フランスパン・きのこ [2006/07]
| フランスパン ブラジルからフランスにやってきた去年の6月半ば、フランスは雨がまったく降らない異常気象とのことだった。みずみずしい緑豊かなブラジル、雨続きのフロリパからやってくると、どこも不毛の地に見えた。移動前後の土地の気温の差はないが、しばらくは乾燥が体にこたえた。 毎日のフランスパンがおいしくなかった。始めは赤ん坊にお乳をやっているせいで、水分の多いものしかおいしく感じないのかと思ったが、それだけではなさそうだった。朝パン屋からフランスパンを買って持ち帰ってくる間にもうからからに乾いている。(ほとんどのパン屋でパンを入れる袋をくれない。だからぶらぶら手に提げて歩く。)食べきれずに残った分は夕方には石のように硬くなり、フランス人はそれを犬やロバにあげるのだが、彼らすら食べないほど。 近所のオーガニックのパンはかちかちで、こんなパンは日本で買う人は誰もいないなあと思うほどひどいものだった。食べると口の中が切れる。 一度だけ、すばらしくおいしいパンに出会った。それは友人の家へ遊びにブルターニュ地方へ旅したとき、「日本人がパンを作っているらしい」と友人のご両親がわざわざ連れて行ってくれた。ゆかりさんという日本人の女性がご主人と二人で作るオーガニックのパン、おそらくカンパーニュは適度に軽くてしっとりとしていて、後にも先にもそのようなパンにめぐり合わなかった。毎年口コミで日本人がパン作りを習いにやってくるそうで、その時も数週後に京都のパン屋さんが訪れると話していた。話しながらも手を休めず、常に動き続けるゆかりさんとご主人の姿には流れるような動作の美しさがあり、大変印象的だった。頂いたパンは帰ってすぐ、みんなで一つ全部食べてしまった。 フランスパンをおいしいと感じられるようになったのは8月の満月を境に、雨が降り始めてからだろうか。満月のころになると雨が降り、がたんと冷え込む。誰しもが冬の気配を感じ始め、9月なのにセーターを引っ張り出してくるころ、パンとチーズとワインの組み合わせがなじんできた。 それまでの私は種が乾燥して休眠状態にあるように、体の中で機能している範囲がとても少なかったようだった。長旅の疲れのせいも、出産後間もないことも関係するだろうが、乾きが好奇心とか興味や気力を失わせたようだった。逆にカナダからブラジルへ移動したときの体の開放感は、体の中の自由な動きや軽やかさを沸き起こしたが、それは寒いところから暑いところだけでなく、乾きから潤いのある地への移動によって生まれた理由が大きいと思う。 雨続きのフランスの冬は雨雲がうっとおしいけれど、乾いて北風が厳しい日本の冬より過ごしやすく感じた。もちろんパンも暑くなってきた春より寒いときはよく食べた。その土地の食べ物がおいしい・まずいではなく、普通に食べられるようになるには時間がかかる。豆料理も同じではないだろうか。私の場合、日本にいたとき皮付きのレンズマメは体に合わなかったのだが、この数年で、特にフランスではよく食べるようになった。パンによく合うせいかもしれない。 近くの村にインドネシア人が住んでいたそうだが、彼らは乾燥に耐えかね、フランスに住むのをあきらめてインドネシアに帰国したと聞いた。 きのこ 水汲みに通る道でアンパンのような色形のきのこ・・・ボレ・サタンを見つけて以来、きのこ探しに夢中になった。近くの森へ乳母車を押して歩いていくと、静かな森の中で気配を感じる。ふっとそちらに目をやると、そこには昨日までいなかったはずのきのこが顔を出している。ランや野生植物を見つけるときも同じで、研究者たちには怪しまれるから口に出したことはなかったが、私ときのこを結ぶ何かがある・・・雑踏で振り向くと、遠くから誰かがこちらを見ていたときのような。これを感じとらなければ見つけられない。私は植物の気配には自信があっても、走り去る動物や鳥はてんでだめ。 去年の秋は夏の乾燥のせいで、今までで最低のきのこしかなかったそうだが、子供たちにはテレビに勝るほど十分楽しめた。学校がないと「今日はあっちの道へ行こう!」と大喜びで駆け出していく。乳母車を押して追いかけていくと、「見て!こんな大きなボレだ!」と前回収穫のなかった場所でどっさりとれる。食べられるから楽しいだけではない、毎回たくさんの種類を、変化するのを見つけるからだ。 満月に差し掛かるころになると、急にわーっと出現する。それをきのこ村とか、輪になって生えているのをきのこの集会などと呼ぶ。新月になるともうそこには何も残らない。 知識のない私たちでも絶対見分けられる、採って食べたきのこを数えてみたら、その秋10数種類。大抵はよく炒めて塩コショウだけ。植物は日本とヨーロッパで似ているものがかなりあるが、きのこはどうだろう。オレンジ色の大変美しいタマゴダケやそれにそっくりの猛毒のきのこはフランスでも同じ。きくらげの仲間もある。でも、フランスの森にたくさん生えているアンパンやどら焼きのような色形、大きさのボレやセプは日本にないと思う。ケベックにはあった。食感も日本に似たものがない。パリやボルドーの市場では大変な値段がついているが、半分いたんでいる。 ある日、泉に水を汲みに出かけたとき、明るい野原で直径が30cm前後もある、白い雨傘のようなきのこがたくさん生えているのを見つけた。「クルメル!」若くて傘が閉じているときはお母さんのおっぱいのような色形。それが傘を広げるまで成長すると見事だ。大きいから食べでがある。ばふばふした、カマンベールチーズの外側のような感じ・・・タオはきのこ図鑑を暗記するほど眺めていた。専門用語を知らなくても、子供たちはよく観察している。「ほら、ここんところがスポンジみたいで、切ったら青くないの。だからこれは食べてもいいけど、あっちのは違うでしょ。みんな毒だよ!」 以前中沢新一の文章で、子供の分類好きがポケモンのカード集めをはやらせたことを読んだことがあった。フランスでもみんなたくさん集めているが、ある日もういらない!と大きい子がぽいっと何十枚も小さな子供たちにあげてしまう。タオもそれを学校でもらってきて喜んでいたが、しばらくするとその辺に落ちている。飽きてしまったようだ。 きのこはその時期しか見られないからだろうか、絶対飽きない。春になってまたきのこが出てくると、うきうきして自転車を飛ばして出かけていく。「春一番のきのこだって本に書いてあったのを見つけたよ!毒だけどね!」 |
ワイン [2006/06]
| 家の周りは森、ワイン畑、お城、また森、ワイン畑、古いお城の繰り返し。ワインの貿易で栄えた貴族や商人のお城が何千と残る。その周りを取り囲む畑のブドウは幹を1m以下に刈り込まれ、年に何度も剪定され、大きな実をつけるため数本の枝を残して後は全部切られる。そんな切ったこぶだらけの幹が数十cm〜1mおきにびっしりと植えられ、木と木の間には針金が渡り、枝をそこへ結びつける。車で走るとどこまでも続く、管理されつくした、この背丈の小さいブドウの木の姿を見ると、胸が苦しくなる。ブドウが栽培される前の遠い昔はここにどんな植物が生えていたのだろう・・・。 8月の終わりから2,3ヶ月の短い期間にブドウが収穫される。その時期だけの仕事に様々な人が集まる。世界的に有名なソテアン・ワインの畑へ、収穫最中に訪れた。特別甘いワインを造るため、実が熟してつぶれ、いたみ始めたものだけ収穫するようにとボスの説明が終わると、ワーカーたちが一斉に畑に散らばっていく。 ブドウを鋏で切ってはプラスチックの、長方形のかごに入れる。大きな取っ手の着いた長さ60cmほどのかごは、フランスで様々な野菜の収穫に使われる、大変便利なもの。もともとは植物で作られていたのだろう、同じような形で木の枝で編まれたかごは、一品持ち寄りパーティの時、ワインやパン、皿に入ったケーキ、サラダなどを運ぶのに今も使われている。 急いで取らないと、なんていう割には、みんなおしゃべりしたり、タバコを吸いながら(私の目には)のんびり作業している。彼らの笑いながら働く姿は生き生きしてて、忘れられない。全員が一列の畑を収穫し終えると、大型トラックがやってきてかごいっぱいのブドウを集め、すぐに圧縮機に運ばれる。