第36号2006/10/01


豆ランチパーティー 夏(7月〜9月)
 


祝島からみる日本の原子力政策 (7/10)  八木 紀久代(やぎ きくよ)

 今回お話してくださった山本さんは、1980年ごろグリーンコープを作り、脱原発の委員をされていたのだそうです。生協にも色々あるそうで、そこでは放射能汚染の測定機を持っていて、商品の調査もされていたのだそうです。しかし、生協の組織が大きくなると反原発がやりにくくなったので、山本さんは生協を「卒業」されました。

〈何故、反原発がやりにくくなったのか?〉
 生協が赤字になると、「反原発」に力を入れるよりその時に開発したプライベート商品の拡販をすべきだと言われたのだそうです。また、反原発の集まりをゲストを呼んで開催すると費用がかかります。これにも「費用を使う」ことに批判的で、せっかく反原発の意思を明示した要綱を持っていても、活動がしにくくなったのです。あからさまに「反原発の運動をするな」と言われたわけではないそうですが、費用を使えなかったり、優先順位で否定されれば「運動するなと言っているようなもの」だったのだと思います。「卒業」された山本さんは生協でもパンを売っていたので、その後パン屋さんを始められ、今もパン屋さんをしながら反原発の運動をされています。

 上関原発の計画は1983年に話が出ました。以来約25年、反対運動で原発を作らせないように運動をされています。話が出た時には、すでに中国電力から水面下で働きかけがあり、上関町から「誘致を申し出る」形だったそうです。

 上関町では42%、祝島では90%が反対している原発。町長選挙なども原発推進派、反対派に分かれる格好になるそうです。そのため、小さい町だし、反対派か推進派かが分かると親戚付き合い、町内の付き合いが出来なくなるので、推進派か反対派であることを皆隠しているそうです。

 原発を作るために海への保証金として用意されたのは125億円。うち祝島の予算は5億4千万で恐らく一人あたり数千万になるそうですが、祝島の方は受け取っていません。

〈祝島で反対派が多いのは何故?〉
 祝島から出稼ぎに行った方が、「原発の危なさ」を強く訴えたことと、原発設置予定地は祝島の集落(島の人はここにしか住んでいないそうです)の真正面で、もし事故があったら本当に危険だからだそうです。

 原発計画はもともと八漁協一致でなければ進まないのですが、県の条例で抜け道を作り「多数決」で採決できるようにされてしまい、ほかの七漁協は保証金を受け取り賛成しているので、可決。これに対し裁判で争い漁師さんの「許可漁業、自由漁業」が認められ祝島の漁師さんの権利が認められたのです。しかし原発建設は中止せざる得ないはずが「司法の判断に行政は拘束されない」(これはどういうことか分かりませんが、山本さんのお話だと阪神淡路大震災の被害者の方が同じ理屈で行政に苦しめられている実情をつい最近聞かれたそうです)と、中国電力は仮桟橋設置の作業を再開し、山本さんたちも抗議活動を続けてらっしゃいます。

 原発計画はターゲットになった地域だけの問題ではなく、地球というもっと大きな規模で考える問題。私も自分が何が出来るかを考えて行きたいなと思いました。


パン屋の山本さん (7/10) 佐野 仙子(さの せんこ)


豆ランチパーティー

 私は山口県の出身なのですが、上関原発のこと知ったのは、楽天堂を通じて祝島のひじきを食べた、ごく最近になってからのことです。そして祝島と私が生まれた宇部市って陸路にしたらけっこう遠いなぁと思っていたのですが、今回山口県の地図をまじまじと見て、海をはさんだ距離にしたらこんなに近いのか、とびっくりしました。

 「そこ(祝島)に住んでいる人が、今でも90%も反対と言い続けている。そんなの、絶対に作っちゃいけないですよね」と語られた山本さんのお顔はとても福々しくて、語られる内容とは裏腹に、その声はとてもおだやかで、私は気がつけば(そのとおりだ、原発ってほんとうにいらないのか、とか言っている場合じゃないんだ、目の前に原発が立つ祝島の人たちにとっては)と、うんうん、とうなずきながら聞いていました。

