で病を克服し、84歳まで長寿を全うしました。

 白隠はこの呼吸法を、「瓢(ひさご=ひょうたんのこと)呼吸」と名づけました。ただ残念ながら、その経緯を記した著作
『夜船閑話(やせんかんな)には、イマイチわかりやすく書かれているとはいえません(腹式呼吸で丹田を活性化させる息づかいだと思われます)。

 稽古会では、心眼を胸の中心に置き、はらの中心→さらに下の丹田に向けて息を吸い、「吐くを意識しない」(by野口晴哉)という一種の腹式呼吸法を実践しています。

B気力(間和るたまの腹)
技法&資料
(pdfファイル B5)

 はらをたま(○)ととらえ、意識的に回転させることによって肉体の筋力を越えた力を産むことは、中国武術の意拳でも行われています。いのちの“蔵”としてのはらという間(ま)は、気力の母胎なのです。

 気力の気は、〈名〉=情報であり、力(ち「地・血・乳・父」+起源・由来の「から」)は、〈実〉=実体です。気と力は、一体となって“いのちのもえ”を担っています。

 内観技法では、はらの間和り(回転)の違いによって、二つの根元的な生命感覚が産み出されるととらえています。一つは、内回りから生まれる受容する力/つながる関係性としての〈裏〉であり、もう一つは外回りから生まれる表出する力/わかれる関係性としての〈表〉です。

 私たち現代人が、日常的には〈表〉の感覚で生活しているので、稽古会では、〈裏〉を鍛えることに主眼をおいています。ですが、人が時間・空間・世間という間(ま)を――客体であり主体として――生きるためには、どちらの感覚も欠かすことはできないでしょう。


【肝】

@こし・はら
技法&資料(pdfファイル B5)


(三)日々の養生法

三つの養生法
・行気[技法&資料(pdfファイル B5)
・活元[技法&資料(pdfファイル B5)
・気合[技法&資料(pdfファイル B5)

 整体協会の創立者・野口晴哉
(のぐち・はるちか)は、お弟子さんから「一人でできる稽古法には、どんなものがありますか」と尋ねられたときに、「一に行気(ぎょうき)、二に活元(かつげん)、三に気合(きあい)」と答えたそうです。

 内観技法の観点からいえば、行気と気合はからだに清らかな気を入れる→〈裏〉の感覚にあたり、活元はからだから邪
(よこしま)な気を出す→〈表〉の感覚にあたります。ですから、この三つの養生法は、ワンセットでとらえる必要があるといえます。

 日常的に実践するうえでは、行気は朝起きたときに行うのがよく(布団に寝たままでも、トイレで腰掛けているときでも、通勤電車のなかで吊革につかまりながら)、活元は夜、寝る前に行うのがよいでしょう。気合は、ここぞという時に、自分に活・喝!を入れます。

 続けるための秘訣は、文字どおり続けることです。ぜひ、この身体技法を、日々の養生(からだとこころを調えること)にとどまらず、自らの生命感覚を鍛えるものとしてご活用下さい。

【個人的な体験】by 高柳無々々 

 2015年春に、膿胸
(のうきょう)という病を患い、一カ月半、入院・手術をしました。口の中のナントカという常在菌が肺に入ってしまい――普段なら、免疫がはたらいてなんともないそうなんですが、体調がすぐれずに抵抗力が弱まっていると――化膿して、レントゲン写真では左肺が真っ白になっていました。

 内科的処置では治療できなかったため、医師が内視鏡を見ながら耳かきのようなのもので膿をかきだし、4Lの水で肺を洗い流す手術を受けました。手術そのものは支障なく終わったのですが、実はその数日後、肺が空気漏れをおこしていることが分かったのです。

 医者からは、このままでは第二の手術が必要になる、と告げられましたが、それが何ともおぞましいものでした。体網
(たいもう)という腸をおおっている膜――要するに、脂肪の塊――が免疫力に優れているため、それを横隔膜を突き抜けて胸まで引き上げ、肺の穴をふさぐと同時に、膿胸でできた空洞を埋める、という内容でした。

 聞いてるだけで、げんなりしてしまいました。第一の手術はともかく、第二のそれはいかにも不自然に感じられて、何としても避けたい。ただ、自然に治癒する確率は10%だと宣告され、次の手術日がすでに1週間後に設定されている・・・。

 不安と焦りにさいなまれながら、自分にできることはこれしかない――ベッドのうえで一人、活元と行気、愉気を続けていました。季節は、桜からつつじに代わっていました。すると、四、五日して、空気漏れが治まったのです。医者からは、「奇跡だ」と言われました。

 もちろん、入院してから一日三回、点滴で抗生剤を受け続けていましたから、この身体技法のおかげで治ったとは断言できません。ただ、オールタナティブなものを持ち合わせていないと、近代医療のまえでは“まないたの上の鯉”よろしく、受け身でしかない己の無力さを痛感するだけではないでしょうか。この時ほど、十年近く整体を学んできてよかったと思えたことはありません。

 このように書いたからといって、私は決して医療システムを否定するものではなく、整体などの東洋的な「代替療法」と補い合えばよいのでは、と考えています。二者にある大本の違いは、西洋が健康=善・病気=悪の二元論から病は克服すべきものととらえて“延命”治療を図るのに対して、東洋では“養生”(生を養う)を旨とする点でしょうか。

 整体を稽古していながら病気になったのでは説得力がない、と言われるのを覚悟のうえで、私はこの入院・手術の体験をへて――大仰
(おおぎょう)なようですが――病気は運命ではないか、と思うようになりました。

 釈迦が、〈生老病死〉を人間の根元的な「四苦」と捉えたように、誰にも避けて通れない道ではないか、と。

 そして、野口晴哉も語っていますが、整体(やその他の東洋的な身体技法)は、予防接種でもなければ万病に効く特効薬でもない、と今では考えています。

 それでは、何のために? 私なりのこたえが、“現れる”を“表わす”人生の表現活動であり、人間の分際を知って(規=のり)・身を美しくたもつ(躾=しつけ)、日々のつとめです。

(四)手間(いのちにふれる手)


からだとことばを育む会
HOME

▲TOPへ戻る