雑誌 “湧” 

地湧社発行の雑誌『湧』の2007年3・4月号から、高島千晶が連載させていただいてる文章です。
「湧」は直接定期購読制の雑誌です
 「湧」は、人間の生活の最も基本的な問題に焦点を合わせ、様々な活動分野での新しい視点を提供します/著者と読者を結んで、深い体験からの言葉、地から湧きたてのいのちの水をお届けします/地湧社の出版活動の消息を伝えるとともに、新刊書や催し物をいち早くご案内します。
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   第7回(2008年3・4月号) 町家から「100年計画」

 夫婦で商売をやっています。五年前に京都で小さい町家を借りて豆屋をはじめてからは、店と家が一緒。三畳くらいの店、四畳半の事務所、三畳の茶の間があって、奥に六畳の座敷兼作業場、これだけの小さなスペースで一日中顔をつきあわせて仕事し、おまけに二歳になったばかりの子どもがちょろちょろしていた開店当初はけんかばかり。仕事と家事が終わって、子どもを寝かしつけるために二階に上がるとほっとしました。、ただし、二階はしっちゃかめっちゃか。きれい好きな夫はがっかりして、夜おそくからそうじを始める。

 でも、それから五年たった今は、この家の住み心地はなかなかのものです。それぞれの得意分野を担当し、夫はそうじと事務全般、わたしは台所仕事と接客をしています。

 わたしたちの家は築百年になる昔ながらの町家ですが、町家というのは商売するのに便利なようにできていて、細長い土間の台所から、すりガラス引き戸ごしにお客さんが来られたのがわかります。あわてて出ていって、最初の頃こそよく鍋を焦がしていましたが、今は子どもたちが手伝ってくれるから大丈夫。お客さんと話しこんで台所に戻ってくると、茹でかけのほうれん草が茹でてあったり、焼き魚の番をしてくれていたり。

 店と家が一緒、いわゆる職住一致のいいところのひとつは、子どもの仕事がたくさんあることです。たとえば、お店の商品を紹介するカードは娘がつくります。「パンにつけるとGOOD!」とか「激ウマ!」とか、ちょっとわたしが使わないような言葉が踊っています。息子の方は、「ひよこ豆、おいしいよ。ぼく一番好き」などとお客さんに話しかけています。ちょっと立ち寄っただけのお客さんに「あれ?お豆買わないの?もうすぐ銀手亡なくなるよ」と声をかけたりして、お客さんもわたしもびっくりします。

 三年前からは週に三日、パートで働くスタッフも加わりました。彼女ともぶつかりあいながら学んでいます、相手のこと、自分のこと、一緒に仕事するということ。夫婦と同じですね。

 そして、この町家は、パブリックな場でもあります。この家で豆料理クラブの会員と話し合ったことは数え切れない。共同で豆を煮るための保温調理用鍋カバーを開発しました。社会や政治の話もします。イラク戦争が始まった翌年の春、日本人人質事件に端を発してマスコミでは自己責任論がとりざたされたのですが、あの頃からでしょうか、何だかおかしいよということがある度に、店先で、あるいはご飯を食べながら、わたしたちは話すようになりました。いまさらながら、豆料理はそんな風に人が集まる場所には最適です。

 それにパソコンのおかげで、井戸端会議には全国の会員が加わっています。メーリングリストに、毎日のように誰かが書き込みをしている。笑いあり、涙あり。

 イギリスのコーヒーハウスから政党政治が生まれたと、歴史の本で読んだことがあります。100年後の教科書に、「日本では、豆屋、米屋、八百屋、酒屋などから民主主義が広まり根づいた」と書かれていることを想像すると、ちょっと楽しい。ちなみに、豆料理クラブのメーリングリストには、「100年計画」という名前がついています。


   第6回(2008年1・2月号) お金を使わない楽しみ

 商売人になって今年で17年になります。商売のコツは何かと聞かれたら、余分な在庫を持たないことと答えます。シーズンはじめにはうきうきした洋服も仕入れすぎて在庫の山になったら、シーズンの終わりにはゴミみたいに感じられ気が重くなります。商売は在庫との闘いです。

 ようやく最近になって、余分な在庫を持たなくてすむようになってきました。豆料理クラブを思いついて、決まった会員に毎月お豆を届けるようになったのが大きな転機でした。会員の数が安定すると、お豆以外の食品や生活雑貨の必要な量も予想がつきます。