ブドウについたカビの力でアルコールを作るから、洗わない。また隣の畑、向こうの畑・・・とくまなく移動して、いたんだものだけ取る。「こっちはもう6回もまわってるよ!」というくらい、ブドウがいたんでくるのを待ち続ける。でも雨が降ってしまったらもうだめ、収穫が天候によって左右される。 2,30人くらいが毎日一緒に働く。年齢は10代後半〜60代まで様々。夫婦で毎年やってくるおじさん、おばさんもいれば、季節ごとに様々な野菜や果物の収穫を手伝いながら旅を続ける若者グループもいる。遠くから働きに来ている人は古いお城で寝泊りしたり、畑の近くにテントやキャンピングカーで生活する。 この、短期の仕事をする人たちは皆共通して「知らない人に出会えるでしょう。いろんな年代の、違った人たちと友達になれるから楽しい。」という。遠い町で、繁華街で、ばったり昔ワイン畑で一緒に働いた人と再会して、家に食事に呼ばれたとか、別な仕事を紹介してもらったとかそんな話が尽きない。 ある晩、ソテアンで知り合った、キャンプ生活の若者10人が家にやってきた。ありあわせの、豆スープと、チキンビリヤ二、サラダ、その程度の食事だったが、皆「暖かい食べ物を食べたのは3ヶ月ぶり」と喜んでくれた。ヒッピー風の外見のせいか、誰も彼らを招いてくれなかったそうだ。あちこちの畑で稼いだ後は、大型バスを買ってアジアへ旅に出る者、南米一周を考えている者・・・彼らは仕事がないこと、政府の若者に対する政策の不満を語っていた。私たちは初めての旅に出ようとする彼らに、旅を通して外の社会を知ることの大切さを話した。 家にはめったに買い置きのワインなどないのだが、ある日有機ワイン5リットルを仕事場から持ち帰ると、とたんに電話がなった。「今から遊びに行ってもいい?」別な電話は「モロッコ帰りの途中なんだけど、寄っていいかな」別々の場所から3組、10人以上も友達が子供連れでやってきて、瞬く間にワインがなくなった。電球に蛾が群がるように、フランス人の血にはワインに引寄せられ、集まってくる磁石のようなものが備わっているに違いない。彼らにとってワインはどちらかというと食事とともに、一人でなく大勢でおしゃべりしながら飲むもののように見える。 田舎にはバーがあっても、日本の居酒屋のようなものがない。飲むのは決まって誰かのうちか、お祭り、村のホールのダンスや音楽の集まりのときで、必ず食べ物を持ち寄り。お金がかからない。子供がいるから飲みに出かけられない、なんてことにならない。もちろん、子供と一緒に車で帰るから(飲酒運転の取締りをほとんど見ない!)酔いつぶれるまで飲まないし、大人が話に夢中になってる間、広いところで子供も駆け回って遊んでいる。 タオの学校のフォークダンスの集まりで、よその学校に出かけたことがあった。そのときもお昼ご飯は持ち寄りだったが、訪れた学校の先生が「今日はソテアンワインを用意しましたよー!午後も踊ってくださいね!」というと、一同がどよめき、雰囲気が一変した。何度学校の先生たち、父ちゃん母ちゃんたちと踊って飲んだことか・・・。 収穫が終わったある日、労働者全員がソテアンに招かれ、たくさんのワインと食事が振舞われた。大抵の畑は収穫の最終日にワインを飲み、後日パーティがある。そこで老若男女一同そろって深夜まで飲み食べ続けるそうだ。そんな集まりがあるからこそ、フレンチ・コネクションと呼ばれる、年代を超えた友人のつてで、アパートの斡旋や中古車を譲ってもらったり、旅先で泊めてもらったりといった助け合いが可能なのだろう。 フランスのテレビで、日本のソムリエたちがやって来て寿司に合う、ドライな白ワインを探すためのテイスティングを放映していた。真剣な顔つき(でも目が死んでいた)で、 金儲けに奔走する彼らの姿はこっちの人とまるで違う様子、何だか滑稽な感じだった。 日本では彼らとマスコミが創りだす、ワインブームと高価なイメージがワインに付きまとう。ワインの飲み方の違い・・・日本で、高級フランス料理店や会社帰りに飲む一杯と、フランスで家庭に多くの友人を招いたり、肉体労働の後、皆で空けるボトルと。ワインを飲むとき、その、味わい方の違いをふと考えてしまう。 |
|||
アルテサオンと日系人 [2006/05]
| フロリパで知り合った日本人に誘われ、週末のフェイラ(青空市といったらいいのか)を手伝いに出かけた。フロリパには毎日どこかで露店が並ぶ。セントロの広場では農産物のフェイラ、教会の前では日用品のフェイラ。そして週末になるとセントロの店は全部閉まり、島のあちこちでアルテサオン、手工芸品のフェイラが開かれる。 彼女は折り紙で作ったしおりや窓にくっつけられるアクセサリーを売っていたが、それにお客さんの名前を日本語で書いていた。その日は日本語を話せない日系人と彼の発音と記憶を頼りに、「たしかこっちの漢字を使ってたような・・・」なんてやりとりをしていた。 そこで売られていたもの・・・石鹸、ろうそく、ドールハウス、ドライフラワー、衣類、ジャムやパンなどすべて手作り。隣には日系人が和紙で人形や箱を作って売っていたが、どれも皆なかなかの出来栄え。 その日彼女は全然売れなかったが、別の日に大きなショッピングセンターの中で開かれた日本のアニメフェスティバルで書道のワークショップをしたら、大盛況だったそう。 ラゴア、干潟の周りでは日曜になるとアルテサオンの大きなフェイラがあり、こちらは島中のアーティストの作品とでもいうべきか、一日中いてもきっと飽きないほど、見ごたえがある。革製品、ガラス、陶器、かご、インテリア小物、洗練されたデザインで、すべて日々の生活に使えるものばかり。プレゼントに最適で、クリスマスなどよく売れる。 ハンモックや椅子なども手作りで、修理もしている。セントロの公衆市場にはアルテサオンのための材料店が軒を並べ、小さな島の中で何でも手に入る。また島の人たちは廃材を拾い集めては家を建てたり何かに作り変える。友人のフェイラを手伝っている間にも、近くのゴミ箱に捨てられた大きなベニヤ板数枚を、蟻が獲物を巣に運ぶように、すたすたと持ち帰っていく人を見た。 インカのデザインを模したジュエリーや、アマゾンの様々な植物の種を使ったアクセサリーは南米中を旅する人たちが作りながら売っている。じゃらじゃらした、かなり大きなものだが、ラテンの人たちはよく好んで身につける。旅人は布を張った木枠などに作品をたくさん飾り、それを持ってバスに乗ってきたり、移動先で寅さんのように店を始めたり、家に遊びにきたりする。うちにはこんな旅行者や近所に住む、アルテサオンで生計を立てている人がよくやってきた。 ほかにも蜂蜜売り、パン屋さん、八百屋、魚屋などがうちに来たけれど、すでに出来上がったものを単に配送する人ではなくて、自家用に作って余ったものや、休みの日などに好きで作っては持ち歩いて物々交換しているような人たちばかりで、大抵うちに上がりこんではお茶を飲み、おしゃべりして帰っていく。・・・あれ、どこかのお豆屋さんのよう。 そして彼らの持ってくるものはできたてで本当においしかったり、新鮮だから、また次にやってきてくれるのが楽しみなのだ。マヌエラとナターリャも週末にラゴアでパンを作って売っていたし、ジオゴは大学で勉強しながら高校で授業を教えているが、同時にエコ・ビレッジで蜂を飼って蜂蜜を作っていた。ブラジルでは普通の人が物を(特に食べ物)売るのに保健所の許可とか、政府に書類を出すとか面倒なことなく何かを始められる。 セントロの教会前では現金収入のほとんどない、ワラニー族と呼ばれる、インディオの母親と子供たちがござに座って木彫りの動物や鳥の羽と数珠だまの首飾り、手編みのかごを売っていた。彼らは靴をはくことを拒み、いつもはだしでいる。その向かいには中国で大量生産された雑貨を安く売る店、大型の電化製品店などが並ぶ。市場経済から取り残された人たちが、ほこりにまみれて一日中そこに佇んでいるのを見ると、何だか無言で世の中を皮肉っているかのようだった。彼らはめったに言葉を話さず、専らテレパシーでコミュニケーションするとヴィヴィアナから聞いたが、日本人だって気を通して余計なことを話さない。