第20号2002/09/01


日曜料理のすすめ       (ゆら)


 どうにかこうにか1週間が終わり、待ちに待った週末がやってきたと気づいたとたん、それまで鳴りをひそめていた週末虫がぶいぶい蠢き出す。さてこの週末は何をしでかそうか。虫の選ぶ中にはきまって料理が入っている。料理の楽しさは、例えばこんなところにある。

1.ひたすら刻む、ひたすら炒めるときの心の平和。これは瞑想がもたらす平和と同じものである。

2.味見を繰り返すうちに味が次第に展開するのを目(舌?)のあたりにする深遠なスリル。それぞれの材料の味わいは、混じり合ったり距離を保ったり。

3.その日の気温や湿度、自分の体調や気分を反映するのか、同じものを使ったつもりでも決して同じにはできあがらない繊細さ。

4.先人のレシピに学び、よく知っているはずの食べ物の新しい味わいを発見する妙。温故知新。

5.味つけにおいてはもちろんのこと、かぼちゃを煮たあと種をから炒りしようとかパスタや豆のゆで汁をベースにスープを仕立てようとかいうように、どこまでも脱線していく自由。

6.あるいは、レシピという手引きに忠実に従っていくときの謙譲の心。レシピは芸術や武術の型になぞらえられると思う。先人の歩みがつまっているという意味においても、独自のスタイルを築く基になるという意味においても。

7.鍋の材料がやわらかくなるまで待つといったあなた任せの場面と、煮えばなを見はからって火を止めるなどという例に見られる即断を下す我の出番がかわるがわるやってくるドラマ性。

 これだけ五感を駆使し、集中せざるを得ない活動であるから、料理には知らず知らずのうちにその人があらわれる。料理のしかた、楽しみ方、つくるものの種類、味つけの好み、盛りつけ方。恐ろしいくらいだ。
 独り台所にこもる人。パーティーだと人を招いて定刻に集まった空腹の客と料理を始めるのが楽しみである人。一品を、よりすぐった材料ですみずみまで気を配りつくして仕上げる人。四品、五品、こんなに誰が食べるの、というくらい一度につくってしまう人。今度はこれをつくろう、季節がかわったらこれを、と料理の本に付箋紙を貼りまくるのが習慣である人。メニュー例をもとに、複数の料理を併行してつくる計画を書きあげることに醍醐味を感じる人。年に何度かの大盤振る舞いをすることで季節の節目をつける人。ときに思い違いで思ったものが手もとになくても、ありあわせの材料で悪びれない人。できたできた、熱いうちにさあ食べて――と、器を選ぶことなどなくてんこ盛りにする人。思いっきりスパイスをきかせることに持ち前の決断力を発揮する人。
 誰が言いはじめたか、料理は創造と言われるけれど、その通り。過程を満喫したあげく作品を大勢で楽しめる。こんな旨い話はなかなかない。
 日曜料理だんぜんおすすめします。

魔法瓶が重宝します       (安井 和子)


  私は豆を煮るときに、保温型まほうびんを使います。
 まほうびんに豆と、入るだけの熱湯を入れ一晩置くだけ。朝には豆は堅めに煮上がっています。さらにやわらかくしたい時には、ほんの5分程度ナベで煮足すだけで充分です。
 豆を煮るのは時間がかかって面倒だと考えられがちですが、この方法だと手間も、時間も、エネルギーもかかりません。昔からの知恵ですが、若い方、どうぞ一度お試しあれ。

Ignorantia nocet.  無知は害を与える       (佐藤 浩子)


  「インド人を1とすると日本人が170倍近く、アメリカ人は250倍以上」
この数字は10年くらい前のエネルギー消費量の比であるが、インド人からこれを聞いたとき、「えっ、そんなに?」という驚きと同時に、インドをあちこち周ってきて「そうだろうなー、もっとかもねえ」と納得するありさまをありありと見てしまった。
電気やガス、ガソリンといった燃料消費のほかに決定的な違い、それは食べ物にある。