 普段の山本さんは、こういう話を、自分のパンを売りながらいろんな人に話していらっしゃる(きっとそれ以外のいろんな大切な話の中のひとつとして)。すでにある原発反対団体に属するひとりとしてではなく、パン屋の山本さん、として。

 私は今回、山本さんという方に実際お会いして、そのひととなりにふれることができたことが、何よりうれしかったです。ありがとうございました。お別れする時に、私は山本さんに(私、今の自分に何が足りないかわかりました)と言って、山本さんは(?)というお顔をされたのですが、その(今の私にまだ足りない)と思うことを、ここに少し書きます。

 今回の原発のこととはまた別な話です。年末にこのMLに投稿したことと重複する内容です。

 私はごく最近まで、原発のことに限らず、日常の生活の中で(国)とか(大企業)などは意識することなく過ごしてきました。そんなこと、自分の範疇じゃないというのか、考えてもしょうがないというか、たまに不条理だなぁと思うようなことがあっても、特に成人してからは(世の中ってそんなものなのかな)と。

 でもどういう縁か、先天性の希少難病を持つつれあいと結婚して、家庭を持って、ふたりのこどもに恵まれたことで、ここ数年、初めて、国とか、製薬会社とか、病院とか、そういう顔が見えないものの存在を、自分なりに肌で感じるようになってきました。

 その感じは、とほうもなく巨大でのっぺらぼうで、えたいのしれない、化け物がいつも自分の後ろに立って手を広げていて、どこにも逃げられない、そんな感じ。

 特にこの一年間は、つれあいが生きていくのになくてはならない薬と同じ薬でC型肝炎に感染された方々の、薬害肝炎訴訟の裁判が進んでいます。同じく感染しているつれあいも、一年かけてC型肝炎の治療を試みているさなかで、その副作用に苦しむつれあいが中心にいる核家族の我が家は、ニュースの報道で見る訴訟の経過に、(七月に皮切りとなった薬害肝炎大阪訴訟では、国が控訴しました)もうがっくりして、がっくりして、がっくりして。

 この不気味な巨大な相手たちと、私はいったいどうやって向き合ったらいいんだろう、体調が優れず、鬱状態が続いたとうちゃんと、四歳と二歳の小さなこどもたち、この三人と自分を含めて四人の小さな家の中の均衡をどう保つか、私はそれだけでもういっぱいいっぱいになってしまって、向かい合うどころか、毎日の生活のことだけでパンク寸前で手も足も出ない、でも家族のこんな状態のことは、周りに話すべきじゃないような気がして(先天性の病気も、肝炎などの病気も、時に特別視されるので)ぽつりぽつりとできはじめた子育て仲間にも、このことだけは打ち明けられない状態が続いていました。(このことはまだ話せない)と思って自分でガードを固めてしまっているうちに、私の孤独感はどんどん募っていきました。

 つれあいは実名を出して取材に答えたり、行政や病院に意見陳述をしたり、患者会に属して動いたり、患者会の全国組織や連合に出向いたりするようになりました。患者数そのものが少ない希少難病の彼には同じ仲間が必要でした。(もう隠しているのに疲れた)と彼は言う。

 そして私もこどもたちを連れて、この横のつながりの患者会の会合に出入りするようになりました。同じような思いをしている人たちに会って、話して、情報交換したり、組織として、国や製薬会社と交渉していくさまを近くで見ることができているのは、私の支えになっています。

 でも、家に帰ってきて、また普段の生活にもどったら、私のこどもたちとの生活圏は、なんにも変わっていない。

 私は、初めて直面すること続きで、びくびくしていました。引越してきて住み始めて間のない土地にいて、彼の実名が知られること、そしてそれが特に、私がこどもたちつながりで知り合うひとたちと、私はこれからどうやって向かい合っていったらいいんだろう、と。実際もう、へんてこな同情をよせられたり、つれあいの発言を曲解してまた別なところへ伝えられてしまっていたり、知らないところで便所の落書きレベルのことを言われていることがわかったり。(私たちは何も悪くない、何も恥ずかしいことなんてない)と自分に言い聞かせても、耳慣れない雑音みたいなものに気を取られてしまって、全然腰が定まらない。そして親二人がびりびりしているからでしょう、こども、特に上の子の様子までおどおどしてきた。