大量生産された製品は壊れたらすぐ捨てられてしまうが、ワラニーのアルテサオンには動物の表情が感じられ、いつまでもとっておきたくなる。 サンパウロのリベルダージ地区にある世界最大の日本人街。ブラジル産の日本のものを見るのがおもしろい・・・味噌や豆腐はもちろん、しめじやしいたけ、夏みかんなど農産物、玄米、にぼし、せんべい、まんじゅう、そばもこちらで生産されていて、味がちょっと日本と違うけど、ちくわやさつまあげは無添加でおいしい。コンビニのようなお弁当もたくさん売られていたが、これは暑い中いたまないようにか、味付けがかなり濃かった。 畳、風呂、陶器も日系人が作っている。日本語の新聞・本もある。日本で生産されたもの、特に加工食品が輸入されているが、日本の値段の3倍くらいした。 そこの日曜市には焼きそばや天ぷらといった日本食の屋台のほか、着物や下駄、竹細工,箸などがあった。どれもお土産用ではなくて、普段使うためのもので、日系人の手でしっかりと作られていて美しい。 フロリパでは日系人からお椀や竹のしゃもじを頂き今でも使っている。モンテ・フジという日本雑貨店を商うおばさんから、家庭菜園で取れた、ゴーヤや春菊、にら、青梗菜の種をもらいフランスで播いた。日本とフロリパを結ぶ協会の会長、新里さんは赤ん坊にと童謡のCDをくれたが、なつかしいを通り越して、私の知らない古い歌さえいくつか入っていた。彼の子供たちもこれを聞いて育ったそう。 1926年に新里さんの祖父母が沖縄から移住されたそうで、彼はフロリパで眼鏡屋さんをしている。彼は日本語が話せず、私はポルトガル語ができないので英語の会話になる。私の眼鏡がこわれたときとサングラスを買うときお世話になったが、「はっはー、ヒロコの鼻の低さじゃあっちの棚のデザインはだめだね。あれはブラジル人向き。日系人はみんな同じ問題を抱えてるからね、ほら、鼻の低い人のはこれこれ」とおそろいのデザインを勧められ、てきぱきと調整してくれた。 奥さんのカルメンはイタリア系ブラジル人なのに毎日ご飯と味噌汁を必ず作る。パーティのときも炊飯器をもってきたり、もやしとゴーヤのチャンプルーをごちそうしてくれた。ブラジルに住む日本人は「こっちにはマーボー豆腐の素とかカレールーみたいな加工食品がないから、毎日同じ味付けになりがち」と笑ってたが、お手軽な味付けがなければ、乾物やだしを駆使した、昔の手段となる。ひょっとしたら、今の若い日本人より、ブラジルの日系人のほうが、昔の日本的な生活をしているのでは? 私が会った日系人たちは、日本語が話せなくても笑顔で声をかけてくる人たちばかりで、斜に構えたり、しらんぷりするような人に全く会わなかった。スーパーや浜辺でみかけても「もしかして」とお互いあいさつし、会話が弾む。新里さん夫婦は赤ん坊の書類やタオの学校に必要なことなど、領事館の人たちを紹介して助けてくれた。地球の反対側で、一方は経済大国になり、他方は経済混乱が収まらないけれども、その間に人々が得たもの、失ったものの違いが人間を大きく変えてしまったことに驚いた。 ブラジルに長期滞在していたある日本人は日系人に対して、「彼らはお金持ちの日本人がうらやましいし興味があるから近寄ってくるけど、妬みもあるから彼らの輪には入れてくれない」という。何でも一概に言えないと思うし、私は短い間フロリパにいただけだからよくわからない。日系人の大変だった移住の歴史のこともわずかしか知らない。だけど、今の日本との違いが現れている気がするのは日系人のアルテサオン。 マヌエラのうちの米びつには大きく日本語で健康と書かれていた。となりには平和という文字も。よく西洋人が神風とか書いてある、お土産のTシャツを着てたりするが、そういうのりではなくて、すっきりしたデザインに墨で調和、幸福、成功、友情、富、和、愛など書かれていて、その下に小さくポルトガル語の意味が添えられている。それをブラジルの人たちがよく使っている。近所のパン屋には日系人が描いた、平和の文字をモチーフにした絵が飾ってあった。私もそういうデザインのシャワーカーテンを買った。タオには大吉と書かれたパジャマ。 ちょうど私が日本を出るころ、子供服には迷彩色に英語でアーミー云々とか、戦いがどうとか書かれているものがよく売られていたのを思い出した。そのときはこんなの子供に着せたくないなと思う程度だった。が、ブラジルで「平和」と書かれたTシャツを見たとき、何だか気恥ずかしい感じがしたと同時に、後で日本ではファッションを通して誰かがイラク戦争を後押ししているように思えた。 前の夫が数年前ネパールに帰るとき、日本の職場で友人から迷彩色のパーカーをもらった。それだけは勘弁といった感じで、「ネパールでこれを着て歩いたらマオイストに殺されるよ。日本人は戦争のこと、何にもわかってないんだから」とあきれていた。 ダライラマ法王が両国国技館で来日講演されたとき、「この中におられる方たちで、マスコミに関わる人たちがいらっしゃったらお願いしたいことがあります。それは事件や事故といったネガティブなことばかりでなく、平和について語ること、たとえ小さなポジティブな活動に対しても報道してほしいのです」と聴衆に訴えていたことを思い出す。テレビをつければ戦争のニュースや殺人ドラマに圧倒され、新聞を広げれば残虐な事件の文字が目に飛び込んでくる中で、無気力感に陥らないよう、平和な思いを行動に結びつけるための重要な提案だった。 ちまたにあふれる、単なる言葉の違いだけど、言霊の持つ影響力は大きいかもしれない。潜在意識に取り込まれて私たちは知らず知らずのうちに動かされているのかもしれないのだから。ブラジルのように普段の会話の中に自然と、愛がどうこうとか平和について話し合ったりする空気があるのは居心地がよい。 ある日新里さんの眼鏡屋に出かけ、帰り際バスの時間のため走り去ろうとした時、報告し忘れたことを思い出した。振り向いて新里さんに「そうだ、やっと永住ビザが取れたの」と言うと、「ええっ、本当?」と新里さんが走り寄ってきて、横断歩道のど真ん中で「よかったねえ。おめでとう!」とぎゅーっと抱きしめてくれた。いつもは「これ日本人のあいさつ」とふざけて斜め45度のお辞儀なのに、とっさに新里さんが喜んでくれたストレートな感情表現は、彼の奥さんが言うように、外見が日本人でも中身はブラジレイロなんだと感じた。その仲間に入れてくれたようで、誰からよりもうれしかった。そしてその気質が日系人特有のアルテサオンを生んだ気がした。 |
ブラジルの自然分娩事情 2 [2006/04]
| 出産予定日が近づいても私の赤ん坊が生まれる気配がなかった。一方となりにすむマヌエラも自然分娩の予定でいたが、腎臓が片側しかないため、日がたつにつれ血圧が異常に高騰し、脳に障害が起きるかもしれないほどの値になった。これ以上待てないと判断した医師が予定日より一月早く帝王切開することを決めた。その日の朝私たちは互いのお腹を向かい合わせにくっつけ、陽に当てて写真を撮った。 マヌエラは無事出産し、数日後様々なチェックを通り抜けて病院から戻ってきた。普通ブラジルでは生んだ翌日には退院してしまうらしい。彼女の夫ジオゴは家中の大掃除を始めた。彼はいつも動いていないと落ち着かないタイプで、赤ん坊が家に到着してから大きな音をたてて靴箱を外に運び出したりするのだった・・・。 帰ってくると「こんなに縫われたのよ!」と痛々しいお腹を見せてくれた。病院では日本と同様、赤ちゃんを別の部屋に寝かせ、おっぱいの時間だけ看護婦がお母さんのところへ運ぶそうだが、マヌエラは熱心に自然分娩の勉強会に通っていたから、「そんなことしてたらおっぱいが止まっちゃうじゃないの。気違いのように私の赤ん坊を返せー!ってわめいて取り返したわ。だからずっと赤ちゃんと一緒に寝ていられたの。」。彼女の意思を押し通す力にはまいってしまう。自然なお産ができなかったことは残念だったけれど、腎臓が片側しかなくても精一杯のことを尽くした彼女の強さにみんなが感心し、祝福した。 私は疲れたマヌエラの代わりに赤ん坊を抱っこして寝かせたり、日本の産婆から習った、蒸しタオルをおっぱいにのせて、張ったお乳をマッサージしたりしながら自分の赤ん坊はいつ生まれるんだかと思った。 