 十年、洋服屋を営んだわたしは、消費をあおるような商売の仕方に限界を感じていました。ほとんどのお客さんは十分、セーターを持っているのです。それでも買ってもらわなくちゃいけないから、今年はピンクがトレンドだとかを言わなくちゃいけない。東京でそう決めたら、どこの街でもいっせいにピンクを使ったショウウインドウの演出をする。お客さんだってくたびれてきます。

 商売は好きだけれども、消費をあおるのはやめたいと思うようになりました。特に子どもができてからは、お金を使わない楽しみを伝えたいと思うようになりました。理想は消費に歯止めをかける商売です。けれど、そんな商売って成り立つんだろうか。

 豆の商いは、その思いにぴったりでした。豆料理が普及して結果としてお肉の消費が減れば家畜のえさとしての穀物消費が減る。穀物を穀物のまま食べたら、今収穫している穀物量で全世界の人口を養えるんだそうです。また、家庭で料理する楽しみを通信でシェアすれば、買って手軽に気晴らしする消費文化から抜け出して、台所仕事の充実感を大事にする次の文化を育てていける。

 消費文化は全盛期を過ぎたのではないかと思います。身近な若い友人を見ているとそう思います。バブル期に大人になったわたしたちの世代とちがって、お金をかけずに手をかけて楽しみをつくりだす人が増えている。借家の小さい部屋を気持ちよく整えて、わたしやこどもたちを手料理でもてなしてくれたり、裁縫が苦手なわたしにかわって破いたズボンをおしゃれに繕ってくれたり。若いのにすごいなあと感心させられます。

 商売を営みながら余分な在庫を持たないためには、信頼し支え合うような関係性、コミュニティーが必要です。「今年は黒豆がたくさん収穫できたので、黒豆の料理を提案していきます」「水害で銀手亡がとれなかったので、かわりに大福豆をつかってください」、わたしはそんな風にお願いします。会員は理解してくれます。畑でできたものに合わせて商売ができます。このようなつながりがあることほど、小さい商売にとって心強いことはありません。

 東京中心のトレンドを次々に消費する楽しみよりも、コミュニティーや継続的なつがりを選択する人は、若い層にも確実に育っています。


   第5回(2007年11・12月号) いんげん豆に宿る妖精の話

  北海道の北見に住むお百姓さんを訪ねたとき、豆畑にいる妖精の話を聞いたことがあります。妖精が畑仕事を助けてくれ、必要なことを教えてくれるという話でしたが、60歳を過ぎたIさんの日焼けした風貌に妖精がどうも結びつかなくて、失礼なことに吹き出してしまいました。わたしの頭の中にある妖精とその友だちはティンカーベルとピーターパンみたいだったのです。

 ところがずいぶん後になって、Iさんの畑に住んでいるのはデオハコなのかもしれないと思いつきました。デオハコというのは、とうもろこし、かぼちゃ、いんげん豆の精です。アメリカ先住民のイロコイ族は、この3つの作物を特別に大事にしていて、三姉妹の精がいるのだと信じていました。Iさんの畑で作られていたのは、いんげん豆だけでしたが、Iさんは植物と話する人でしたから、デオハコに気に入られたのかもしれないと思いました。

 金時、手亡、虎豆、うずら、、、いんげん豆の仲間はすっかり日本に定着していますが、生まれ故郷ははるかアメリカ大陸です。コロンブスが唐辛子やトマトなどとともにアメリカ大陸から持ち帰り、ヨーロッパ、アジアへと広がりました。日本には中国から隠元法師が江戸時代に持ってきました。

 最も古いいんげん豆は7千年前のメキシコの遺跡に見つかっています。同じ洞窟からとうもろこしも見つかっていて、この二つの作物は古来から一緒に育てられてきたことがわかっています。

 イロコイ族の人たちは、畑に穴を開け、まずとうもろこしの種と肥料になる魚を埋めました。とうもろこしの芽が出てきたら、お豆を植え、お豆はとうもろこしの茎を支柱のようにしてツルを絡ませて成長します。その後、かぼちゃを植えると、かぼちゃの大きな葉っぱは地面をおおい、畑の乾燥を防いで、水をたくさん必要とするとうもろこしの成長を助けます。豆は前回書いたように、根っこの根粒に住むバクテリアが窒素肥料を合成してくれるので、畑を肥やして他の植物の成長を助ける。デオハコの三姉妹は畑でこのように助け合っているわけです。

 畑だけでなく台所でも、とうもろこしと豆をあわせることの利点は気づかれていたようです。とうもろこしがヨーロッパに広がったとき、ペラグラというビタミン欠乏症がはやったのですが、これはとうもろこしとお豆を食べ合わせていた先住民には見られない病気でした。