 でもそんな時期に、またタイミングよく私は楽天堂と知り合いました。そしてMLに、誰にも頼まれもしないのに、昨年末頃ドバババとこのことを書いてしまいました。

 それとほとんど同じ時期だったと思います。子育て仲間のひとりが、ぽつりと打ち明けてくれました。(私は被爆二世だ。私の子は被爆三世だ。まだ誰にでも言える訳じゃないけど。でも、少しずつ話せる人にから話そうと思うようになってきた)と。

 私もまだ誰にでも言える訳じゃないけど、山本さんのパン、みたいなものもまだ何も持っていないけれど、私も日常生活の圏内で、被爆二世であることを話してくれた友人のように、話せそうな相手からひとりひとりに、他にもたくさんある大切な話の中のひとつとしてこの話もできるようになりたい。そうしたら、多分私はもっと生きやすくなる。

 私はこのことになると、ついつい青筋たててまゆ根に縦じわがよってしまうけれど、もっとこの問題の重心が自分の中で深いところまで降りてきたら、(このたかだか五年でも、ずいぶん降りてきた、と自分では思っている)少しは余裕をもって話せるようになるでしょう。山本さんのほがらかさに触れることができて、そんなことを思いました。 

エチオピア・エッセイ (6)
 
物乞える文化
 中森 千尋(なかもり ちひろ)


 エチオピアでは物は乞うてよいのである。僕はそう結論できるまで長い時間を要した。 

 首都アジスアベバを練り歩くと、まずその物乞いの多さに面食らうはずである。路上には足のない障害者や、顔がトマトのように膨れ上がった病人がボロ着をまといながら、だれそれともなく相手に小銭を乞うている。また、地方から出て来たであろう母親が子供を背負いながら、同じように片手に小銭をチャリチャリ鳴らし街を当てもなく徘徊する。しかしながら、よく見てみると、こうした物乞いの中で、普通に物乞いしては施しは受けまいと、なかなか味わい深いアイデアを加えてくるものもいる。両足のないおじさんが「わしの足をみてくれ、どこにも行くことができないんだよ」と訴えたかと思いきや、後ろから見ればただ膝を曲げているだけではないか。神妙な面持ちで、どこから手に入れたのかレントゲン写真をふりかざしては、「おれは足の病気なんだー!手術費をたすけてほしい!」と叫ぶものの、よくみれば胸部のレントゲンである。その他歌をうたうもの、笛を吹き鳴らすもの、演説をするもの・・・まあとにかくあの手この手で物を乞うわけである。

 このように誰それともなく相手にした無差別物乞いの場合はまだよい。困るのはピンポイント狙撃型物乞いである。この場合、なにも寝床をもたない物乞いだとは限らない。街を歩いていると必ず近寄ってくるやつがいるのだ。「キャッホーイ!外人だー!(=金だー!)」と心中穏やかならずとも、平静を装って話しかけてくる。「デナネ?サラームネ?(元気かい?問題ないかい?)」と来たらまず危ない。目がドルマークになっているではないか。それなりの長期戦になる覚悟をすることになる。

男「なあ友よ。きいてくれ。今朝おれのおばさんが危篤になったっていう知らせを受けたんだ。でもおばさんは遠くに住んでいて、そこに行こうにもバス代がないんだ。50ブル(1ブル=15円)でいいんだ。貸してもらえないかい?」

筆者「いま金をもっていない。他の人にあたってくれ。」

男「俺には兄弟もいないし、両親も死んでいないんだ。なあ、友よ(←やたら強調する)。頼むよ。おまえしかこんなこと相談できる奴はいないんだ」

筆者「どうやって初めて会った人間にその話しを信用しろっていうんだ?」

男「なあ、おばさんは一人で住んでいるんだ。俺が行ってやらないとたいへんなんだよ」
筆者「だったらおまえの友人に頼んだらいいだろう?こんな頼み方して払う奴なんて誰もいないぜ」