年が明け、私はペドロンのいる保健所へ向かった。バスを降り、日本へ送る小包を郵便局へ出そうと歩き出したら、右股関節がカキンと音をたて外れたようになった。郵便局へ這うようにしてたどり着くと、私を見て仰天したおばあちゃんが優先カウンターへ引っ張っていってくれ、何とか小包を出し、よたよたと保健所へ向かった。 予定日を2週間過ぎても生まれないのを待てないペドロンは「何かあったら責任をとれない」と島の大学病院宛に紹介状を書き、明日エコグラフィーその他チェックするよう告げた(それまで1度も調べていなかった)。 ヴィヴィアナはペドロンに彼女の3番目の子供ユリが42週と2日たって生まれたことを話したが取り合わなかった。 「老後のために保健所で働くうちにペドロンはすっかり変わってしまった。昔の彼なら機械に頼らず、妊婦と自分の見た感じで待つことができたのに・・・」とヴィヴィアナは嘆いた。「週で数えるより、受胎した時の月相の日に生まれる場合が多いのは彼も知っているはずなのに」とカレンダーを見ると翌日が1月分すぎたその日に当たっていた。 病気や怪我の経過を社会は待ってくれない・・・「もしものことを考えて」の脅し文句で、子供のころから私は風邪を引くと、抗生物質を何度も飲まされ、背骨が硬直し、体が不自由になったのを思い出す。症状を抑えただけで治ったわけではないのだから。自分のせいで彼らに迷惑をかけられないために、従わざるをえない私は少し悲しくなった。 翌朝大学病院へ向かおうと支度をしていると破水した。ヴィヴィアナに電話すると、様子をみようとこっちへ来てくれることになった。 島の南から私の住む北まで60kmを走って彼女が到着するころには陣痛が頻繁に起きていた。でも、なぜ日本語は「痛い」という文字で表現するのだろうか?英語もlabor painだ。痛い。ポルトガル語やフランス語で言うコントラクション、収縮という言葉のほうが体の感覚にあてはまる。前の日にコントラクションがあるかペドロンたちに聞かれても「うーん、あるような、ないような・・・」と答えてしまったのは収縮が起きても痛みとして感じなかったからだ。 お腹が動き出して自然に大便をするように、動きの流れに乗って赤ん坊は生まれる。それを、陣痛がはじまって20時間も経って生まれないと医者や周りが騒ぐのは、明るい人前で仰向けになり、大便がでるかやってみてからにしてもらいたい。世間でまことしやかにいわれることと現実に大きな隔たりがあるからこそ、ラテンの女たちが自分の経験を人に伝えるように、私も書く気になった。痛みとして感じるころでも洗い物をしたり、普段と変わらぬことができるのだから。 ヴィヴィアナはやっと自分の出番が来たと、戦に勝った将軍のような輝きを放って到着した。一人で来るといっていたのに夫のフェルナンドと下の男の子ユリを連れて。「お産に集中したいから車を運転してきてくれたの。それに(女のいうことに耳を貸さない)ジョンルックの話し相手になるんじゃないかと思って」そう、パニックになってクリスマスから飲んだくれていた私のパートナーを落ち着かせてくれた上に、「暇だからやることない?」と素晴らしい網戸を作ってくれた。蚊の猛攻撃に耐えかね、数日前自分で作ろうとセントロで買い集めた材料で。おまけに残った網でへその緒乾燥箱までプレゼントしてくれた。 前にナターリャたちに「日本ではへその緒をとっとくの。重病の時に飲むと治るとかいわれてて」と話したら、「えーっ、日本人もするの?!パラグアイの先住民族と同じだよ!」と爆笑されたのを覚えていて作ってくれたのだが、どのくらいとっておくか、説明しなかったために、私が起き上がってその箱が吊るされているのを見つけたときには、へその緒が30cm以上も干物にされていたのだった・・・。 ヴィヴィアナの下の子ユリはお産の間、タオの遊び相手になってくれていた。外で生まれたばかりの子犬を拾ってきて世話をしていたそうだが、赤ん坊の代わりを見つけたように思えた。彼らは大人たちが赤ん坊に夢中になっている間、家の前の通りに車のスピードを落とすための土砂の山を横に1列作ってしまっていた!「だって赤ちゃんが車の音で寝られないじゃないか!」 赤ん坊はヴィヴィアナと「へその緒を切るはさみと釣り糸はここ」とかおしゃべりしながら、私が動けなくなってきて10分くらいで生まれた。その間、体に触れるものの好き嫌いがものすごくはっきりした。準備しておいた、床に敷いたビニールシートが不快で、痛みの中それをよけたり、いきみがきたとき、しがみついた彼のポケットのライターや財布をとってもらった。生んだ日は服を着たくなくて、薄布をかけて横になった。このときほど畳の上で寝たいなと思ったことはなかった。 ヴィヴィアナが「赤ん坊の感覚でいるのかもね。お腹の中で誰も服を着ていないでしょう。」彼女が前に見せてくれたビデオでも、妊婦たちは皆、産む前後、服を着ていなかった。暑いせいだけでなく、生まれてきて何もかもいきなり変わるショックは大きいと、ヴィヴィアナは生まれたばかりの赤ん坊にすぐ服を着せようとせず、やわらかいおしめをかけた。 タオとユリは恐る恐る赤ん坊を遠くから眺めていたが、近くによって抱っこしてごらんと2人を誘うと、大事なものを扱う慎重な手つきで撫でながら、ほーっと安心した。それから2人とも急にお兄ちゃんに変身してしまった。みんなに何度も寝床に飲み水を運んでもらったのだが、買ったミネラルウォーターより、子供たちが泥んこの手で運んできた山の沸き水がすばらしくおいしかった。 翌日誰かが冷蔵庫にしまった胎盤をヴィヴィアナが見つけ、慌てて「早く土に返さないと!」と男たちが裏山へ埋めに行った。その間初めて私と赤ん坊はぐっすりと眠った。「そりゃそうよ、今までつながっていた体の一部が冷蔵庫なんかで冷やされていたら落ち着かないわ。インディオたちは胎盤を土に返すまでお産が終わったといわないのよ。」 産前毎日散歩した裏山には馬が放し飼いにされ、見晴らしがよい。奇妙なことに、モアイ像の形をした大きな岩がたっていた。遠くの山々にも点々と同じものが見える。しかもこのフロリアノポリスとチリのイースター島はほぼ同緯度上にある。ブラジル人はフロリパのことを魔法にかけられた島と呼ぶ。それを知る前から、この島に来て不思議なことが起こりっぱなしだった。男たち・・・タオやユリも手伝って、その岩の脇に胎盤を埋めた。マヌエラもジオゴが病院から胎盤をもらってきて裏山に埋めた。 私にとって自然分娩はそれまで自分の体を変えるチャンスだと捉えていた。小さいころから眼鏡とコンタクトレンズを使いっぱなしで、毎朝ひどい吐き気とめまいですっきり起きられたことがなく、いつも体の不調だらけ、夜は冷えで何時間も寝られなかった。いつも医者には「大人になるころには失明するかも」といわれ続けているほど目が悪かったのに、お産を経過して、今では眼鏡がなくても自転車に乗れるほどになった。 またヒマラヤでチフスとMRSAを患った時、「抗生物質がもう効かない」と、自分自身の自然治癒力を高めなければ助からないといわれ、瞑想して治ったのがきっかけで野口整体と出会い、活元運動を通したお産で体も心もがらっと変わった。それまでの体の不調と比べたらお産の痛みなんて何ともない。それよりこんな機会を逃してしまうなんてもったいないと思っていたら、それは自分だけでなく、パートナーや子供たち、周りみんなも共有できるんだと今回ラテンの人たちに学んだ。 自然分娩はパートナーに支えられ、家族みんなが共有する大きな経験だとヴィヴィアナ夫婦は語る。「アルゼンチンでフェルナンドはヘロイン中毒だったの。まあ、軍事政権に反発する若者たちは大抵地下に潜ってドラッグをやっていたけれど。その上彼は妊娠中にスペインへ旅に行ってしまって、私は一人で産み育てなければって覚悟したんだから。」そんな彼がすっかりドラッグを止めて大工として働き、ジャングルに彼が建てた家でパンやケーキを毎日作るように変わったのはお産の手伝いをしたからだという。「男は体の変化なくして父親にならなきゃいけないんだから、その時を逃したら難しいよ。」とフェルナンド。 だからヴィヴィアナが家族みんなで私たち家族を応援してくれ、ほかの人たちも支えてくれたのだ。確かにお産の最中、一人になりたい時間もあるし、こちらの思いがちゃんと伝わらないこともある。でも、すべて病院にお任せにしたくないのには、世間であまり知られていない、ひょっとすると未来を変えるかもしれない秘密があるからだ。 |
