おしめ [2007/04]
| 「びわとさくらんぼの季節になるとおしめのことを思い出す」と祖母は言う。梅雨時に家中に干された、たくさんのおしめ。祖母は二歳ずつ離れて六人の子供を生み、一方祖母の妹には四人の子供がいて、二人ともその後夫をなくし一緒に暮らしたから、十何年とおしめとつきあってきたのだ。 戦時中、空襲で防空壕に逃げるとき、箪笥の晴れ着より持てるだけのおしめを迷わず運び出したそう。祖母にとって、おしめはなくてはならない、生活必需品だった。 私がタオを生んだとき、育児についてちんぷんかんぷんで母や祖母に頼りっぱなし。母はおしめをとっくになくしたので祖母のところへ聞いてみると、あったあった、閉めた店の倉庫の奥から百枚以上出てきた。中には戦後まもないと思われる、店で扱っていた日清製粉のおまけ手ぬぐいを縫ったものなんかもあった。親戚の間をぐるぐる回ってここへ戻ってきたようで、何度も洗われた布は柔らかかった。 始めはおしめを開けるタイミングなんて全然わからないから、タオは怒って泣きっぱなし。しょっちゅう濡らしては母に洗ってもらったが、梅雨時なんて「数えたら今日は百四枚もあった!」なんてことも・・・。 そんなできの悪い私がおしめについて語ろうとはあまりに図々しいのだが、ブラジルで二人目の子を生み、再びおしめを使っているとあちこちで「えっ、今時おしめ?どうやって??」とか「どうしておしっこのタイミングが掴めるの?」と聞かれた。 フランスでは保育ママたちが、まるで生きた化石でも見つけたかのように、みんなでアミカのおしめを覗きにやってきて、「この村には保育園の園長一人しかおしめを知らないから、園長とぜひ話をしてくれ」と言われた。妊婦さんからは「使ってみたいがインターネットで5枚10ユーロもする。代わりに作ってほしい」と相談を受けるほどおしめは絶滅寸前、紙おむつ全盛の中、まとめてみることにした。 「赤ちゃんが泣くのはおしめが濡れるのが嫌で、おしっこの前に泣くから、泣いたらおしめを開けること」と整体の育児の本に書かれていた。頭では知っていてもどうやっておしっこをさせるのかなと最初は?だった。 開けたとたん、しゃーっとやられ、そこいら中びしょびしょなんてことはよくあったが、そのうち泣き出したら抱っこし、濡れても平気なところへ連れて行った。例えば風呂場や庭など。首がすわってないと、おまるに乗せるのは難しいから、たらいや洗面器を近くに置いとく(寒いときも)。おしめをとったらたらいなどの上で抱っこして、おっぱいやお水をあげてみると(何か飲むとおしっこの感じがはっきりしない?)じょじょーっとやってくれる(おっぱいを少しあげると安心して緩み、おしっこが出るのでは)。こっちがあせったり、赤ちゃんをびっくりさせると泣いていてもなかなかでない。気長に。 これに慣れると、外出先で泣き出してもトイレ(座らせないでトイレの上で抱っこする)や公園などでできるようになる。荷物が減る。 起きたときと、おっぱいを飲んで十五分位してから、えっつ・えっつと途切れ途切れに泣けば大体おしっこ。泣き出してもおしっこまでに数分の余裕があるから、それまでやっていたことを片付けてからでも間に合う(すぐに開けても出ずに、閉めたあと濡らされることも)。 フランスの保育ママたちは、赤ん坊がおしっこで泣いているのに、うるさいから口におしゃぶりを突っ込み、赤ん坊を入れたベビーシートをがたがた揺らして黙らせてしまい、あとでおしっこだったと紙おむつを取り替える(さらに、なんでおしっこだって教えないの!とおこる)。たまにしか取り替えてもらえない子もいて、お尻が真っ赤にかぶれているのをみると胸が痛む。 ブラジルは暑くておむつはむれるため、カバーをせずに薄いおしめを股にはさんでおくだけのときもよくあった。産婆のヴィヴィアナは言う。「暑いときは服を着せずにおしめを広げてかけとくだけでいいのよ!誰がお腹の中で服を着てたのよ?」