 植物の望むところとその力を感じ取ることができる彼らの繊細さは、ヒダーツァ族のとうもろこしに歌う慣習からもうかがえます。「わたしたちは母親が子を愛するように畑の作物を大事にします。子どもが母親の歌声をきくのが好きならば、とうもろこしもわたしたちの歌を聴きたいだろうと思って歌うのです。」

 一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸に上陸すると、わずか数十年で先住民の数は半分になっと言われています。二百年後には5パーセントにまで減っていました。聖なる食べものであるとうもろこしもたびたび焼き払われ、畑が奪われました。

 食卓に金時豆とかぼちゃが並ぶようなときには、ふっとデオハコのことを思います。北見の広い豆畑と、大まじめでいて笑いをさそうIさんの話しぶりも思い出されます。


   第4回(2007年9・10月号) 空気からパンをつくる 

 昔、小学校の教室で、植物は空気の中にわずかに含まれる二酸化炭素をつかって光合成をするのだと習いました。そして、空気の中のおよそ二割は酸素でこれはわたしたちの呼吸に欠かせないものであり、のこる八割がおおむね窒素であることも教わりました。クラスの男の子が質問したのを覚えています。「窒素って何のためにあるんですか。」「なんのためやろなあ」と先生。

 それから30年経ったことになりますが、一昨年の夏の終わりに北海道の豆畑で、一人のお百姓さんから、窒素というものの役割を教わりました。窒素がなくてはどんな植物も育たないこと、同じ土地ににんじんを連作したら土がやせてしまったこと、ところがそこに豆を植えたら地力が回復したこと、それは豆の根っこに根粒という小さなつぶがあり、そのつぶに住む根粒菌が空気の中から窒素をとりだしてくれるからだということ。

 そのお百姓さんは、ネクタイをつけた姿のまま、ぶあつい手で足元のふかふかした土を掘り起こし、豆の根っこにくっついている直径3ミリくらいの小さなつぶつぶをわたしに見せて下さいました。「これのおかげで土が元気になるんです。根菜ばかり作るのをやめて、豆と根菜を交互に作るようになったら、無肥料栽培でみごとな収穫ができるようになりました。」

 あとになって、植物のみならず動物も微生物も命あるものは皆、生きていくのに窒素を必要とすることを知りました。人間は植物と(植物を食べた)動物を食べてタンパク質という形で窒素をとり入れます。

 そして、この命に欠くことのできない窒素というものを、やっかいなことにほとんどの生物は空気からとりこむことができません。それは海に漂流する人が水に囲まれながらも水を飲めないのに似ています。もし海水から真水を取り出そうとしたら、工場と大きなエネルギーが必要になるでしょう。

 20世紀になって、ハーバーという科学者が空気中の窒素を固定する方法を発明しました。それこそ工場と大きなエネルギーを必要とする方法でしたが、この発明のおかげで窒素肥料が生まれ、農地の生産性は飛躍的に向上しました。たくさん穀物がとれて地球の人口は4倍になったと言われています。ハーバーの墓碑銘には「空気からパンをつくった」と記されました。

 やがて、石油エネルギーを大量消費する化学肥料の負の側面が明らかになると、先のお百姓さんのように肥料をつかわない農業にたちかえる人も現れました。同時に、ちっちゃな根粒の中で化学工場で行われているのと同じ化学合成が行われる不思議がつまびらかになって、自然の営みもまた空気からパンをつくるのだと知られるようになりました。

 日本では昔から、田んぼのあぜに枝豆を植え、田植えの前にもマメ科の植物であるレンゲを植えて緑肥としてきましたし、アメリカ大陸では紀元前からいんげん豆とトウモロコシが混作され、インドでは小麦畑にレンズ豆が植えられています。世界のいたるところで、農民は豆の持つ不思議な力に気づいていたようです。

 先日、古代ローマ時代の『農耕詩』にこんな1節を見つけました。「刈り入れのすんだ畑は交替に休ませ、力を失ったその土地が、再び力をつけるまで放置せよ。ふるえるサヤを持つ多くの豆を、あるいはカラスノエンドウの小さな種や、苦い羽団扇豆のもろい茎や、風にさやぐその下生えを与えよ。」

 二千年前の理想の農業は、北海道のお百姓さんが教えてくれたとおりでした。


   第3回(2007年7・8月号) テーブルのしごと

 わが家の六畳間に、座敷机とちゃぶ台を並べ、さらに子ども部屋からこたつ机まで持ってきてテーブルを三つ並べれば、さあどうぞ、ここが豆ランチパーティーの会場です。「わー、なんだかなつかしい」と初めて来た人が言います。「小さいときのお誕生日会みたい」。