男「わかった。だったら問題を分けよう。40ブルにまけてやるよ(!?)。それだったら貸してくれるだろう?」

筆者「はあ?額の問題じゃないんだ。貸せないと言っているだろう?」

男「きみだから頼めるんだろう。人の不幸をみたいのかい?40ブルでいいといっているじゃないか」
・ ・・以下彼の尻を蹴り上げるまで30分。

 強圧的な懇願などはじめてである。日本語では表現しにくいのだが、彼らは物乞うものの方が立場が上のごとく振る舞うのだ。

 いっぽう、京都の三条大橋では顔を笠で覆った托鉢僧がたっている。彼は微動だにせず、演説をするわけでもなく無言でただたちつくしている。なぜ彼は顔を笠で隠すのか?この国ではどうやらひとに物を乞うときは何か悪いことをしているかのように、なんらかの罪悪感を感じてしまうのである。こうした背景に育った筆者としては、「40ブルに負けてやる」などと公然と言い放つ文化にであったときはもはや呆れるばかりであった。

 しかし、あたりをみまわすと、僕だけではない。他のエチオピア人にもちゃあんと乞うてるではないか。なにも外人目当てのねだりではないのである。ひとつ気づかなくてはならないのが、この「ねだり」と「ものごい」の両者が
エチオピアでは判別しにくいという点である。「ものごい」はなにか後ろめたさを潜ませながら実際物を乞うのに対して、「ねだり」は「強請り」と表記されるようにもっと高慢ちきである。

 こうして滞在数ヶ月がたって、日々よく見るエチオピア人同士の強請り合いをみているうちに、自然と、とある疑問がわいてきた。この国ではなんでこうまでして平気で互いに強請り合えるんだろうか。また、どうやってこれで人間の関係が円滑に運べ得るのだろうか。

 ひとつの答えを出してくれたのは、「アズマーリ」と呼ばれる吟遊詩人集団の存在である。エチオピア北部を中心に、ときには結婚式で歌を歌い、ときには路上で政治風刺を行い、移動を日常としながら人々の喜捨によって日銭を稼ぐ人々である。彼らはいわば社会のはみだしものであると同時に、社会を外側から自由に言論できる存在でもある。16世紀にアラビアの商人にその存在を既に指摘されており、なお21世紀の今日にも同様に生活している。アズマーリは親族集団で世襲により形成され、彼らのみに理解できる特異な隠語も持ち合わせている。アズマーリは二人から五人ぐらいのグループで、3世紀以降面々と根付くエチオピア正教の聖書に基づいた物語を太鼓や弦楽器にのせて家々の玄関前で朗々と歌い上げるのである。人々はその歌を聞いて玄関扉を開け、喜捨を施す。アズマーリは直接人々に強請ったり、物を乞うたりしない。そのかわり、歌という衣をまとって間接的に、また暗喩として物を乞うのである。だから喜捨を施す人々の感覚としては、まず「分け与える」という感覚が第一にやってくる。無視を決め込めば、それでいいはずである。なぜ家主は施しをするのであろう。それには一度私たちいわゆる先進国の社会と比較をせねばならないようだ。

 現代社会では、「共同体」が失われて久しい。「今晩のおかずの足しにしてちょうだい」と近所のおばさんが肉じゃがをもってきたり、「ちょっとうちのコをみていてもらえないかしら」ととなりの家に預けたりと、つい何十年か前までは、そこに住む共同体の成員がまさに共同しながら暮らしていた。なによりも「地域に住んでいる」という感覚が人々に共有されていたのだ。ところが、現代では、核家族が基本となり、地域よりも「家に住む」という感覚が先行し、都市部ではもはやマンションの隣人と交流がないどころか、誰が住んでいるのかもわからないといった事態にまで共同体は崩壊してしまっている。

 エチオピアでは特に地方では、こうした共同体的感覚はいまだに保持されている。僕が地方都市シャシャマネに滞在していたときのことである。たびたび投宿していたホテルの掃除のおばちゃんに紅茶を出してあげると、ことのほかに喜んで僕を彼女の家に招待し、ご飯をごちそうしてくれた。そこには見返りのない物の交換があり、それ以上に情の交換があるのだ。こうして人々は打ち解けていく。前述したアズマーリに対して喜捨を施した人々は、共同体的感覚からくる物の交換や、物の共有を自然に行っているのだともいえる。文化として「ものをみんなで共有する」という感覚が内在されており、それがアズマーリに対して喜捨という行為を駆り立てるのである。富める人は、貧しい人々に分け与える。ひとりで物や財を独占するのではなく、みなで共有する。およそ共産主義的な感覚が人々のなかに文化として浸透していたのである。前回描いたシャシャマネの家族との交流も「分け与える」とか、「ものを共有する」という習慣の理解なしには決してなしえなかったことだと思う。