生まれてすぐにきっちりベビー服を着せるのに彼女は反対で、彼女は濡れてもいいように、赤ん坊の下にタオルと、おしっこを吸収してくれるシーツを用意した。 何度も失敗を繰り返すうちに、だんだんタイミングが掴めてくる。すると、赤ん坊はもっとはっきりおしっこだと意思表示をしてくるから、そうなればおしめをはずせる。おしめがないほうが、さっとおまるに乗せられる。紙おむつは開けるのに手間取り、ついそのままになりがち。 日本では、トレーニングパンツという、タオルのような生地で漏れてもおしっこを吸収してくれる便利な下着があったので、タオは七ヶ月ごろでおしめを止めたが、フランスにはない。ポリウレタンとタオルの手作りパンツがネットで紹介されてると聞き、縫い始めると、赤ん坊アミカが歩き始め、おしめがじゃまになり、暑くなってきてようやくはずした。そのときもう一歳半近く。もっと早くとってあげればよかったが、家の中ぴかぴか、汚さないフランスで難しかった。 でも、時々アミカを預かってくれた、近所の保育ママ、メラニーは「ホントにパンツはいてる!もれないじゃない、うちにきてもおまるでしたよ」とびっくり仰天、それから預かる赤ちゃんたちは親の承諾を得てから、メラニーのうちでは皆布おしめや手作りパンツに切り替えた。うちに残ったおしめは彼女にあげた。去年は「三歳までぜーったい無理無理!」と取り合ってくれなかったのに、この一年で変わるもんだ。さらに彼女はインターネットでおしめ研究をはじめ、手作りパンツや洗い方を教えてくれたり、ネットで布おしめを使うお母さんと交流を始めた。 MLにも書いたが、おしめ洗いにティトリーのエッセンシャルオイルを仕上げに水にたらすといいと聞いた。ブラジルでは洗濯機などないから、おしっこの場合は石鹸を使わずに、何度か水でゆすいだら、バケツの中に水に使ったおしめに持ち合わせのエッセンシャルオイルをたらしておしまい。おしっこは、時間がたつとにおってくるから(臭いのはバクテリアが生み出す代謝副産物のせいと、大学の生物学の講義で聞いた、詳しくはもう忘れたが、とにかく汚いもんではない)、ためずになるべく早く水でゆすいだほうがいい。昔の日本人だって、石鹸たっぷり使って大量のおしめを一枚一枚手で洗ったとは考えられない。母が合成洗剤と洗濯機で洗ってくれたときは、多分少し残った洗剤のせいで、タオのおしりが赤くなったり、取り替える私の手もがさがさだったけど、手による水洗いだと手荒れもなく、簡単。 おしめのことについて、内田樹氏がHP上で書かれていたことを読んだ。赤ん坊が母親を通して生まれて最初の自分の欲求が認められるか、大切なことだと書かれていて私も同じような意見だと思ったが、後半の母親に対して「それは違うよ云々」というところから、私は「内田さん、それも違うよ」といいたくなった。 母親が楽をしたいとか、社会進出をのぞんでるとか、そんなではなく、産後すぐに食事の支度から掃除から全部一人でこなすのは、無理な話だ。核家族化に加え、意志表現ができにくく、他人との接触の少ない社会で、母親一人が赤ん坊の面倒をすべて引き受けなければならない状況では、お金が掛かって大量のごみを出す紙おむつが嫌な人でも、布おしめを使いたくとも使いこなせないのが現状だと思う。出だしでつまづけば、いいと頭で知りながらも布おしめへ切り替えにくいのでは? 私ができたのは、日本でコツをおしえてくれた祖母や整体のおかげと、母に頼れたこと、ブラジルでは倒れてから(倒れるまでは一人ですべきと思っていたのが間違いだったと気付かなかった)できないことは人任せにしたからだ。周りの人たちに「なるべくやらないで、他人を(特にやらない男を)使いなさい!」と叱られた(叱った女たちは上手に男に家事を任せていた)。ブラジル社会が受け入れてくれたのだ。 人に何かお願いすることに気後れする私は、人に尋ねて待つよりも、自分で全部するほうが気楽なので、これは難しいパズルのようだった。毎日遊びにくる人たち、子供たちが「何かすることなあい?」