ブラジルの自然分娩事情 1 [2006/03]
| ブラジルに来て友人の紹介で出会った助産師のペドロン。50代くらいの彼はトライアスロン競技も現役でこなす、がっしりとした大きな体格でいながら意外にも、妊婦や赤ん坊には優しくて穏やかな性格。自宅で鍼治療をするほか、島の保健所で妊婦や赤ん坊を診る。彼は毎週自宅でお産婆の集まりを開き、助産に興味のある人たちを指導したりしていたが、やがて妊婦も混じった集会となった。 ペドロンの家はフロリアノポリスの中心部から急な山を越えてラゴア(干潟)を通り抜け、再びジャングルの山道をうねうね走った途中にあった。妊婦にとってこの道はしんどかったが、車を降り、森の中を下って彼の集まりのある庭にくるとたくさんの木、手のひらほどの枯れ葉のような平たい鞘に包まれた、妊婦のお腹のような大きな卵型の種を落とす不思議な木が迎えてくれてとても心地よかった。 彼の集まりは広い庭に輪になって座る。中心に枯れ葉で火を焚き、最初にペドロンが自分の経験からお産にまつわる話を紹介し、その後トーキングスティックが回ってくると一人ひとり思うことを話す。集まりの間、時折ペドロンがサルビア(セージ)をいぶし、日本のお寺で線香の煙を体にかけるように、一人ひとり体の回りをセージの煙で満たした。 彼のところにはそのとき5人の妊婦を含め、10−20人くらいの人が来ていただろうか。ブラジル人だけでなく、自然分娩を望むフランス人やアメリカ人もいたので、ポルトガル語、英語、フランス語、スペイン語の入り混じった会話になる。カナダのマニウォーキーやレインボーギャザリングで開かれたネイティブアメリカンの集会のように。 ある集まりのとき、隣に住む妊婦のマヌエラが会話の途中に泣き出した。母親が彼女を身ごもったとき、母親が自分を生みたくなかったこと。そして自分は子宮が二つあり、腎臓が一つしかない奇形として生まれた理由がこのことから生じたのをリバーシングのセッションを通して知り、とても悲しかったが、自分が子供を生む番になって母親のことを受け入れ、理解できるようになったとうちあけた。周りの人たちは彼女の手を取り、静かに彼女の話を聴き、集会のあとみんながお互いに抱きしめあった。 どんなことでもみんなの前で洗いざらいうちあけられる場と、それを聞く仲間がいる集まりが私には興味深かった。そこにはペドロンのほかに妊婦のパートナーたちやリバーシングを専門に行う男性の姿もあった。たとえ言語が違っても、そこで交わされる感情表現や仲間の意見を通して生み出される波が、お互いに響きあう。そして話し終わったあと、そこには自分と他者の境界が外れたような一体感が生まれる。日本の、あらかじめ何を決めるかわかっていながら黙って座り、強い者の意見が押し通されていく会議や、つまらない自己紹介とは正反対なのだ。会話の中に、何を目的として話すのか、がなくて、その時、その場で自分が感じたこと、考えていることを自由に表現し、次の人がまた繋げていく。それが即興音楽のように漠とした流れを作る。あのときのマヌエラのように、話すことで自分の中の何かが変わり、別な動きが生まれる。 集まりの中に、ポルトガル語を英語に翻訳してくれたアルゼンチン人のヴィヴィアナがいた。彼女はペドロンと兄妹のような関係で、いつもペドロンの手伝いをしていた。お産婆を探していた私は英語が話せる彼女にお産を手伝ってもらうことに決めた。 集まりの後、ヴィヴィアナの誘いで彼女の家へ出かけた。彼女の家はペドロンのところから南へ30km先、島の最南端、舗装のない山道をがたごと走りり、1km近くある長い急な直線の坂道・・・まるで滑走路のような、スチュワーデスだった彼女がアクセルをべた踏みで走ると空に飛べそうな坂を登りきった、ジャングルの中にあった。 途中の山道で、イグアナのような、大きな爬虫類が前を横切った。それはしばらく道の真ん中で立ち止まって獲物を探しているようだったが、やがて脇の草むらへ静かに入っていった。彼女は今まで二三度しかこのイグアナのような生き物を見たことがないといった。私もそれっきり見ることがなかった。ネイティブインディアンにとって、それは夢を司る重要な生き物で、シャーマンはこの動物の動きに注目する。ヴィヴィアナはお産のためのよい兆しだと喜び、診察のため彼の家を訪れた時ペドロンに報告した。 彼らはシャーマンではないが、インディオの教えを学び、ペドロンはスウェットロッジのファイヤーキーパーを勤めている。保健所とは違い、彼の家に医療器具はほとんどなく、室内には鍼の経路図のほかにインディオの写真や装身具が飾られ、大きな海鳥の翼がおいてあった。病院特有の薬品のにおいの代わりにいつもいぶしたセージの煙が漂っていた。機械がすべてをチェックしている保健所で会う緊張した顔の彼より、自宅で好きなことを笑って話せるペドロンのほうが私は好きだった。簡単な診断のほかに、彼の見た私のお産のヴィジョンをヴィヴィアナと話し、すべてが上手くいっているからと告げた。 ヴィヴィアナは自宅で自然分娩のビデオを妊婦に紹介し、お産について話し合う。・・・彼女が36歳のとき、アルゼンチンで長女を出産した際、医者は立ち会ってビデオを撮影しながら赤ん坊を取り上げたり臍の緒を切ったりといったお産の手伝いをすべて夫にやらせた。医者は夫婦が彼に質問した時だけどうしたらよいか指示するのみで、産ませようとか、あれこれ干渉したりしなかった。彼はアルゼンチン一の自然分娩専門の医師だったが、軍事政権下、妊婦にも医師にも自由なお産が制限されてしまい、市民が自然分娩を守ろうと命がけで・・・中には殺されてしまった仲間の名前も挙がっている・・・彼といくつかのビデオを製作したそうだ。 その後ヴィヴィアナたちは自由を求めてブラジルへ渡り、お金がなかったせいもあるが夫婦だけで出産用プールを作り、二人子供を産んだ。そんな経験から彼女は自然分娩について知ってもらおうと、町で妊婦を見かけるとつい声をかけてしまうらしい。 彼女のお産ビデオはペドロンの目に留まり、彼はフロリパ中の保健所の屋根看板に彼女の赤ん坊が生まれ出てくる瞬間の映像を、2メートル以上の大きなポスターにして張り付けたことがあった。「このときばかりは彼を殺そうかと思ったくらいよ!」とヴィヴィアナ。「ポスターを見た酔っ払いどもが『あれはポルノグラフィーか?』って指差して保健所にニヤニヤたむろしてたんだから。」 こんな風にお産にまつわることがラテンの人たちはとってもオープンだ。女性だけでなくお産に興味があると男性も話を聞きにやってくる。マヌエラの家には自然分娩の瞬間をモチーフにしたきり絵が飾ってあったし、ヴィヴィアナは自分の出産ビデオを一般に公開するし。私の出産当日、彼女はペドロンたちが自然分娩会議の際に作った、いきむ妊婦をパートナーが支えるイラスト集のプリントされたTシャツ!を着て、にこにこしながらやってきた。彼女は妊婦と待ち合わせがあったりすると、そのTシャツをバスの運ちゃんにこれが目に入らぬかとばかりに、「私は今日生まれるかもしれない妊婦のところへ向かう産婆なのよ、急いで頂戴よ!!」とかみつくのだった・・・。 ペドロンに限らず、あちこちで妊婦の集まりがあった。そういうところで、経験のある女性がわかりやすくいろんな体験談を話してくれた。また、ラテンアメリカの自然分娩事情も知ることができた。「サンパウロの病院ではね、自然分娩っていう言葉は、旦那が別の部屋に招かれ、ビデオカメラで撮影されてる出産状況を鑑賞することなのよ!」 どこも日本同様、妊婦の側に立ったお産より、医師が主体の産ませる技術が先行している感があったが、そんな状況でもこうして女性のネットワークが妊婦にどんなお産を望むのか、一緒に考えようと働きかけていた。「ブラジル人はおせっかいだからね、陣痛が始まると勝手に家に上がりこんでくるから、お産の前に近所の人たちにどうして欲しいか、はっきり言っときなさいね。