 しかし、エチオピアの農村部と比べて、首都アジスアベバではすでにこうした感覚が失われつつある。すでに街には物と情報があふれ、核家族を基本として家が形成されつつある。つまり、エチオピアにも近代化の波がやってきているのである。それも日本以上に急速な近代化を経験している。これは何もエチオピアに限らずアフリカ全土で起こっている現象であろう。植民地化のプロセスを経て、1960年代以降に国家として急に独立しなくてはならなかった。つまり国家として独立するには社会を「近代化」させなくてはならなかった。ヨーロッパが、およそ300年ほどかけて歩んだ近代化の道を、わずか50年で達成できるはずもない。国土の大半が共同体的感覚で横溢していたのに、急速に個人主義的な生活を強いられる。こうしたひずみにアジスアベバがたちあっている。近代化に伴う、社会の経済的格差。それにつれて増加する物乞いや前々回扱ったムルカンのようなストリートチルドレンの増加。しかし、同時に浸透する「あなたはあなた、わたしはわたし」という個人主義的生活の価値観。それにつれて失われていく共同体的感覚。急速な近代化と伝統の力が、真逆のベクトルとなってアジスアベバの都市を引き裂いてしまっているのである。

 久しぶりに首都アジスアベバに帰ってきたときには物乞いを別の目で見るようになっていた。相も変わらず車の排ガスは黒く、未舗装道路は土ぼこりがまい、強い日差しがサンサンとふりそそぐ。溢れかえる人のなかで、目の見えない物乞いが何やらぶつぶつと呟きながら缶の中に小銭をじゃらじゃらいわせている。そこへ何気なくひとりのおじさんが、物乞いに目をあわせるともなく小銭を缶の中にちゃりんと放っていき、彼はそのまま振り返ることなく雑踏の中に消えていった。こうした光景はいつまでみることができるのであろう。エチオピアで、「物乞える文化」はいつまで残り続けるのであろう。


〈会員エッセー〉 三人目の誕生によせて
岡本 昌也(おかもと まさや)



 外はまだ明るく、さわやかな夕方だった。午後6時12分、三男はまこと助産院(京都市山科区御陵平林町1−73 電話(075)595-5317 http://makotojosanin.blog48.fc2.com/) の二階、疏水の見える洋室で産声を上げた。私をはじめ、長男の哲史、次男の晃輔、妻の母も立ち会う中、堀口先生をはじめ三人の助産師さんのすばらしいチームワークのおかげで、母子ともに無事にお産を終えることができた。心より感謝。破水も出産とほぼ同時、肌もツルツルのピンク色に輝くきれいな男の子で、二人の兄が大はしゃぎし、かまわれっぱなし!の実ににぎやかな誕生だった。お産は三時間――妻が入浴して体を温めてから、実質一時間少し――で急速に進んだ。ありがたい安産(といっても妻は本当に大変だったに違いない)だった。2006年5月3日。ゴールデンウィークのさなか、ここしばらくうっとうしかった黄砂現象も見られず、朝から雲ひとつない快晴の一日。当日朝から予兆があり、助産院へは午前中から皆で来ていた。午後、お産を進めるために妻と子ども達と、疏水から毘沙門さんの境内まで散歩に出かけた。疏水沿いやお寺の樹木の新緑が目にまぶしいほど爽やかで美しく、三男はいい日に生まれてきたなあと思う。