と聞いてきたとき(彼らは暇つぶしに遊びにくるだけでなく、助けに来てくれているのだ)どうする?。 結構ですと答えずに(日本人はつい反射的にそう答えがちだと思うが、これは失礼)、じゃあそこのお皿洗っといてくれる?アミカと海岸を散歩してきてくれる?洗濯物干しといてくれる?ご飯作ってくれる?と恥ずかしがらずに言わないといけない(書いててかゆい)。そんなことができないほど、体力も消耗して赤ん坊につきっきりだったんだから、言わないと相手に通じない(と皆に言われた)。 その点、同時期に出産したマヌエラはとても上手で、毎日いろんな友人・義理の親戚たちが訪ねてくると、できないことを全部お任せしていた。「ノーン!ヒローコ、ここは日本じゃないのよ!遠慮せずにいいたいことははっきり言っていいの!」私はくたびれすぎると、ますますどうしたらいいか表現できなくなってしまうようだ。 ラテンの人は客が来てお茶を出したりしない。お茶はお客が飲みたかったら勝手に戸棚を開け、お茶を見つけて作るのが親しい間柄の礼儀だ?!うちにしょっちゅうご飯食べにくる人のところは、食べ返しに行かんとあかんよ、と長年ブラジルに住む日本人に言われた。そういう人には積極的におしめを洗って干してもらわんと。 以前も書いたように、ブラジルは社会全体が子育てを手伝うところがあるので、パン屋のおばちゃんとか、近所の暇な傷痍軍人のおじさんたちが「ボンジーア!」とあいさつしては抱っこさせてと、ちょっと見ててくれる間に、そうだ、私はトイレに行きたかったんだとかお腹すいてたのを忘れていたとか、自分の欲求を満たすのである・・・(遅い!) 隣のゲストハウスにくる、世界中のバックパッカーや、バイトの南米の若い子たちにも助けてもらった。タオのポルトガル語の宿題をみてもらったり、一緒にご飯を作ったり。初めて赤ん坊を抱っこしたと喜ぶお兄ちゃんたちも。ビデオを撮っていた旅人が後で映像を送ってくれたのだが、あんなにてんてこまいだったけど、楽しかったなあと忘れたひと時を思い出した。 私が紙おむつ反対なのは、産後起き上がれない時に、大人用紙おむつで用を足した時の、自分が体験した、腰まで広がる、むわーっとした不快感からくる。あまりにキモチワルイので、アミカのときはバケツをベッドの足元に置いといて、したくなったら腰までずるずる降りていってした。みんなが嫌な顔せず、お手洗いへ捨てにいってくれた。でも私は誰かれとなく布おしめを勧めない、母親の周りの人たちが協力できるかがもっと重要。 私もブラジルで日本からオムツや浴衣を解いたおしめを送ってくれた友人たちのことをよく思い出した。それが今度はブラジルの日本人へ、お産婆へ、フランスの友人へ、保育ママへと渡っていった。こうしておしめ同好会は広がっていくのだ。母親がおしめを楽しく使えるよう、まわりに仲間を増やしていこう。 |
トラディショナル・ダンス [2007/03]
| タオの学校で、カーニバル盛り上げ役の父母を対象にしたダンスレッスンがあり、ダンス仲間が出来た。 寒い冬のさなか、毎週様々なダンス・・・ポップコーンのように跳ね続ける(ぴょんぴょんウサギという名の踊りがあるくらい)と、大量の汗をかき、さっぱりする。一月からカーニバルの準備で重ねた練習は、春に向けた体の変化に合わせ、とても楽しかった。 フランスでは最近、廃れたトラディショナル・ダンスを、音楽とともに復興させようという動きが起きている。学校の先生や地域のミュージシャンが思い思いの楽器を持ってきて、バルと呼ばれる、コミュニティ・ホールや広いスペースのあるレストランに集まる。 ある日、学校の連絡帳に「バザスでダンス・バルがあります」とお誘いが来た。近所の保育ママであり、学校のPTA会長を二年!務めるメラニーと一緒に、「学校行事だ」と赤ん坊を父ちゃんに預け、凍りつくような雨の中、ひょいと出かけた。「ひひひ、六年ぶりに子供抜きの夜間外出だわ」とメラニー。 行ってみると、年寄りだらけでいつもと様子が違う。あれ、先生は?