ご存知の通り、インドでは牛を神の使いである聖なる生き物として食べない人々(ヒンドウ教徒)が大勢いる。他方 豚は不浄な物とみなし絶対口にしないムスリムの人たちもいる。宗教的な理由についての理解するのはちょっと難しいや、という人でもインドでこれらの動物がどんな具合に生きているか見てしまったら、あんまり食べたいとは思わなくなってしまうだろう。
町中に徘徊する、がりがりに痩せた野良牛たち。ゴミをあさり、野菜の屑や食堂で皿として使われたバナナの葉っぱを食べてはあちこちで糞を垂れてまわる。きっとその中には(一応)飼い主が存在して牛の産出するミルクの恩恵に浴しているかもしれない。貧しい人たちの間ではよく豚が飼われ、人間が用を足すとそれがすぐ豚のえさとなり、下水設備などなくともなんとかなるのだ。大きな籠に押し込められた鶏はお客がくるとなりをひそめ、仲間が捌かれるのを目の前にしてじっとしている。この空気といったら。

ところが日本ではどうだろう?
スーパーで加工済みの肉の塊しかお目にかかれない子供たちに食べ物のありがたみ云々をいくら行ったところで何がわかるのか?学校で飼っていた鶏を絞めていただくのがかわいそうというお母さんたち、スーパーの鶏肉なら平気で賞味期限切れで捨てていいのか?その肉となった動物達は残飯や人糞ではなく穀物によって育てられ、しかも肉はおろか同じ穀物すら口にすることもめったにできない人々の大勢いる国から大量に飼料として輸入されているというのに。このためインドでは鶏肉の某ファーストフード店が焼き討ちに遭った。1kgの鶏肉をつくるために必要な穀物はおよそ10kg、経済格差が生み出す食糧問題を深刻に受け止めたインドの大学教授率いるグループの犯行であったが、菜食主義者の多い国でこういう店は大変浮いた感じだ。
そして去年のテロ事件と時期が前後した狂牛病騒ぎによって今までたくさん食べてきた牛を日本人はぱったり食べなくなってしまった。
このしわよせを酪農家の人たちが一手に背負わされていることを日本人はどれほど知っているだろうか? ほとんど無知である私が去年友人の牧場のおじさんに尋ねたところ…
狂牛病事件1週間後、牛をせり市場に売りに行くと、普段1頭あたり30万円相当の牛が半値の15万だという。馬鹿馬鹿しくて牛をつれて帰り、翌週再び出かけると今度は8万円まで暴落。これでは飼料代にもならないと口減らしのため、そこへ牛を置いてきたそうだ。
先日これを通信に書いてもいいかと確認をとったところ、さらに恐ろしい話をいくつか聞かせてくれた。
売れなくなった牛を河原に捨てた話は去年報道されたが、こないだついに殺人事件まで起こった(私は新聞等で確認していない)。と殺場で売り物にならない、冷蔵庫に入らんよと拒否された牛の飼い主が激情し、そこの所長をその場で殺してしまったそうだ。
また、国は事件後家畜保健所の管轄で全国数箇所に牛の焼却場を建設することを決定した。農家がお金を出し、売れなかった牛をそこでと殺、あるいは精肉加工後に病気がみつかったり、買い手がない肉を焼却後に水酸化ナトリウムで処理するとのことだ(某大手ハンバーガー店での鉄板の洗浄液も同じらしい。)。つまり、農家に直接補助金を出さないどころか農家から金を取って牛を引きうけ、税金で国の管理する建物を増やし、そこで牛を殺したり、精肉加工しても誰も買わないせいで焼却処分という無益な行程にみんなが膨大な金を払うという、とんでもないよくそんなこと思い付くなという状況なのだそうだ。こんなこと、きちんとニュースで説明してたっけ?
じゃあ、焼却場が建つ前は?と聞くと更にひどいことに、引き取り手のない牛、病気や薬漬けの牛は酪農家自身が穴を掘って重機で生き埋めにするしかなかったそうだ。もっとこわいのはこうした死廃牛(しはいぎゅうと読む、こんな言葉があることすら知らなかった)がつい10年前までは裏で(市場ではチェック機能が働くのでこういう牛は締め出されている)業者に引き取られ、当たり前のように我々の食卓に登っていたそうだ。その数、年間およそ36万頭。それほど消費者の需要があり、肉はみんなが食べたい、あこがれ、豊かさの象徴だったのだ。そもそも日本人の好きな柔らかい霜降りの和牛は野生では存在し得ないような不健康極まりない育て方なのだが…ビールはもちろん、たくさんの抗生物質を摂取したいわばガン細胞の詰まったような肉。経済発展して豊かになったのにまだそんな肉しか日本人は食えないのか、かわいそうに、うちのが余っているから食べなさいよ、というわけでアメリカの安くて安全な(?)牛肉輸入自由化が(事実が明るみにされると大変だから)強硬に推し進められたなんてことも私は全然知らなかった。
「こんなのまだまだ序の口。狂牛病事件くらいじゃなにも変わらない。何も見えてこないさ。」と牧場のおじさん。「いいかげん、マスコミに振り回されないで自分で判断つかないのかね。」と奥さんがつぶやく。私たちの無知が方々でとんでもない悲惨を生み出している。テレビや新聞で見たことないもんねでは済まされない。