来て欲しくなかったら、『招かざるもの、入るべからず』って玄関に張り紙しとくのよ!」 細かな体験談は日本では祖母のほかには全然聞かなかった。日本の病院では出産間際に無痛分娩の通知書を手渡され、『土日は出産できないから、そういう方は金曜までに注射して産んでいただきますので』とか言われてしまうのとは大違いだ。どうして日本では(少なくとも私には)いらない情報ばかり先にやってきて、本当に自分が望むことがあたかも難しいことのように後回しにされてしまうのだろう?状況はフランスも同じで、痛みを恐れる多くの女性が病院側に言われるままになっている。フランスに来て私もヴィヴィアナのように妊婦を見かけると声をかけ、どんなお産を望むか話をするようになっていた。 一度、ペドロンを紹介してくれた同じ友人を通して産婦人科の看護婦として働く女性と話したことがあった。彼女は病院での出産前の手順を説明し、妊婦が痛みで暴れないよう(暴れませんよ!)、腕のない拘束服を着せた状態を、看護婦たちは「ヘゴヘゴ」と呼ぶのだと笑って言った。まるで、妊婦をイソップ物語にでてくる、お腹を膨らませたカエルのような扱いで。私は「じゃあ、あなたはヘゴヘゴで子供を産みたいか?」と聞くと静かになり、ノーと答えた。もちろん、彼女の病院の誘いははっきり断った。 いきみがきたとき、その瞬間、妊婦は眠たくなるとペドロンはいう。私も痛みを感じながらぼんやり夢を見ているような、暗闇の中にかすかな光を見つけ、それを捕まえようとしたとたんに赤ん坊が生まれた。魚が飛び跳ねるように。インディオたちはこれを妊婦がこの世の境界線を越え赤ん坊の魂を探しに行き、こちらの世界につれてくるのだという。だから産後、妊婦は境界線を行ったりきたりしやすいので十分な休養が必要なのだと。インディオたちにはそれぞれの部族で出産にまつわる様々な教えがあるようだ。 産むことにおいて私は自分に自信があって何にも不安がなかったが、産後過労で倒れたとき、私の周りで様々なことが起こった。臨死体験をし、目を覚ますとそこには数人のシャーマンとペドロンが駆け付け・・・私はペドロンやヴィヴィアナを通してそれらを垣間見れたのは貴重な経験だったのかもしれない。 |
ヘイ・カローナ! [2006/01]
| お産婆と妊婦の集まりに行った帰りのこと。2人のおなかの大きな妊婦さんが「カローナ(ヒッチハイク)して帰るから」と山道を下り一般道へ出て行った。2人とも大きなおなかを日に当てて。フロリアノポリスにはバスがあるけど数が少ないし、目的地まで何度も乗り換えたりしてやっかいなのだ。だけど妊婦さん、大丈夫かしら・・・。 エコ・ビレッジに住み始めたころ、同居人のナターリャとあちこち買出しや集まりに出かけた。彼女はアルゼンチンの大学で医学部を出たが西洋医学に疑問を持ち、シャーマンのヒーリングなどに興味があって旅を初めた。そのころちょうど島で菜食について考える国際会議があった。彼女は働き口を求めて、一緒に出かけた。 そこではなぜ菜食を働きかけているのか、国や団体によっていろんなアプローチがあった。子供でもわかるような、動物がどうやって食肉に加工されているのか、かなりショックなビデオや動物を殺さないようにと訴えるTシャツが売られていた。この会議に毎年出席しているというインド人も。みんなおしゃべりに夢中で、中にはナターリャのように仕事を探しにきている若い子や雑貨を売る旅行者も混じっていた。日本人らしきグループも見かけたが、そこだけ囲いがあってよそとは違う雰囲気で、研究発表を終えたらさっさといなくなってしまった(ああ、こういうときにどうして自分の思いをほかの人たちと語り合わずに去ってしまうのかしら?)。もっと早く知っていたらナターリャと豆料理クラブのこと、翻訳して紹介できたのにと残念。 帰りには真っ暗になってしまい、早速ナターリャは会議を終えて帰ろうとする車を捕まえては行き先をきく。最初の車がカローナでおろしてくれた最寄のバス停はまったくバスが来ない変なところ。 雨が降り始め、車はなかなかこない。30分以上は待っただろうか、1台の大型トラックが止まった。ナターリャが交渉を始める。「早く乗って!」あー助かった。・・・と思ったらその車はエンジンが止まってしまったのだ。運転手があちこちいじるが車は動かない。再び長いこと車の中で待つ。ナターリャが手伝いに大雨の中外へ出て行った。何度かやってみてようやく発進! 車はのろのろ、長い坂道で何度も止まりそうに。車に声援を送りながら運ちゃんとナターリャは互いにどこからやってきたのか話している。運転手ははるばるチリから資材を運んでいるらしい。私がナターリャに車の修理を聞くと、「アルゼンチンで乗ってた車はいつもおんぼろだったから覚えたわ。」運ちゃんはちょっとした修理屋さんに寄り道した後、なんとうちまで送り届けてくれた。 お金のないナターリャはいきなりレストランに入りこみ客にギターを弾いてお金を稼げないかオーナーにたずねたり、夕暮れのセントロで歌を歌い始めたり、やれることはなんでもやる。日本のテレビで若者がヒッチハイクして旅する『映像』ではなく、現実にそれで生きてこうとしているのだ。「カローナだって仕事もきいてみなければわからないでしょう?」彼女の度胸にはいつも学ばされる。 彼女の相棒、カロリーナがアルゼンチンからやってきてから私たち4人は二手に分かれ、目的地でおち合った。カロリーナ曰く「ブラジルに比べたらアルゼンチンはずっと簡単。南部へ行くほど、誰でも乗せてくれるから、ナターリャと3000キロカローナで旅したの。いつかシャーマンに会いにカナダまで大陸を縦断したい。」。彼女の、車道に出て親指を挙げる姿はウマ・サーマン主演のカローナの映画「even cowgirl gets the blues」に似ている。タイトルは英語とスペイン語の違いでわからなくても、あらすじをいえばやはり知っていて2人のお気に入り。そう、2人は映画に出てくるカウガールのように、レズビアン。 12月、昼間はだんだん暑くて家にいられなくなってくる。陽射しが強くても海辺へ出かけたほうが潮風がそよそよと気持ちいい。遠くまで歩くのは妊婦のマヌエラと私にはお腹が重くて大変、バスはこないとなれば、当然カローナだ。 目的のサンティーニョへ行くのに3度も車を乗り換えた。あと少しのところでなかなか車がつかまらない。席が空いているのに女性のドライバーは知らん顔で通り過ぎる。マヌエラは言う。「ねえ、世間ってどうしてこうなのかしら。決まって乗せてくれるのは男だったり。女性同士がどうしてお互い助け合おうとしないの?」そう、大抵席を譲ってくれるのは異性なのだ。 これは自然農法のワークショップで友達になったドイツ人イヴォがスペインの農園でウーフィングを終え、カローナでフランスに立ち寄ったときも同じことをいっていた。彼は2年間インド・オーロヴィルの有機農場で社会奉仕活動をしたあと、インドやヨーロッパをカローナや自転車で移動しながら農園で働いているのだが、彼の場合、乗せてくれる車は女性のドライバーなのだそう!ハイウェイを走る上流階級は絶対だめ、下の国道のロータリーやガソリンスタンドで待ってると地元のやや古ぼけたような車の運転手が止まってくれるとか・・・。 マヌエラは車を待ちながらこんなことも話す。「バスに乗ってしまえばすむ事かもしれないけれど、ここに助けのいる人が立ってるってことを弱い立場の人が訴える必要性もあると思うの。知らん振りして通り過ぎる人だって気まずい思いして何か考えるじゃない。そうじゃなかったらこの社会はいつまでも変わらないでしょ。カローナはそういう手段だとも思うのよ。」 マヌエラはどうしたらよりよい社会を築いていけるか、小さなことでもいろいろ実行する。大型スーパーの前で手作りの買い物袋を売ろうと女性のネットワークを作ったり。 ナターリャたちもマヌエラもドライバーには「オゥ、アミーゴ」と語りかけ、道中短い時間に自分が何者なのか、何をしたいのか次々におしゃべりする。こうしていろんな社会階級に属する人がお互いを知ろうとすることは大事だと思う。カローナを通して町の人たちが私たちの住んでいるエコヴィレッジのことに興味を持ちまた乗せてくれたり、別な所でまた出会っても次は友達になっている。 