いつもの母ちゃんたちは?・・・心配しながら年寄り連中とレストランで食事。この日が閉店ということで、カンパもかねての食事会だったようだ。ほとんど豆料理のバイキングで、ひよこ豆のピュレ(にバルサミコ酢を混ぜたもの)、ナスのピュレ(フランス人にかかると何でもピュレ―クリーム状にしたもの―になってしまうなあ)、ファラフェル、豆入りビリヤニと豆カレー、あとはほんの小さな鶏肉のサテ。お店の人に、今までどんなメニューを出してたか、豆料理のことを聞きたかった。デザートはフルーツカクテルにガトーショコラ。寒い中、ワイン片手によく食べる。世界最高級ワインで知られるソテアンに近いこのあたりでは、レストランでワインは水代わりにただで出てくる。 驚くべきことに、この年寄り皆、珍しがりながらもこれらの料理をすべて平らげた。日本の高齢者がこんな豆ばかりの、スパイスのきいた異国料理に箸をつけるかしら?フランス人から見た、アフリカやアラブ諸国との心理的な近さを感じさせる。また、彼らの好奇心旺盛な性格もうかがえる。 閉店してしまうその場所は、古い教会をダンスホールに利用し、床は古いタイルをそのままに、崩れそうな壁にはタロットカードの絵のような不思議な絵とカリグラフィーが残っていた。今教会として使われているところで、こんな絵を見たことがない。天井には古い、大きな極彩色の曼荼羅のようなサークルがいくつも描かれ、びっくりした。これと非常によく似た天井画を、インド・マドラスのヒンドゥ寺院で見たことがあったのだ。マドラスはキリストの十二使徒の一人、聖トーマスが布教活動をしたといわれ、キリストカトリック教会もあり、因縁を感じる。また昔々、ローマ法王がイタリアから闘争を逃れ、このバザスや近辺のウゼストの教会に匿われたことがあったという。今でも町の中心には大きな古い大聖堂がそびえる。今日限りのダンスホール、再びオープンするといいなあ。 さて食事も終わるころ、学校の先生やお母ちゃんたちも登場し、ダンスが始まった。総勢二十人ほどのミュージシャン、二十代から七十代近くまで様々な顔ぶれは、アコーディオンやバイオリン、サクソフォン、縦笛ほか、今では使われなくなった、フランスの地方楽器やバグパイプのような(それは一本だけの音管だった)吹奏楽器、カスタネット、アラブ、チベットからの弦楽器もやってきた。 こんな寒い夜は踊るしかない。「アン・ドゥ・トロワ・キャット!トネ・アゴーシュ!」急に年寄り連中が音頭を取り始め、生き生きとしてきた。そう、彼らは毎週フランスの様々な地域のフォークダンスを掘り起こしては稽古に励むダンスマスターだったのだ。彼らと合流することを知らされてなかった。学校の椅子をどかした狭い場所で、スローペースで踊った曲目を、さっきまで飲んでた彼らはすごい速さでターンする。気をつけないと、パートナーの爺さん・婆さんたち(八十過ぎらしい)によって本当に振り飛ばされる。できない私がかろうじてわかったことは、足首にぴんと軸が通っていないとよろめくだけでなく、体が宙に浮き、飛んでいってしまう。 ダンスは集団で輪を描くもの、二人一組のもの、列を作るもの、いろんなスタイルがあるが、ほとんどの曲目において、細かにかかとと足の親指のつけね、どちらかの重心移動によるステップの連続。それを、土踏まずを全く経由せずにひょいひょいとかかと!親指のつけね!と小刻みに使い分ける様は、馬がひづめを上げ下げしたり、ギャロップする動きを連想させる。足の裏をぺったりと地面にくっつけ、腰をおとすアジアの動きとは正反対だ。いくら日本人が西洋化を追ったって、これは真似できない。この動きの違い、できないけれど、こんな風に動いてるからこんなこと思いつくのかしらと、彼らを理解する上でとても面白い。牛のように太ったおばちゃんでも(足首は細い)上手に使い分けていて、早いリズムに乗っている。車椅子の女性はアコーディオンを演奏するだけでなく、踊りの輪に加わる。ミュージシャンもそれを見てさらにスピードを上げる。