インドの牛 photo Hiro

当の牧場の一家や泊りにくる人々はほとんど肉を食べない。きっと想像のつかないほど牛を愛し、手塩にかけて育てているのだろう。そんな牛を狂牛病のイメージでぞんざいに扱われたら…「牛は本来人間が食べられない繊維を食べて土に変えてくれたり、ミルクを与えてくれたりする、大事な生物工場。人類は地球にとって今やガン細胞だが、肉食が引き起こす問題は農業にも大きな影響を及ぼし、大地に大きな負担をかけ、地球という宿主まで食いつぶそうとしている。」
 普段牧場ではおじさんの畑で採れた野菜や雑草(に近い)を奥さんが丁寧に料理し、みんなで一斉に囲っていただく。東京や大阪から来た若者たちがみな口をそろえて「おっかあのご飯はうまい!」。おそらく彼ら彼女らの日常ではコンビニの弁当やファーストフードの方が当たり前で、サツマイモの茎やへちまの実なんて初めて口にした子も多いことだろう。別に普段自然食やベジタリアンではなくても気のこもった料理は誰だっておいしく感じるものだ。そして牛や馬が落として歩いた堆肥がたっぷり混ざった土壌で育った元気な野菜が与えてくれる、都会育ちの若者だって感じるとてつもないパワー。野菜だけでなく、ここで牛や馬の世話を手伝いしにやってくる子達の変貌ぶりには驚かされる。縮こまっていた胸が開き、馬に乗ることで背骨が伸びて腰がしっかりする。自分が変わらなければ馬は絶対乗せてくれないからだ。知らず知らずのうちに皆背負っていた荷を下ろし、閉じていた殻をこわす。今の若い者は…とぼやく前に彼らの姿を見てほしい。誰だってちょっとした機会があればいくらでも変われるのだ。

そう、私たちだってちょっと本当のことを知ろうとすればどうだろう?効率化一辺倒のものの見方から離れてみては?おなかが本当に空いたとき、何を食べようか(12時になったからとおなかが減らないのにご飯を詰め込んだりしてませんか)?たまにはうちでおいしいごはんを楽しく作ってみたら…本当に豊かな生活とは何かと考えてみると、自分の感覚をもっと大事にすることなのかな?
何も今すぐ肉食を止めようというのではなく、長いこと信じてきたものが正しいかどうか、自分の目で確かめる努力をした上で体が食べたい物を食べればと思う。盲目的に肉食を推し進めた結果、知らないところで様々な歪みが起こってきている現実を。

「食べるということは<お命、いただきます>だよね、たとえ牛でも、さつまいものつるだろうとも。肉の場合、背後に繋がる食物連鎖のお命ばかりか、穀物を食べられなかった人のお命まで引き受けなきゃ。」
あなたはどう思いますか?