 「直樹」(なおき)という名は、この日の印象がもとになっている。

―誕生に至るまで―
 次男(晃輔)誕生のときに本当にお世話になった堀口先生に再びお世話をかけることになった。今回、いわゆる「前駆陣痛」(無論、「今から思えば」である)なるものが何度もあった。その都度「もしや!?」とばかり、まこと助産院に駆け込んだ。一度は夜十一1時頃に来たが、おさまり、朝まで泊めてもらったこともあった。また今回は、感染症防止のため、出産の気配があったときは足立病院で点滴の処方ののち、助産院へ向かうというステップが加わっていた。仕方がないこととはいえ、妻の焦燥感も相当なものだった。予定日は5月8日であったが、腹囲がかなり大きく(例によって頭だけか?)ひょっとすると四月中に生まれるかも・・・という見通しが示されていたことも一因であろう。「GW中に生まれてくれればいいのにねえ」皆でそう言い合っていた。果たしてその通りとなった。「立ち会い出産」を前提としている中、長男が四月から小学生、次男は保育園、私は時期を想定し、GWに数日休みをとっていた。直樹はそんな事情をわかって生まれてきてくれたのだろうか?「きっとそうよ」と堀口先生をはじめ、スタッフのお言葉に励まされ、また結果には不思議なものさえ感じた。 

 「出産は毎回違う。三回目だから楽とは限らない」長男が足立病院で33時間の難産、次男は前駆陣痛も特になく、まこと助産院で拍子抜けするほどの安産、今回はやはり少し違った。私も気をもんだが、妻が一番大変であったのは言うまでもない。男は、自身の生理的体感で出産をとらえることはできない。立ち会いを含め、当事者として関わったとしても、想像力が全てである。改めて「命をまるごと生きている」女のスゴさに脱帽する。以下、雑感。

★「さあ、今回の陣痛はホンモノや!」となったとき。堀口先生、岸本さん、小林さんの動きが加速し、産室の緊張感がいっきに高まる(特に岸本さんの存在! おかしな言い方だが「お産だー!」という雰囲気が盛り上がる。心づよく、またフシギ)。この緊張感は、次男のときも感じたが、期待のこもった、高揚感を伴う他では味わえないものだ。無論、一瞬一瞬が危険を伴うものであり、母子ともに良好な状態でお産が終了したがゆえにそんな感想を持ち得るのかもしれないが、助産師さんの技術と判断には本当に頭が下がる。「命の現場」に立ち会い、介添えをし、象徴的には「未来と今をつなぐ」。助産師という仕事の醍醐味も間違いなくここにあるのだろう。

★「胎盤」を食べた。堀口先生のだんなさんが調理してくださった。炒められ、小さく切られて、お皿に少し載って運ばれてきた。臭みのないレバーといった感じで食感は少しコリコリしていた。が、最初そのアイデアに接したときの「え・・・!?」という感じほどには、変わったことをしたという印象は無かった。味も同様に、特別な珍味という印象はない。長男の食物アレルギー発覚以来、いわゆる「自然派」の人々と接する機会があるが、そういった人々の間ではごくノーマルなことのようである。しかし、私にとっては最初で最後となろう、シュールな(?)経験だった。なかなか体験できないことだ。何でもやってみるものである。

★「三人目」だというと感心される。なるほど少子化の時代である。昔はありふれたことだった。自分も三人兄弟、妻もそうだが、今では珍しい。共働きのくせに、物好きだ、と思われてもいるだろう。自分でもそう思う。しかし、三男はやはり、生まれるべくして生まれて来たに違いない。結果、母親が育児休暇をとることになり、小一の長男は「学童、時々鍵っ子」をまぬがれた。次男も王子様?の地位から転落したが、何だか嬉しそうだし、これで良かったのだ、と思っている。「兄弟(姉妹)が三人いると『社会』ができる」らしい。言えてるなあと思う(一人っ子や二人兄弟が社会性に欠けるなどと言うつもりはサラサラない。念のため)。「オレとオマエとアイツ」という立体的?な関係である。子どもたちには、その環境でいろいろ楽しみ、もめ、また学んでほしいものだ。

 「江戸いろはかるた」の「り」の札は「律儀者の子だくさん」という文句で、「まじめな働き者は子だくさんの場合が多く、苦労も多いが最終的に転がり込む福分も大きい」という意味らしい。救われるというか、慰められる(笑)というか、古人の人情味あふれる、ありがたい札である。ときどき、心の中で唱えている。