 このところは近くのお寺の奥座敷をかりることが多いのですが、それでも自宅に人を招く時の雰囲気と変わりありません。大きな鍋からよせ集めのまちまちなお椀に豆スープをよそい、一緒に食事し話をする。「まるでネパールでご飯を食べてるみたい」と先日はネパールからの客人にも喜ばれました。床の上に車座になることか、それとも一品持ちよりでいろんな家庭料理が机の上に並ぶことがネパールに似ているのか、わたしにはわからないのですが。

 新しく住みはじめた町で友だちを作りたいと思ったら、「お昼をどうですか」と誘うのはおすすめです。子育て真っ最中で外に出歩けなくて、でも支え合う仲間が必要だと感じている人にぴったりですし、介護の必要な家族を抱えている人にとっても良い方法かもしれません。

 豆スープは、そんなおおぜいが集まるときにこそ重宝します。たとえば、えんどうのひきわりを半カップと水6カップを鍋に入れて火にかけ、かぼちゃ500グラムと玉ねぎ1個を薄切りにして入れ、ことこと煮ます。塩こしょうで味つけ。これならば、一人分つくるのも10人分作るのも手間はかわりません。それに人数が急に増えたって大丈夫。

 おいしいパンとひよこ豆のペーストを用意したら、あとは、集まってくる人の手料理や果物に期待しましょう。持ちよりパーティーの主催者は、料理が得意じゃない方がいいのです、大きな声では言えませんが。今日のスープは塩が足りないなあとか、このペーストのお豆は茹で方がたりないなあとか、そんな風だからこそ、頼りない料理人をカバーすべく、集まってくる人はおいしいものを持ってきてくれることでしょう。

 京都で商売をはじめて半年して、豆ランチパーティーを思いつきました。お店をしていると自然とお客さんから興味深いお話を聞くことが多くて、一人で聞くのはもったいない気持ちになります。そこで、来月我が家に来て話してくださいませんかとお願いするようになりました。

 毎月、ゲストを一人招いて、ごはんの前にその人に話してもらうことにしています。お百姓さん、助産婦さん、パン屋さん、中央アジアを旅した人、いろんな人に来てもらいました。それぞれの回にお話のテーマが決まっているので、関心の近い者どうしが集まってきて、話がはずみます。「今度、畑を見せてください」とか「一緒に子どもを遊ばせましょう」とか、そこからは主催者の手を離れて、次々と関係が生まれていきます。

 コミュニティーをつくるのに必要なのは、同じ鍋の豆スープをわけあうテーブルかもしれません。


   第2回(2007年5・6月号) 急ごしらえの店

 豆は考えようによっては、野菜やお米より扱いやすい食材です。切ることも皮をむくことも研ぐこともしないで、お鍋に入れて水を注ぐ。翌朝、火にかけたら、たいていは半時間で煮えています。ゆでたお豆をそのまま食べてもおいしいし、ゆで汁はスープとして使えます。お豆とゆで汁を火にかけ、あり合わせの野菜をうす切りにして鍋に入れれば、かんたんなスープのでき上がり。お豆のゆで汁がだしになるので、固形のブイヨンも必要ありません。よい塩があればいい。欲をいえば少しのスパイス。

 豆から出てくるこの滋味は、日本ではあまり知られていません。本当に豆と野菜でこんな味になったの?と驚かれることがしばしばです。和食の場合は砂糖と甘く煮ることが多いのですが、豆そのものの味を生かした料理が世界中で作られていることを知れば、甘い煮豆ばかりではもったいない気がしました。

 豆を売ると同時にシンプルな調理法もあわせて紹介していきたい。これが失業中に思いついた豆料理クラブのアイデアです。会員を募り、豆とレシピとスパイスなどを定期的に家庭に送る。一年間料理してもらえば、春夏秋冬、その季節にあわせた豆料理を味わえるので、豆は家庭に定着するにちがいない。

 半年後、豆料理クラブをスタートしました。台所での試行錯誤は楽しかったのですが、会員は思うように集まらず、どのように呼びかけていいかもよくわかりませんでした。翌春、縁あって京都の西陣のはずれに小さい町家を借り、我が家は住みなれた山口を離れました。