むうみん牧場 沖縄県今帰仁村謝名1331        電話:0980−56−4170

おやおや八百屋の本気ィトーク(4) 花も実もある人生だもの、ね。
(ほりお みえ)


 秋はくだもの。いちじく、ぶどう、梨、りんご・・・・うーん、思い浮かべるだけでほっぺたが落ちそう。暑さも一段落ついて、色もかたちもにぎやかに(どの子も不揃いで個性的!)香りたかく瑞々しい果物たちが店頭に並ぶと、改めて季節のめぐりを感じます。
 でも、今年は春先から、木々の花が早く咲き始めたせいか、果物の登場がおやっと思うほど早いのです。暑さの盛りを迎えるよりずっと前から桃がお目見えしましたし、りんごの初物がお盆を待たず、8月の初旬に出てきた時には、思わず息をのみましたし、間をおかず、いちじくもぶどうも、もう盆前には登場です。お客さんと一緒に「うわー、今年は早いね!」の連発です。
 でも、当の果物たちにしてみれば「自然環境に適応しているだけよ、ね」と思っていることでしょう。人間たちの驚きをよそに、どこか平然としています。
 環境への適応ということでは、人間も負けてはいません。夏の暑さで外気温が体温ほどになろうという時に、室内では汗ひとつかきそうにない涼しさ・・・・人間のなせる環境マジックですが、うちの店は、今時めずらしくクーラーがない開放系の八百屋なので、その暑さを乗り切るためには、いやでもしっかり汗をかく身体になります(汗をかけないと、たちまちバテて力が出なくなってしまいます)そんな私が、店に立つ時と同じ格好で、バスや電車にのってデパートやショッピングセンターに行ったら、たちまち汗が冷えて、そのままだとからだの芯まで冷え切ってしまうので、かならずジャケットや肩掛けを持っていきますし、場合によっては帽子も携行します。ところが!身震いをするくらい空調の強く効いたところでも、若い女性の中にはノースリーブやタンクトップで平気な方が少なくありません。きっと、彼女たちは汗腺を開かないですむ環境に適応しているのでは、と思います。あるいは、温度の差を感じないですむような・・・・
 うちのような自然派(?)の仕事でも、日中の疲れを癒すため、夜はクーラーのお世話になっていました。ある時「そういえば果物って、昼と夜の気温の差が大きい方が、甘味が増しておいしくなるって言うよね、人間もおんなじかもね」とつれあいに話しかけたところ、「石は激しい温度変化で、割れるよね」と一言。自分を果物と思い込んで疑わないこのアタマ、危うく石化しつつあるのでは?ちょっと、ドッキリした瞬間でした。

 石頭というと思考に柔軟性がなくガチガチのイメージがあります。石頭とはちょっと違いますが、思い込みが激しい、というのも、ありがちな話です。他人事ではありません。
 今年に入って、新聞の書評でこんな紹介文を見かけました。

『菜園家族レボリューション』(小貫雅男 現代教養文庫)

 著者が提言するのは、「週休5日制」の「菜園家族」だ。週に2日、会社で働き、残りの5日は自給のために田畑を耕したり、地域活動に参加したりする。
 そんな生き方が広まれば、自然を身近に感じながら家族と共に暮らし、地域も活性化する。過剰な経済の競争が消え環境問題も緩和。仕事をシェアし失業も減る――と。


 これを最初読んだ時、疑いもなく「週休2日制」と読み流しました。2度目に読んだ時、我が目を疑いました。えっ?週休5日、ですって???!まあこれだけ思い切ったことを言うからこそ、提言としての価値も出るのでしょうが、自営業の感覚からすれば、休めばそれだけ実入りが減る、そんなのないよねー、って感じでした。しかも、米や野菜の自給。そーか、そうですか、八百屋は必要ないって訳ね、なんて、しばらくひねくれていました。 でも、ここ20年来、私がこの仕事に携わる経緯で出会ってきた方々――食糧自給を自分たちの手で、という方向性を持って、共同購入運動に携わったり、農家と直接の付き合いに努力したりする人たちの中では、いずれは自らの手で田畑を、という思いの方も多く、実際に行動に移された方々も少なくありません。先の書評の続きで