その日は十二時半まで踊り続けた。 カーニバルの日は子供たちと村を仮装して練り歩いた。普段フランスの人々はジーンズに中国製の大量生産された服で、日本とかわりない格好をしているが(フランス人がおしゃれ?ここにはいないよ、パリにいけば?と誰もが言う)、カーニバルやダンスの日におばあちゃんやお母さんたちが、今では着ない、古いレースのブラウスや丈の長いスカートを、踊りのために着て登場するととてもきれい。メラニーは故郷ブルターニュ地方の民族服に真似たギャザースカートとふんわりしたブラウス、麦藁帽子でやってきた。三人の赤ん坊を乗せた乳母車も花で飾って。「アーミッシュが車を運転してるぞ!」 しかし、カーニバルの日、踊りは少しだけ。「踊り足りない!」と練習を重ねたお母ちゃんたちと先生が月に一度、村のホールをかり、ミュージシャンを呼んで踊る、バルを開くことになった。 バルは六時半からダンスの練習を始める。初めての人がくれば、うちの裏に住むソーシャルワーカーでアコーディオン奏者のヤエルが演奏と共に教えてくれる。お年寄りたちもやってきて手取り足取り指導する。遠いところからうわさを聞きつけてやってくる人たちも。「え、村にバル・トラッドがあるの?」と大抵の人は目を輝かし、飛び入る。 日暮れごろから(夏は九時過ぎても明るい)一品持ちより形式の食事会が始まる。初日はこの集まりを記念して、ワインボトルが無料で配られた。ダンス・バル・トラッドのポスターと同じデザインのラベル。持ちより料理は、野菜タルトにオリーブやベーコン入りのパウンドケーキ、ピザ、クスクス、サラダなどは必ず登場。お肉はそう多くない。メラニーは近所の手絞り牛乳でつくったチーズに、手作りオーガニックパンをいつも持ってくる。「保育ママして、いつこんなおいしいものを、作ってるの?」 一方私はというと、まず海苔巻き(をフランスでは寿司と呼ぶ)。海苔巻屋でも始めるかというほど。まだ食べたことない人や作り方を知りたい人のために、月に一、二度はリクエストに応じる。 しかし、私の楽しみは豆料理でお母ちゃんらを驚かせること。豆料理は誰も持ってこない。いろんな人がレシピを聞いては、家でまた作る。ひよこ豆の楽天スナックをアレンジし、レンズ豆に長ねぎやコリアンダーの葉を加え、スパイスをきかせて揚げたものが人気。餃子の皮はどこにあるの、アジアンマーケットへ一緒に行こうということに。豆入り散らし寿司も生魚で腹を下す多くの人に好評(だから海苔巻きにはツナ缶やスモークサーモン、カニカマしか入れない。生と聞いただけでだめなのか、昔の日本人が牛乳を飲めなかったのと同じか不明)。 本当はこっちの豆料理を習いたいが、カスレのような肉との煮込みが多く、豆だけの料理に出会えないのが残念だけど、菜食に興味のある人から、掘り起こしていけそう。そのとき畑で取れる野菜や雑草(シロザやいらくさなど)だけで作った、素朴なインド・ネパール料理も好き。つい半世紀ほど前まで、フランスの田舎では、ほぼ自給自足できてたから、お年寄りは市場で売らない、地方品種を家でまだ育てていたりする。こういう人たちが元気なうちに、昔の豆料理を聞きたいもの。 踊りの師匠であるおばあちゃんが、席について食事を楽しむ一人ひとりにアルコールをついでまわる「そんな強いの飲んだら踊れなくなるよ!」。彼女の踊る姿を見ると、みとれてしまい、終わった後「ブラボー!!」、ため息と拍手が起こる。難しいステップをなんとも軽やかにこなす。若手のダンサーが同じステップを踏んでも、強すぎて頭と腰の位置がぴょこぴょこ揺れてしまう。彼女は腰が決まっていて、頭がぶれないが、体全体がとてもしなやか。活元運動を続けているお婆さんに出会ったような感じで、こちらも爽快な気分になりながら、ああいう体の使い方をしたいなあとあこがれる。 夜も更け、食事も片付けダンスになると、踊り疲れた人のために、メラニーが飲み物を販売する。遅く来た人には、持ち寄りで余ったケーキを一切れ50セントなど値段をつけて食べられるようにする。