 引っ越した先は下町で、物価が安く、通りで出会った人どうしが気さくにおしゃべりしている町でした。どうやって商売をしようか、何ヶ月もかけてゆっくり考えればいいと思っていたのに、町を歩くと気持ちが変わっていきました。
 ことに、小さな八百屋さんの前を通りがかったとき、軒下にマジックでイラク戦争にどうして反対してるか書いた紙を貼りだしているのを見て、いてもたってもいられなくなりました。(伝わる人もいるであろうと)読み手を信頼して呼びかけてくれたその言葉に、わたしもそうして他者に呼びかけたいという思いが湧いて出たふうでした。数日前にアフガニスタンに続いてイラクでもが戦争が始まっていました。こうしてはいられない、一日も早く商売を再開しよう、と思いました。わたしにできることは豆を売ることだとも気がついたのです。アフガニスタンの豆スープやハモス(中東の豆料理・ひよこ豆のペースト)を紹介することで、それらの豆料理を育んだ台所を身近に感じられるようにしよう、そういうことに共感してくれる仲間を作ろう。

 翌朝、1時半に目が覚め、準備をしました。引っ越して3日目の朝でしたが、家の前に折り畳み式の丸テーブルを広げ、ビニール袋に詰めた色とりどりの豆を並べました。白、緑、黄、オレンジ、茶、黒、、、。それらは、築90年になる町家の古びた格子の前で美しく映えました。お店のチラシにはこう書きました。「豆はおいしい。豆は安い。豆は保存がきき、楽しく料理ができてからだによい。世界中の人がこぞって肉を食べれば食糧危機は深刻になるばかりだけど、豆なら大丈夫です。世界中の人が満ち足りた食事ができるように―これが楽天堂・豆料理クラブの願いです。」

 このチラシは、それからの数ヶ月、京都でたくさんの出会いを招くことになります。


   第1回(2007年3・4月号) 豆屋になる

 京都西陣で小さい豆屋をやっています。ここ十年外国旅行に出かけたことはないけれど、古い土間の台所に立てば、そこが世界の台所につながっていると感じられます。だって、どこの国でも母ちゃんたちは、その日そこにあるものでおいしいごはんをつくって一家を切り盛りしているんでしょうから。

 えっ!かぼちゃと豆と玉ねぎだけで、こんなにおいしいものがつくれるの?、、、この今日のわたしの感激は、会ったこともないイタリアのおっかさんの「どう?たいしたもんでしょう?」という誇らしさとひとつです。
 ああ、ムング豆っておいしい。トマトと玉ねぎとほんのすこしのスパイスがあれば、こんなに立派なカレーができるんだ。それもあっという間に。インドの母ちゃんたちに、ありがとうと言いたくなります。

 どんなに心細い時でも、台所に立って少ない食材に集注して工夫すれば、自分が頼もしく思えてくるから不思議。のこりものの野菜だけでこんなにおいしいシチュウを作ってしまえるわたしは、なんてすばらしいんだ。鼻歌の一つも出てきます。世界中、どこの国でも、庶民はつましい台所で、こんな風にない知恵をしぼって、自分と家族を養ってきたにちがいない。明日からの暮らしになんの保証がないとしても、今日、おいしいものを作ってみせる知恵がある。貧しい暮らしの中でこそ身につけてきた知恵がある。その知恵ひとつで子どもたちを喜ばすこともできる。子どもたちがお鍋をのぞきに来るとき母親は気がつきます。なんて自分は幸せなんだろう。生活のあれやこれやで頭がごちゃごちゃになっていた不機嫌な女はもういない。

 2001年秋、10年やってきた洋服屋の経営が苦しくてもう店を閉めようと覚悟しなくてはいけなかったとき、5歳の娘とまだ1歳にもならない息子を抱え、わたしは心細い気持ちで暮らしていました。それはアメリカでテロがあった秋で、ウィスコンシンに住む親友もまた同じでした。「ふだんはリベラルな人たちもどんどん好戦的になっているよ。」「アフガニスタンと戦争を始めるかもしれないね。」

 先行きに希望が持てるような明るいニュースが何もない中で、わたしたちの台所仕事に拍車がかかりました。そしておいしいものを作るたびに、レシピをファクスで交換していました。「今日はこんなおいしいものを作ったよ、ひよこ豆とみかんとねりごまがあればできる、どうぞおためしあれ」。

 この先貧乏になること間違いなしという状態だったわたしにとって、彼女が送ってくる質実なレシピの心強かったこと。お豆と野菜だけで申し分なくおいしいものができるんだ。

 それから数ヶ月していよいよ閉店を迎えたとき、夫は小説家になって家族を養うなどと悠長なことを言って周囲をあきれさせ、わたしは実際のところ、親子4人、どうやって食べていけばいいのかと途方に暮れていました。けれど、すっかり重荷を下ろしてしまうと意外にもさっぱりし、4日目には豆料理クラブという新しい仕事が思い浮かんだのでした。


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