 20年前なら「荒唐無稽」と一蹴されかねなかった「未来像」が、いま急速に現実感を持ち始めている。

 とありますが、今それが注目されるようになった引き金としては、やっぱり、不景気の厚い雲が日本を覆って以来、今までの産業社会のタガががたがたと音をたてて崩れていく現実があるからでしょう。今まで通りではやっていけない、次に替わる世の中の仕組み、産業の仕組み、働き方の仕組みは・・・・どの分野の人も、みんな、手探り。そんな時代です。
 私たちの暮らしも、多かれ少なかれ、その波の中で揺れています。

photo Naha picture Naha

 実は、私たち夫婦も、10年近く続けてきたこの稼業に区切りをつけることになりました。トラバーユです。十代の頃、自分が八百屋さんになろうとは夢にも思わなかったように、この仕事に就いて以来思いもしなかった展開を迎えています。店というタガの中で、すこし石頭になりかけていた自分に、外の空気を――たとえそれが嵐であっても――存分に送り込むいいチャンスでしょう。おかげ様で身体の方の環境適応力は鍛えてありますし・・・・
 最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。どうぞ皆様お元気で!〈広島市在住・有機野菜とオルタナティブグッズのお店「ひょうたん島」〉

本屋で見つけた本(4) 料理の背景を知るということ
『トルテリーニが食べたくて―イタリアの小さな台所紀行』
(乙益 由美子)


 そもそもトルテリーニとは何だろう、なんて思って本を開いたのではなかった。イタリアの小さな台所紀行というサブタイトルと、本文や註、挿絵、レシピが全部薄茶のインク一色ですまされているところに、あら、と思ったから。著者の描いたと思われる挿絵は、気をひくような絵ではないかもしれないが、どの人もクセのある雰囲気があって興味がわいた。――そして。じつは、わたしはここ数年、料理を習っているのだけれど、しばらく前にイタリアの家庭料理“豚肉とローズマリーのスパゲッティ”や“豚バラ肉と野菜のサラダ仕立て”を習ったときのことを思い出していた。肉の味をしっかりと味わうこの料理の向こうがわに、なつかしい食卓を思い出す人もいるのだなと、口をもぐもぐさせながら思ったのだ。その味と結びつくような、遠い国の台所と食卓を想像してみたかったけれど、全く、霧の中にいるようで、どんな映画や小説の場面も浮かばなかった。ここかもしれない、とふっと思った。この本のどこかに、あの味に近い世界があるかもしれない。読み始めると、読むほどに、遠い国の料理が、暖かく身近に匂ってくるのだった。

 著者の山中律子さんは、1967年東京生まれ。電通のOLで、恵まれたといえる環境に働く女性である。しかし、この人はそこから一歩踏み出したかったのだろう。この本は、山中さんが、一味ちがう人生を踏み出し始めた記録でもある。有給休暇をためて2ヶ月間、前半はイタリアのボローニャ、後半はモデナに留学した。ホームステイし語学学校に通い、料理学校に通う。それに飽きたりず、小さいレストランで、早朝、昼、夕方から夜遅くまで実習してしまう。外から見たら彼女は過酷な労働に就いた外国人労働者の様相だったかもしれない。しかし、それが料理の腕を磨きたい人間にとってどんなにか恵まれたチャンスだったか。気がつくと、会社で働いているときの「いつもぼーっとしているヤマナカ」さんは、変身していた。

 もともと「料理の本を見てつくっても一度も失敗したことがない」というくらい料理に自信のある人なのだ。しかし、料理がちょっと上手な人は、どこにでもいる。この人が他の人と少し違うところは、人生をゆり動かされるほど味に感動した体験を持つ、という点だ。山中さんは、トルテリ−ニの名人のつくる料理を次のような言葉で紹介している。「伝統と素材にとことんこだわった一本筋の通った骨太な料理の数々には、余計な添え物やデコレーションなんて一切必要ない。素朴なのに風格がある。一度口にしたら、都会のすかしたリストランテの薄っぺらい料理なんか、目もくれなくなることは、現に私が身をもって実感している」うーん。山中さんは味わうことで自身を確かめられる人なのだ。しかもおいしい料理の定義とぴったり重なる至言ではないか。ただそれがイタリアの料理でなければならなかった理由は、この本の中からは、判らない。山中さんだけの秘密かもしれない。

