第2号:1997/12/10


三人の木村さんと楽天堂(高島無々々)


教会でShall we drink?
 始めは牧師の木村武志さん。僕よりちょうど一回り年齢が上で、結婚式の司式をしてくれた人。横須賀で知りあった頃、僕は様々な平和運動に関わっていて(ご存知のように横須賀には、アメリカと自衛隊の基地があり、軍都としての歴史もある。僕の父も基地労働者だった)社会的な実践を信仰の証しとする彼と知り合い、深く交わるようになった。彼の教会は、クリスチャンでない僕のような人間も温かく受け入れ、平和センターとして運動の拠点になり、国内はもとより外国からもゲストが訪れた。他の教会では考えられないというが、会堂を使って交流会の後の二次会を開き、飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ――果ては会堂の長いすに眠りこけて朝を待つ、というような事が何度もあった(牧師自身が飲んべえだったためもあるが)。

 僕の結婚式も教会の信者さん(友人達でもある)が手作りで開いてくれ、費用は少なくでもアットホームな、と僕の望んだとおりの形でできた。結婚式の間、めめしい僕は泣き続けてしまい(後で女房から「先に泣かれて泣けなかったわよ」とブーブー言われた)、誓いの言葉の後、木村牧師がグッ、グッ、と力をこめて二人の手を握って励ましてくれた。

 その後、都市での活動に限界を感じていた彼は、僕が横須賀を離れるのと相前後して鹿児島県の鹿屋に移り住み、そこの伝道所で近くのハンセン病療養施設「星塚敬愛園」と交流を持ちながら、自然の中で人が癒される信仰の場の実現に向けて動いている。

今からさかのぼること13年前・・・
 木村Qちゃんとは、先の木村牧師の紹介で知り合った。Qちゃんは神学大学を卒業後、職業的な牧師になる道を選ばず、キリスト教関係の出版社に勤めながら、住んでいた東京都日野市で寸莎(すさ、と読む。土壁に塗り込む稲わらのこと)という同人を足場に、様々な市民運動に関わっていた。彼は“行動の人”で、たとえば体の不自由な人たちが家を離れて泊まりがけで遊びに行ける場所がないと聞くと、市民に呼びかけて廃品回収にとりくみ、富士五湖の山中湖畔に「かたつむりの家」という山荘を建設してしまった。ここは車椅子でも利用できるトイレ・風呂・室内エレベーターを備えた自炊が原則の宿で、とても気持ちよく過ごせる場所です。

 Qちゃんは自分が心臓病を患っていたこともあって、様々な心や体の悩みを抱えた人たちが自然の中で長期に滞在できる場所の建設を思い立ち、富士山麓の山梨県稲子という土地に8000坪の山林を市民と共同で購入した。そして、建設の過程も大事にしたいと願って、1984年に第1回のワークキャンプを開いたのだった。僕も横須賀で畑を耕したり共同購入のグループをつくったりしていた縁から木村牧師の声がかかり、二週間のエコロジー・キャンプに参加してみた。

 30年前に農家が離村して杉が植えられていた山の斜面が伐り開かれて、中央にアメリカ・インディアンのティピー・テント、その周りに参加者のテントが張られ、まるで開拓地の様相。敷地の中には滝があって小川も流れている。そこの土地をならし、杉の皮をむいてログにし、一段ずつログハウスを積んでいく。また畑を耕して野菜を植え、土壌浄化法の排水設備を作り、ドラム缶の五右衛門風呂に入り、蛇や野草を食べるなど、都会育ちの僕には新鮮な体験だった。20名のメンバーの顔ぶれも、日本人、在日韓国人、中国人、フランス人、アメリカ人、Qちゃん達が支援活動を行っていたフィリピンの人たち、そして地元の人と、多彩だった。短い期間ではログの枠組みができただけだったが、参加者一人一人の胸の中には、小さな種がまかれていたのだ。

 その年の10月、Qちゃんは心臓発作で逝ってしまった。激しく駆けぬけた38年間だった。Qちゃんの死とともに計画は頓挫し、共同体建設の夢は、遠のいた。僕も旅に出、いつしか彼の享年を越え、こうして山口まで来て〈エコロジー&共生〉をテーマにした楽天堂をつくろうとしている・・・。何か不思議な力を感じずにはいられない。

いいんだなあ、これが。
 僕は沖縄が好きだ。沖縄に惹かれている。3人目の木村浩子さんは、沖縄本島の北西に位置する伊江島に住む障害者だ。彼女のことを知ったのは、僕が結婚して山口に移ってきた1993年、NHKのドキュメンタリー番組で紹介されたのを見たからだ。脳性麻痺で生まれ、文字どおり命がけで施設を出て自立、結婚、日本の重度障害者で初めて出産・子育て、そして離婚。短歌を詠み、唯一自由になる左の足指を使って水彩画を描き、伊江島で「土の宿」という一泊1500円の民宿を経営している(以前は、山口県の萩に「土の宿」はあった)・・・。

 無性に沖縄に行って木村さんに会いたくなった。その年の夏、新婚旅行を兼ねて千晶と二人で出かけて会った感想は――まず、自我の人。例えば、宿では皆が食事を作り合って一緒にテーブルを囲むことが多いのだが、木村さんも加わると、全員が席に着くのを待てずに一人だけ先に食べ始めてしまう。う〜ん、わがまま。宿の壁にも、「私はあなたのために生まれてきたのではない」と、堂々と貼ってあるし。それから、やさしいエネルギーのかたまり。屋久島の縄文杉で見たような、大地の生命力が渦を巻いてゴワゴワッと塊になったみたい(体型も似てるし・・・。失礼!)。オーストラリアのエアーズロックに行った時、麓までは車椅子で行けてもそこから上は鎖場で登れなかった体験を語りながら、「くやしかったから、ションベンひっかけて帰ってきたよ」と笑い飛ばしてしまう。でも、その旅が縁で、オーストラリアのアデレードにも土の宿ができたという。人を押さえつけたり、こわばらせたりするのではなく、土のぬくもりに触れさせてくれる力。お涙頂戴とは無縁の、力強いやさしさ。