彼女たちに限らず、ブラジルではほかの知り合いも年齢を問わず、お金がないときや移動手段がないときはカローナをしていた。他方、車を持つ友人たち、特にティーンエイジャーの子供のいるお母さんたちは席が空いているとき、下校途中の見知らぬ子や夜中パーティで帰りの遅い若者たちをよく拾う。不良だとか非行だとか全然思ってなくて、自分の子供のように心配して家の近くまで送り届ける。日本のように若者が斜に構えているところがないのはこんなおせっかい焼きおばさんたちに愛されて大きくなっていくからなのかも? 車を持つ人が買えない人、もしくは理由があって持たない人にも席が空いているなら乗せるのが当たり前になれば渋滞やガソリン、いろんな無駄が省けるだろう。東京で朝、出勤時間の渋滞の車には運転手以外誰も乗ってない。死にそうになって満員電車に乗ってる小中学生を拾ってあげられないのかな・・・? やっとサンティーニョにたどり着く。広々した真っ白な砂丘がどこまでも続き、強い潮風に吹かれて歩くと砂がキュッキュッと音をたてる。砂でスキーをしてる人も。暑い中、カローナをしてやってきた甲斐があった。お腹の赤ん坊も海に来ると静かに眠ってしまう。お産婆たちは波の音と子宮の中で聞こえる音が似ているという。だからか、生まれた後も赤ん坊と散歩に浜辺を歩くと穏やかになった。 帰りもバスが来ないので再びカローナ。今度は近所の人で、家までまっすぐ運んでくれた。「帰りは一度でうちにたどり着くって念じたからよ」この信念が通じなければ車は止まってくれない。 こんな影響で、私一人でもタオと一緒にバスが来なければポルトガル語が話せなくても普通にカローナで出かけていた。出産の前日まで。産後も。時には警察官の車にお世話になったり、親戚に日系人と結婚した人がいるから気になってたという人に乗せてもらったり、心配した黒人のおじさんは何か困ったことがあったらと自分の連絡先をくれたり・・・アラブ人のホテル経営者はエコビレッジのみんなでプールに遊びにおいでと誘ってくれた。行き先が違っても赤ん坊を心配して保健所へ連れて行ってくれた人も。いろんな人たちが助けてくれ、近所の人はこれがきっかけで仲良くなる。みんなちょっとしたことで動き出す。 ナターリャに「ヒローコ、日本でもカローナしてみたら?」うーん、今の日本でどうかなあ?ナターリャを日本につれて帰って一緒にしたいよ。・・・と思ってたら、フロリパで出会ったオースタラリア人シャクティが「日本は世界一簡単よ!車だらけじゃない!!」彼女は世界各地のコミュニティを旅するうちにタイに住む日本人を通じて日本へ到着。3日後には東京から佐渡島へヒッチハイクで渡ったそう。西洋人だからじゃないの?というと、「ノー!!日本の友達もやってた。大丈夫。」と。日本に帰ったらやってみよう。 |
子育てブラジル流 [2005/12]
| タオの学校の送り迎えに赤ん坊アモを乳母車に乗せて散歩していると女の子が近寄ってきた。「赤ちゃんを抱っこさせて」というのでアモを預けると上手に抱っこして寝かしつけてしまった。静かに赤ん坊を揺らすのに腰がはいっていて、すごいなあとびっくりしたのがニルダとの出会いだった。 それから毎日のようにニルダがうちにやってきた。3人姉妹の真ん中で、たった11歳だというのに赤ちゃんの着替え、お風呂、離乳食、なんでも完璧にこなしてしまう。アモはニルダが大好きで、彼女がやってくると手足をばたつかせてはしゃぐ。「私にはおいっこがいるから」と辞書を使って説明してくれたけれど、本当に赤ん坊が好きなのだ。アモが泣いてて私が間違ったことをしてると「おっぱいじゃない?」「ねむいのよ」と必ず正解をついてくる。 「うちのお母さんに赤ちゃんを見せに行ってもいい?」と今度はニルダのうちへ、そして近所や浜辺を散歩するようになった。学校が終り、うちに帰る日暮れまでの時間をちびっ子グループがビーチを駆け回り、私はニルダと一緒にアモを抱っこしながらそれを眺めていた。役所に書類を出しに行ったり用事があるときにはニルダのご両親にお金を払って半日預かってもらったこともあったが、遅くなってあわてて帰ると、アモはきれいに着替えを済ませ、必ずぐっすりと寝ていたものだった。まるでニルダのうちの子供のように・・・。 「ブラジルで赤ん坊を連れた母親は女王みたいだったわ」というのはケベックのレインボーギャザリングであったヨーロッパの女性。世界50ヶ国以上をレインボー仲間と旅し、ブラジルで子供を生んだ。確かにブラジルの郵便局や銀行、スーパーには赤ん坊連れを優先させるコーナーがあったし、パン屋でも食堂でも誰でもすぐに「赤ちゃんを抱っこさせて」と近寄ってくる。赤ちゃんを通して誰でもすぐに友達になり、衣類や乳母車、お風呂などのお古が瞬く間に集まった。フランスに来てこっちが頼まない限り赤ん坊を抱っこしない状況の中、ブラジルはよかったなあとつくづく感じる。社会全体がみんなで子供を育てているようなところがあるからだ。 最初一人で育児をこなせないとき、アルゼンチンの産婆ヴィヴィアナの娘ミョーレン(13歳)がうちにやってきた。しょっちゅうパーティに出かけては帰りが遅いと親に言われていた子なので、遅いときはうちに泊まっていけばと誘ったところ(家がうちから1時間以上ジャングルに入ったところにある)、アモと遊んでくれるようになった。けれどあとから「ベビーシッターをするから給料がほしい」といわれ考えてしまった。夜遊ぶお金が目的で子供にわざわざきてほしくない。どうしようと迷っていたら、14歳の友人が妊娠してミョーレンはその子の世話につきっきりになり、うちにこなくなった。お母さん同様、妊婦と赤ん坊が大好きなのだ。 そんなことがあってからニルダ一家と出会ったのだが、ニルダだけでなく、妹のジョイスも赤ん坊好き。ニルダのうちに行ったとき、ジョイスがうれしそうにアモの小さくなってあげたたくさんのベビー服を人形に着せ換えしていた。そのとき女の子なら誰でも好きな、人形遊びやお母さんごっこがアモを通じてできるから毎日遊びにくるんだなと思った。「ニルダはお金じゃなくて愛でもって赤ちゃんに奉仕しているのよね」と近所のおばさんたちは微笑む。私のうちだけでなく近所の赤ちゃんたちを行き来しているのだ。生きた経験が小さな女の子たちを輝かせていた。 ブラジルの学校は半日、4時間しかない。タオたちは午後1時に始まり、5時に終わる。前の日に寝るのが遅くなって朝寝坊しても1時なら遅刻せず学校に行ける。たぶん残りの時間外で思い切り遊んだり、やりたいことができるので子供たちはのびのびしている。タオは学校へ行く前に、日本語の本を読んだり地図帳を広げて漢字を調べるのに夢中だった。また学校が終われば海で波や空の観察をしたり、どの虫が危ないかチェックしたりと私の知らない間にいろいろ学んでいた。 ニルダのお母さんは私より3歳年上なのだが、「ヒロコとアモを(ニルダ姉妹と)足して5人姉妹みたいね」と娘が増えたように困ったときにめんどうをみてくれた。お母さんのそういう姿をみて子供たちは自然と赤ん坊の世話をしたり、家の手伝いをするのも当たり前なんだろう。「オーラ!」とうちにきてはニルダ姉妹は怠け者の私の代わりにガス台を磨いたり片づけを手伝ってくれた。さらにはポルトガル語のわからない私と話すために英語を勉強し始めた・・・。 私が塾通いで小さいとき経験しなかったことをブラジルの子達はたくさん知っている。日本の教育制度が男女平等といいながら家庭と社会を切り離し、子供を消費のため盲目的にお金を稼ぐロボットに仕立て上げ、子育てに楽しみが見出せず、少子化をもたらしているような気がする。ブラジルの子供たちのように、例えば日本の中学生くらいの子が受験勉強をやめて近所の赤ん坊の面倒をみたりできるようなチャンスがあったらどんなに楽しいだろう。お母さんも助かるだろうし、その子にとって将来役に立つ、生きていくうえで必要な経験になるはず。 雨の日はほとんどの子が学校を休む。タオが雨の日に学校から帰ってきて「今日は誰もいなかった!」なんていうからびっくりして隣に住んでたマヌエラにきくと当然のごとく、「私も小さいとき雨の日は学校なんか行ったことないわ。