こうして集めたお金は、ホールの電気代や、学校の子供たちの遠足や社会見学の貸切バス代に使われる(フランスの学校には集金袋がない。PTAがこうして別の方法でお金をやりくりしてるからかも)。メラニー、こうして四時ごろバルを閉めるまで働く。 普段忙しくて会えない近所の人や学校の先生、お母さんたちと月一で子供たちと共に食べておしゃべりして踊る村には居酒屋がない。子供たちはホールや建物の外を夜遅くまで駆けずり回り、お腹が減ると手作りガトーをつまみにやってきたり、知ってる曲目になれば参加する。生まれて一ヶ月の赤ちゃんから、八十過ぎのお年寄りまでが集う所に、コミュニティの力と、発展していく可能性を感じる。 ・・・数年前、東京で盆踊りに出かけたとき、誰一人踊らず、焼き鳥の屋台に人々が群がっていたのを思い出した。会場の中心の櫓にはレコードの音楽に合わせ、太鼓をたたくおじさんだけが汗を流し、彼の背中から空しさを感じた。私が小さいころ、盆踊りで体中あせもができるほど踊ったのが記憶に残っている。あの時の生き生きとしたおばさんたちの顔・・・あのエネルギーはどこへ行ってしまったのだろう・・・よさこいのように、他の地域で人気が出て踊られるようになったものもあるし、きっかけがあればひょっと復活するだろうか、フランスのように。 |
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オーガニック・フェスティバル [2006/12]
| 去年の夏、プユルの仲間たちと、ドルドーニュ地方、ぺリグ駅に近い町の中心の、オーガニック・フェスティバルに参加することになった。私はブラジルで集めた、アマゾンの植物の種を使ったアクセサリーを売りに、父ちゃんは友人が直前にキャンセルして空きの出来たクレープ屋をすることになった。 日曜のその日、私はフランスの街の活気のなさに驚いた。日曜といえば、ショッピング、というのが多くの日本人、少なくとも日本の若い子達はダウンタウンへ向かうのではないだろうか。なのに、土曜日の午後と日曜は終日店が閉まるフランスでは、労働のストレスを消費で発散するのではなく(人は、車で駅から離れたショッピングセンターへ)、しばしば友人を訪ねに出かけたり、家族集まって一緒に食事を作ったりするようだ(外へ食べに行くのではなく)。こんな人のいないフェスティバル、大丈夫?。 シングルマザーのファニヤと一緒にスタンドを出す。彼女は中南米を二年間旅行しながら、銀細工を学び、すばらしいジュエリーを作るが、今まで赤ん坊の世話で売りに出られなかった。「ねえ、ファニヤ、値段安すぎない?これみんな、日本だったら最低五倍はするよ」「んー、フランスはだめだめ。見るだけで全然買ってくれないわ」その日私たちの売り上げはゼロ。場所代を20ユーロも払わされたのに。まあ、ほかのお店・・・陶器、衣類、クリスタル、花、エッセンシャルオイル、どこも売れてないから仕方ないか。 一方父ちゃんの始めたクレープ屋、粉・油・牛乳・卵・砂糖・チョコにシロップすべてオーガニック。初めての大きな鉄板にてこずって上手くできないのを、通りがかったお客さんが二時間以上もただで手伝ってくれ、起動に乗った。彼のクレープ屋とオーガニックのパン屋、八百屋、インド料理屋だけ人が集まる。何度かフェスティバルを通して知ったのは、フランス人は食べ物以外お金を全然使わないこと。少ないながらも通りがかった人たちは、一通り店を冷やかすとクレープ屋に直行する。行列が出来、「おうい、手伝ってくれえ」はー、やれやれ。 私はクレープを薄く焼くのが苦手だ。父ちゃんに「パンケーキを作ろう」と、いわれたとおりに私が(厚いのを)作るとケンカが始まる。フランス人はクレープを指していて、薄く、しかも完全に火が通っていないと許さない。レインボーギャザリングの台所で、ケベックの人たちとアメリカ人がこのパンケーキの違いで口論していたし、こっちで英仏カップルがいつももめることも聞いた。