  堀口先生をはじめ助産院関係者の皆さん、妻と、子どもたち、妻の母をはじめ我々を産み、育み、支えてくれた親、そのまた親、ご先祖様、職場等で支えてくださったすべての人々に心から感謝いたします。
―あ・り・が・と・う―


「リフォーム料理でひとやま当てて!」なんていわれても・・・その2
 
根石 佐恵子(ねいし さえこ)


くるまれ、包まれる幸せ
 オーガニックコットンの綿毛布って本当に気持ちよくって、年中くるまれていたい私!食べ物たちにもくるまれ変身する幸せを味わっていただきましょう。

 定番はぎょうざ、春巻きの皮です。冷蔵庫では長持ちしにくい皮もぴっちり包んで小分けしておけば冷凍庫で保存可です。自然解凍でばっちり使えます。包んだあとは、揚げるのが一番豪華に見えて子どもたちも喜びます。先日のヒットは〈ハモスのサモサ(舌噛みそう!)〉少しカレー粉を足して春巻きの皮を縦に三等分してくるんぱたんと三角に包みます。揚げたてにマンゴーチャツネをちゅるっとつけるともうビールが「待ってました!」と言わんばかりのお膳立て!みなさんくれぐれも親子で奪い合ってけんかしないでください。ハモスをたくさん作って多めにわざと残しましょう。家族の平和のために。

 でも中身が水分の多い物なら迷わず〈スープぎょうざ〉がおすすめ!(爆発して中のおいしさがなくならないように)水分を吸い取るために中の具に麩を細かくしてまぜてもよいですし、少々しみ出てもそれはそれでだしになっておいしいです。またこの場合中身はちょっぴり歯ごたえのあるものがグッドです。きんぴらとか野菜炒めなどのしゃきっと感と、皮のぴらぴらふにゃふにゃ感がよいハーモニーです。一品で見かけ豪華、汁物もカバーの一石二鳥です。喜ばれますが、ただし中がみえみえなので「そのまんまやん!」と言われる可能性もあります。覚悟して作りましょう。

 〈生春巻き〉の皮はその点乾燥しているので、一袋常備しておくと便利です。急に必要な時好きなだけ水で戻して使えます。“たれ”なんかを用意して、ベトナム風と言っておくと結構中身がなんであれ我が家は感心してくれます。セロリやにらをプラスするだけでなんだかアジアン?!更にコリアンダーがあれば最強です(結構育てやすいです。プランター一つ分庭においてみませんか?)。でも、しそだってみょうがだってねぎだってアジアじゃん!もう生春巻きというだけで怖い物なしです。

 いっそのこと残り物並べてセルフ巻き巻きしてみても!子どもには好評です。ちなみに生春巻きの皮は揚げるとぷくぷくとはじけてクラッカーみたいになってこれもなかなかおいしいですよ。

 くるむといえば〈蒸しまんじゅう〉もおやつにもってこい!煮豆はあんまんに、ポテトサラダはケチャップ足してピザまん風、ビーフンや春雨入れれば中華まんにと。先日はハンバーグが二個、そのまま二人の子どもの口に入りかけましたが4等分して8個の肉まんに変身。やった!って感じでした。皮は約8個分で、薄力粉300g、砂糖大さじ2杯、ベーキングパウダー大さじ1+1/2杯を混ぜたなかにぬるま湯150〜170ccを少しずつ加えていきます。少し手にべとつきますががんばってこねるとまとまってきます。あとは等分し中身を包んで強火で20分蒸したらほかほかできあがり!少し面倒かもしれませんが、感動してもらえます。蒸したてが一番ですが冷めてもお焼き風に焼いてもおいしいですよ。

 〈番外ですいとん!〉がっちりまるめこまれたタイプですが、おいしかったのでご紹介をします。楽天堂で販売している豆料理キット・スプりットピーとひじきのサラダは、本当にお役立ち食材です。糸寒天をプラス増量してさらにヘルシーなサラダ、豆腐やミンチ肉に入れて落とし揚げ、そして水でほどよくといた小麦粉に混ぜて汁物に落としてすいとんに。こくがあって歯ごたえもあって本当においしいです。これもたくさん作ってわざと残して作ってみて下さい。残り物のスープに落とすだけでもOK!楽しくおいしい味が生まれます。


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