たぶん親が子供が風邪をひいたりされて後でやすまれたらもっとめんどうだから、休みにしちゃうのよ」。ええっ?!学校の先生もやれストライキだ、ミーティングだとしょっちゅう休む。 私にとってもっとびっくりだったのがブラジル人は朝食にたっぷりチョコレートケーキを食べる!ということ。決して毎日ではないと思うけど、友人のうちではいつもパンやフルーツのほかに自家製のケーキ(いろんな種類のカステラ)が並んでいた。もちろんニルダのうちも。日本なら「朝からお菓子を食べるなんていけません!」と取り上げられてしまうかもしれないのに、うちに泊まりに来た25歳になるブラジルの女性まで朝砂糖をたっぷりといれたチョコレートドリンクを自ら作って飲んでいた。でもそれで子供たちが元気なら賛成だと私もつられてケーキを焼くようになった。朝食においしいものを食べたら、すすんで仕事や学校に行こうという気持ちになるのかも。 休みたいときには休み、遊びたいときは思いっきり遊ぶ。大人も心に余裕があって日本やヨーロッパでは怒られそうなことを子供がしても(大抵たいしたことじゃないのに)、にこにこして見守っている。ブラジルの子育ては社会の拘束がゆるく、子供たちの自発性を伸ばしているような気がした。 |
トロッカ・トロッカ [2005/11]
| ブラジルで中古の冷蔵庫を買った。エコビレッジに住み始めたころ、隣人のマヌエラに「夏には何でも狂ったように値上がりするから、早く買って!」とせかされ、同居人のアルゼンチン人ナターリャと探しに出かけた。 中古の品を取り扱う店で、その冷蔵庫はたくさんの食料が詰め込まれ使われている最中だった。 「ほら、ちゃんと動いてるから、中身を取り出したら夕方運びに行くよ。」 ところがこの冷蔵庫、中身がすぐに凍りつく冷凍庫だった。苦情を言って返品しようとすると「正しく使ってない」と家へやってきて説明した。 いわれたとおりに使ってみると、何でもすぐに腐ってしまう。2ヶ月の保証期限が切れる前に今度こそ返品しようと電話すると別の冷蔵庫を持ってきた。 「お金は返せないけどほかのと交換するから」 「また壊れてたら嫌よ!」 「そしたらまた交換するから」 「?! 保証期限が切れるでしょ!」 「期限はない。おかしければいつでも、いつまでもトロッカ(交換)するよ!!」 ブラジルはちょっと変わってる。例えば車を買ったらいくら乗っても同じ値段で売り返すことができる。アクセサリー売りが売るべき商品を普段身につけていたり・・・減価償却費を考えていない。 それより最初からポンコツだったりする。新品の扇風機の羽が店内でものすごい音をたてて回ったり、羽のふたは大人の手が入るほど隙間が開いていたり。タイマーなんてないから寝てしまったら朝までそのまま。マヌエラは「蚊が止まらないからいいじゃない」と平気な様子。しかも値段は日本の量販店より高い。 「その服、着ないならもらってってもいい?その代わり何か欲しいものある?」 こんな風にブラジルではトロッカが盛んだ。特に現金収入の少ないフロリアノポリスの島南部では。「昨日お父さんが大漁だったから」と子供たちが魚を持ってくると、こっちは母が送ってきた日本のフリマで集めたぬいぐるみをあげた。日本のアニメやキャラクターグッズが大人気で、20歳過ぎてもキティちゃんを集めてる人もたくさんいるとか。 夏になると今までだらだらしていた人たちがせっせと働きだす。夏に1年分稼ぐ。オフシーズンには1ヶ月の家賃に相当する値段を夏は1泊で得られるから多くの島民が島から出て行き、自分の家を丸ごと貸したり、もしくは誰かとトロッカする。冬には現金が尽きてしまい、今日のヒーリングで魚をもらったとかペンキを塗るかわりにそこのうちで毎日食事をごちそうになるなんてよくきく。貧しいインディオたちを救うための集会はトロッカで運営されていた。 産後、過労で倒れたとき10日くらいアルゼンチン人の一家にお世話になった。そこは長屋みたいな感じで、毎日ひっきりなしに誰かがやってくる。言葉も食べ物も音楽もお互い知らないことに好奇心があって、なんでもトロッカしていた。サンバのあとに沖縄のカチャーシーを踊ったり、インディオの揚げパンを作った油を使って大豆と野菜のかき揚げを揚げる。タオはよく友達と服の交換をしていた。アル中の父ちゃんの子供を預かったり、赤ん坊の世話をしてもらったり・・・このうちには電話があるけど車がない、すると電話のない車を持った人が子供を遊ばせている間に買出しにいこうとさそう。そのかわり遠くへ出かけた家族からの電話をそこで聞く。タオは近所の子供たちと朝から晩まで遊ぶ間にポルトガル語を覚えてしまい、逆に島の子供たちはタオから日本語を習ってしまっていた。家族を超えた、みんな大事なつながりを持った共同社会があった。 地球上でほぼ日本の反対側にあるこの島でぼんやりと浜辺を歩いていた時、トロッカが遠い国と国とでできないものかと考えた。日本は貧しい国に援助をしているというけれど、その債務を払いきれない国・・・例えばブラジルはお金がないからアマゾンの熱帯雨林を日本企業に売り払おうとしている。でも、誰がその値段を決めているのだろう?いろんな国を見て回ればまわるほど、今のお金のやり取りには不平等がつきまとう。パソコンやカメラ、洗濯機など電化製品は日本国内が安いとはいえ、ほぼ世界共通の値段。一方食料品は国によってぜんぜん違う。そしてもちろん収入も。インドの村人の1日の収入が40ルピー(1ルピー=2,9円で116円)、ブラジルの大工さんは50レアル(1レアル=37円で1850円)。チャイやコーヒーがそれぞれの国で1杯1−3ルピー、1−2レアル、1−3ユーロ。大体その国の通貨の1コイン(日本なら100円)が飲み物1杯、トマト1袋といったところか。そして4−50コイン分が1日の最低の収入(もっと少ない人だってたくさんいる)なのに、なんでコカ・コーラが7,5ルピーもするのか?もし缶ジュースが750円もするなら買いたくない。インドでダウリ(結婚持参金)にテレビやビデオが渡せないから結婚できないとか、殺人事件がしばしばおきるが、責任の一端は貧しい人からより大きい割合でお金を吸い上げ、貧富の差を拡大させる多国籍企業にもあるはずだ。 そしてもっと謎なのが衣料品。今の日本やヨーロッパでは量販店で値段がかなり安いのに、ブラジルでコットンのシーツや子供服は大変高価だ。ひょっとすると日本より高いかもしれない。だからか、ブラジルではサッカーユニフォームのような化学繊維の衣類であふれていた。この現象はインドでも見受けられた。ほとんどのインド人が化学繊維のサリー(流行おくれの日本製生地といううわさあり)をまとい、子供たちのTシャツは日本の冬物下着のような素材で暑苦しそうだった。貧乏人しかコットンサリーを着ないという人もいる。確かにコットンサリーはごわごわしていて、化繊のほうが、シルクサリーのようでたたみやすいが、あるお金持ちのインド人が見せてくれたコットンサリーは織りがぜんぜん違っていてとてもしなやか。すばらしい技術があっても良質のコットンは多くが外貨を稼ぐ輸出用なのか?ある在ブラジル日本人が「日本は中国のおかげでコットンが安い」と話していたけれど、経済力のある国では品質のよい衣類が安く大量に手に入る一方、貧しい国には十分ものがまわらない。お金を中心にしたものの分配から少しずつ脱却して物々交換を増やせないだろうか?例えばこれ以上木を切り倒すのをやめて、もっと紙の必要な国にはただで日本のリサイクルできる雑誌やプリンターから出てくる紙を送るとか、お互いに必要なものと余ってるものを交換できたら・・・アマゾンの森林を売らずともブラジルにお金が入るよう、貯蓄や保険にかけてるお金を減らしてたくさんの日本人がブラジルへ旅行するとか。千晶さんが提案するようにリデュース100年計画と並んで私はトロッカを100年かけて盛んにしたい。そういえば日本にいたときこの原稿と引き換えに千晶さんからお豆をいただいていたのだ。お金とものの交換からあらゆるもの同士の交換・・・ブラジルの人たちのような、お金がなくても楽しくやっていけるような、ラテン気質も日本の変な生真面目さと交換したい。 |
| [HOME] | [豆々通信 INDEX] |