だから手伝いなんか絶対したくないのだが、鉄板に向かって何度も失敗を繰り返すうちにコツがつかめてきた。シャバシャバの水っぽいタネを、強火でじゅっと瞬間に焼いてしまうのだ。日本の料理の本には弱火で、フライパンが熱くなったら、敷いた濡れタオルに乗せて・・・とあったが反対ではないか! もう一つ私が気付いたことは、私のような、あやしいアジア人(フランスにはベトナム人や中国人が多いが、田舎には全くいない。珍しがられてタオが学校のスターになってしまうほど。アフリカ人はどこでもいる)が作った、クレープもどき(ホントに程遠い)を平気で買って食べてくれるのだ。フランス人はアジア人の区別ができないから、春巻きの屋台をよく出すベトナム人がクレープを作ってるとでも思ったのだろうか。しかも多少穴あきだろうとフランス人たちは嫌な顔せず買っていく。 たった一人、「こんな小さいの、クレープじゃないわ!」といちゃもんをつけてきたおばさんがいた。それを父ちゃんが「マダム、では鉄板の前へどうぞ」と誘うと野次馬が集まり、はやしたてる。おばさん、実際にやってみて、穴あきぐちゃぐちゃを焼いて恥をかいた。 私は赤ん坊を片手にクレープを焼き続けた。タオも面白がって長いこと手伝ってくれた。それを、前に置かれたテーブル席で、ワインを飲みながら30分くらいじーっと見ていたおじいさんが立ち上がり、買いに来てくれた。てんてこまいになっている姿をどう思ったのか知らないが、どんどん人がやってくる。あっという間にチョコレート味、売り切れ。 ・・・フランス人は植民地国のせいなのか、チョコレートが大好きだ。どんな集まりでも手作りのガトーショコラを誰かが必ず持ってくる。食後のコーヒー+チョコレート。学校帰りにはフランスパンにべったり塗ったチョコレートクリーム、または板チョコをはさむ。続いてシロップもみんなたくさんかけたがる。砂糖を一面に振ったクレープも大人気。なんでこんなに甘い物好きなの?!(だからみんな太ってるんじゃないの?) その日、200ユーロくらい売れてへとへとになった時点で私たちは店を開放した。つまり、「あとはお金取らないから、焼きたい人がやってちょうだい」と。すると、プユルの仲間をはじめ、たくさんの人が残ったタネを全部使い果たした。みんな一度は大きな鉄板でクレープ屋さんごっこをしてみたかったとか。 さて、このフェスティバルで私が目玉だと思ったのは食べ物ではなく、ガソリン不要の、水をエンジンに走る車が展示されていたこと。隅っこに置かれた、おんぼろの車体だが、みんなの見ている前でちゃんとエンジンがかかる。が、現在の法律ではこの車は車道を走ることができない。その裏にはガソリンで儲ける一部の人間と権力者側の利権が見え隠れする。 このエンジン普及のためには、市民にもっと知ってもらい、法改正のための署名活動などが必要なのだとエンジニアが皆に訴える。見に来る人に、製作者はボンネットを開けて丁寧に構造を説明していた。ブラジルはエタノールで走る車が普及していて、サンパウロの車の半数はエタノール・カーだとか。ブラジルで隣に住んでたジオゴもエタノール・カーに乗っていた。 この車を見たとき、豆料理に出会ったときのように、行き詰まった社会に風穴を開けるような期待感でわくわくしたが、実用化に向けて一般市民が行政に声をあげねば変わらないこと、知りたい情報はテレビやショッピングセンター内でなく、こんな機会でないとめぐってこないことを痛感した。一年後これを書いてると、政府がこの車を実用化に向けて動き始めたと聞いた。 一人一台車がなければ学校や店、仕事場、どこにも行けないフランスの田舎で、将来ガソリン不要となれば浮いたお金を何に使うだろう?食べるの大好きな人たちに、今度はハモスサンドイッチや小豆味のクレープでも売り出して聞いてみようかしらん。 |
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