 3年後、僕にも子どもができて、また沖縄に行きたくなった。「なは」と名づけた女の子の写真を見せると、「よかったねえ」――顔をひん曲げ、体から絞り出すようなしゃがれ声で、喜んでくれた。いいんだなあ、これが。百万遍の社交辞令を聞くよりも、この一言が聞きたくて、沖縄まで来たような気がする。土の宿のような、出会いと癒しの場を僕も沖縄で作りたいんですが、と相談すると、「山口でやりなよ」というアドバイスをいただいた。伊江島の、珊瑚が砕かれて打ち上げられた白い砂浜に寝そべって、考えた。

 それが去年の秋の話。半年後の今春、ベネトン山口の玄関部分を増築して、第一期の楽天堂が完成した。

付記:沖縄には「命どお宝」(ぬちどおたから=命こそ宝)という言葉がある。やさしい響きだ。僕も、現実に追われて我を見失いそうになると、心の中で呟いてみる。木村さんが萩から沖縄へ土の宿を移したのは、「戦争になれば、足手まといになる障害者は、真っ先に殺される。障害者が生きてゆける世の中になるためには、何よりも平和を!」という想いだったという。沖縄が、戦争と平和の交点に在る事を、忘れてはいけないと思う。僕が伊江島で知り合った地元の青年の父親は、沖縄戦で家族全員を亡くしていた。伊江島は、激戦地の一つだった。今も、アメリカ軍の基地が存在している。そして何よりも土の宿は、伊江島の反基地闘争を担ってきた阿波根昌鴻(あわごん・しょうこう)さんの支援を得て、建設されたのだった。


電動車椅子生活者ヤンマーから見た世間(1)

自分の居場所が欲しかった(ヤンマー)


  「あなたの居場所はどこですか」と自分に問い続けながら41年間生きてきたような気がする今日この頃。
  今回からこのコーナーでエッセイを書かせていただくことになりました、ヤンマーこと山田可人でございます。
  「何でもいいから書いてくれ」と高島さんから依頼されたのは、台風も通りすぎたばかりの9月の始め頃でありました。「さてさて何を書こうかな、、、?」と、あれこれ思いめぐらせた末、自分の居場所について、今実感していることをあれこれ書いてみようと思います。「ちょっと哲学っぽいかな、、、」
  
  さて、一般に「障害者」とか、車椅子に乗っている人とか、かわいそうな人、などなどいろんなブランドをはられている僕達ですが、何のことはない普通のおじさんなんですけど、でもね、やっぱりそういう者から見た世間って面白くておかしいものですよ。だってみんな二足歩行が当たり前で学校へ行けたり働けたりすることが常識で、それができない人を見ると、「すごいがんばっている人」、とか、もしくは「なんてかわいそうな人だろう」、しいては「へんな人」、などいろんな意見があるものです。その他無関心な人も多いけどね。
  だけど、僕から見ると、そういう見方をする人程、人間らしいんですよ、これがまた。
  
  例えば、大学とか商店街とかに行って、「すいません、のどがかわいたので缶コーヒー買って下さい」と大声で声をかけるとね、必ず十人中八人までが、まるでエイリアンでも見るように、いかにもおっかなそうな顔をして僕の前をスタスタと通り過ぎてゆく訳です。そりゃ当たり前だわ、手足を車イスにくくりつけて、わけのわからない言葉でギャーギャー怒鳴ってくるんだから。
  で、そのうちの一人は、どうするかっていうとね、「どうしたんですか」とやさしそうに声をかけてくる。僕は思わず(「やっとコーヒーが飲める」)と思うがはやいか、さっきと同じ言葉を今度は小声で「すいません、のどがかわいたので缶コーヒー買って下さい」。
  すると決まって返ってくるのが、「ごめんなさい、わたし時間がないんで」という訳で、いやはや面白いけど疲れます。おまけにのどはかわきっぱなしだしね。さて、残りの一人ですけど、やっとこさ話が通じて、コーヒーを買ってきてもらって「これでいいですか」と聞いてくる。「はい、どうもありがとうございます」。この時のコーヒーのおいしいこと、この上なし。だから、障害者ってやめられないんですよ、これが。

  そんなこんなで今日も楽しく、「ナンパ」みたいなことをやっているわたくしでございます。だけどね、誤解のないように書き加えますけど、これだけじゃないんですよ、これだけじゃ。ちゃんと文学を志し、宮沢賢治をこよなく愛し、過去三冊の詩集を自費出版し、現在は、「山口大学人文学部日本語文化コース国文学科現近代文学研究室」に潜り、コツコツと小説家の道を模索する傍ら、前回ご紹介に預かった(編集者注:第1号「この世で会えてホントによかったひと(1)大石勝さん:山口障害者解放センター」)大石君らといっしょに、「やまぐち障害者解放センター通信『雑草』」の編集委員として活躍しております。
  故郷はなれて25年、施設を出てから12年、そして、今、「最もしあわせ」な居場所を見つけて、はや6年。中原中也じゃないけれど、ああ、思えば遠くへ来たもんだ。まあ、いろんなことがあったけれど、なにはともあれ生きててよかったと、しみじみ思う秋の日のヤンマーでございます。

  ところで、何度も聞きますが、「あなたの居場所はどこですか」。では、また次回でお会いしましょう。どうも、おじゃましました。



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