 料理の話からは外れるかもしれないけれど、味を求めて生き方を少しずつ変えていくところに他にも感じるものがあった。アグリ・ツーリズモ(農業+観光)の開祖というべき店が彼女に与えた感動が、この本を通じてわたしに伝わったということ。それがとても嬉しかった。素材にこだわることの大切さについて、わたし自身もずっと考え続けてきた。そしてやっぱりそのことは、わたしの生活を少しずつ確実に変えてきたのだ。

 トルテリーニとは、小さな肉あんの入ったパスタで、透明なスープに浮かべて食べるものらしい。これを作ることができるようになりたくて山中さんはイタリアへ行く。パンもろくに作ったことのないわたしは、パスタを作ろうなどと夢見ることもない。が、この本が手元にあれば、ある日、おいしいパスタを作ろうと思って作ることができる日があるかもしれない。イタリア語の註も入っている。本格的なイタリア料理のレシピは、名人に教えてもらったものばかり。日本の食卓にいても、出来上がった料理とともに、気分は遠くまで行くことができる。気丈で、腕ぷしの強そうな女性たちが確かに料理の向こうがわに働いている。遠い国の親しい味を知ることは自分を元気にする。おいしさは親しみとなるのだから。山中さんはそのことをよく知っているにちがいない。

『トルテリーニが食べたくて―イタリアの小さな台所紀行』  山中律子著  発行ホーム社・発売集英社  1600円

トルテリーニが食べたくて

〈おとます みこ・山口市在住・1957年生まれ・主婦・著書に詩集2冊・自分の生活から遠いところで書かれているものから読みとることこそ,読書のすごさと痛感するこのごろ。最近いろんなジャンルの本に意欲を燃やしている〉

三輪さんのお米は安全でおいしい!       


  十数年前よりアイガモ農法をされている三輪さんの田んぼ(防府市台道)をたずねてきました。よその田んぼから水が流れこまない絶好の環境で完全無農薬のお米づくりにとりくまれていることを聞き、かねてからおいしいお米をとどけてもらっていましたが、田んぼにうかがうのは初めて。付近の小川の水は実に美しく山あいの景色にほっとしました。一方、雑草を食べてくれるアイガモの数は思いのほか多く、広い田んぼにはられた囲い網の長さは果てしなく、管理の大変さを思わされました。お聞きすると、今の時期は草との闘いで、朝5時からご夫婦で仕事を始められ、暗くなるまで外におられるそうです。夕食は9時とのこと。頭が下がる思いです。
 山口市近辺なら、5日、15日、25日に無料で配達して下さいます。遠方の方には送料実費で送って下さいます。お米は5kg3000円。希望通りに精米して下さいます(我が家は5分搗き中心です。とてもおいしいです)。毎年年末にアイガモ肉をいただき、その野性的な味わいを楽しんできましたが、三輪さん自身は召し上がられないということをお聞きしました。ひなからかわいがって育てるので、食べる気持にはなれないのだそうです。

【連絡先】 〒747-1232 防府市台道5947    TEL&FAX 0835-32-1299 三輪広義

編集後記

 豆料理クラブをスタートしたことで豆についての情報が集まりはじめた。感謝。2ページの野村さんが紹介してくれたブラジル豆料理、つくってみると思いがけないおいしさ。塩とにんにくというシンプルな味つけだけど組み合わせが絶妙なんだろう。伝え続けられた郷土料理ということが納得される。
 9月11日を前にしてペシャワール会の中村哲氏の講演録を読む。地球の温暖化が阻止できないのはたくさんの人が失業するからという話に、ほりおさんの紹介してくれた週休5日制の現実性を思う。週2日働いて現金収入を得、残る5日は畑と台所仕事中心というのは、私にとっても理想の暮らし。今号のそれぞれの記事はその理想に呼応しているようで楽しい。(千晶)
 豆料理クラブ通信で短編小説を書き始めます。堂守=堅物のイメージを逸脱すべく恋愛もので遊んでみたい。(無々々) 


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