豆々通信   [2004年3月号・読み物]


 
山尾三省『びろう葉帽子の下で』(野草社)

いつのまにか鎌は 私のもうひとつの手になった
鎌を持ち野良に立つと
私の内に静かな喜びが流れる
それは多分 初めて道具を使うことを知った 原初の人間の誇りにも通じる
手応えの確かな 奥の深い喜びである
私の鎌は
部厚い背をもったがっしりしたナタ鎌である
この鎌で草も刈れば木の枝も伐り払う
鎌で払えば 道は自然にそこにできている
そこは薮でありながら もう人間の歩むことのできる道である
しかも鎌は あの厄介なガソリンのように 見る見る内に減ってゆくということがない
砥石で丹念に研げば
朝の光のようなさわやかな切れ味となり 常に真新しい
鎌を持って野に立つ時
ニ河白道の真中を渡ってゆく人のような 確かな歩みが私の中にある
鎌を持って野良に立つと
私の内に 人間の 静かな喜びが流れる


乾燥よもぎ粉の使い方

 世界中いたるところに生えるヨモギの仲間は250種もあり、中にはArtemisia dalailamae(学名でダライラマに献名したヨモギ)もあります。葉の裏についている綿毛が灸の原料となるもぐさや草もちのつなぎの役目になります。新井白石がヨモギを広め、それまでは草団子にはハハコグサを使っていたそうです。ヨーロッパではフェンネル同様、アブサンなどリキュールの香り付けにも。イギリスではヨモギの灰と古いサラダ油を混ぜたものを育毛剤にしました。

【乾燥よもぎ粉の使い方】
1.
下準備 よもぎ粉をボールに入れ、たっぷりのお湯をそそぎ5分くらいひたしてからお湯をよく切って料理に使います。
2.
料理に もどしたよもぎを2−5%程度まぜあわせます。草もちやだんご、そば、うどん、パンに、また鶏肉のよもぎ炒め・いかとよもぎの味噌あえ・わかめとよもぎのスープなどもおいしい。
3.
お茶に 1人前よもぎ粉1−2gを目安にお茶用紙パックなどに入れて使います。よもぎだけでは飲みにくい場合は煎茶やほうじ茶によもぎを加えて下さい。
4.
風呂に 1.の残り湯でよもぎ湯を!



豆農家 秋場和弥さんの手記
『自然農法歳時記No.27 2003.12.14』より

秋場和弥さん

 今月お送りする白いんげん豆は、北海道北見の秋場和弥さんが自然農法で作られた銀手亡(ぎんてぼう)と雪手亡(ゆきてぼう)です。手亡というのはまた変わった名前ですが、明治にアメリカから移入された際に半つる性で支柱にする手竹(手)が不要であったことからこの名前がついたと言われています。中でも銀手亡は和菓子につかわれる白小豆(しろあずき)に勝るともおとらない美味しさがありますが、つるが3m以上伸び収穫に機械がつかえないため現在では殆ど栽培されていません(全国で秋場さん他数名の農家が数十町歩作っているだけです)。秋場さんはこの豆を27年間無農薬・無肥料・天日干しの自然栽培で作られてきました(詳しくは下記の秋場さんの〈手記〉をご覧下さい)。
 このようなすばらしい豆と生産者に出会えたことは感謝の一言です。ただ残念ながら収穫量が少ないため、2003年度産・銀手亡の楽天堂への割り当ては終了となりました(来年までお待ち下さい)。その代わりに銀手亡の改良品種である雪手亡を入れてあります。銀手亡にくらべて若干風味が落ちるとはいえ、雪手亡もおいしいお豆です。豆そのものを味わうスープやサラダには銀手亡、ベイクドビーンズなど味つけの濃い料理には雪手亡とお使い分け下さい。
(楽天堂・千晶)

 一年の実りを雪の下にする事なく大切に収穫させて頂きたい一心で、時には朝三時から夜十時までの稼動もあったこの2ヶ月間、お蔭様で事故なく病息なく夫婦元気に外仕事終わらせていただきました。
 しかし引き続いてのJA倉庫に委託選果保管してあるじゃがいも約4000ケース強の仕上げ選果(注1)と発送割り振りメドがつき、本日12/14日曜日JA倉庫も休日のため久々に一息つかせていただいております。         
 朝方はまだマイナス10度程度の冷え込みですが、初冬の陽射しを満面に受けて改めて北国のリンとした空気に和み、一面銀世界の自然に映える太陽の光線が体中にしみわってくる感じでございます。
 27年前財政状況、気候状態、全面積無農薬無肥料を生涯のライフワークとして成就するには不可能に近いハンディキャップも、若さと情熱で無我夢中に年月を重ねるうちにどんな困難に対しても徐々に無感覚となり、不本意ではありますがジリ貧で破綻することも受け入れかかっておりました。
 しかし5年前、3年前に他界された師匠にカツを入れられ改めて白紙の心境で全面積無農薬無肥料の可能性を具現する道を歩み始め、特にこの三年間は師が引き合わせて下さっている如く生産現場・流通現場で次々と感謝の出会いと結びが続き、今本当に本物を求める人達との血の通い合った交流のもとなんとか元気で現状どおりの営みが許されるなら、試験的使用農場として存在し続けられそうなところまでギリギリではありますが経営状況も改善されてまいりました。
 一時のあきらめに似た妙な覚りの時を克服し、感謝と感動の将来が見えてきております。

銀手亡の収穫風景 
photo:Matsuura Tomonori

 本年度技術的には気候面で夜昼の寒暖の差が醸し出す味の良い産物となる一方で、両刃の剣で北国故のハンディキャップをチャンスに変えられる進展が豆類・じやがいも・人参それぞれにありました。
 豆類、特に銀手亡は原種的特性によりいつまでも力強く最後のサヤまで実り続ける事が秋の早霜の影響でサヤ障害をおこし豆全体の品質劣化をもたらす事を回避するために、春の遅霜覚悟であえて早期播種を断行致しました。
 東西南北10km四方の圃場それぞれに播種した中で、最北端の本沢地区の銀手亡1.5ha(4,500坪)が案の定遅霜により全滅してしまいました。
 しかし翌日に播きなおした改良品種の雪手亡が、冷害年に拘わらず豊かな実りとなりました。厳しい気候の中にも何とか新たな活路が見出された次第です。
 次に千葉県富里市で高橋博さんの努力で20年間無農薬無肥料で自家採種(注2)し続けられた馬込系人参フルーティーが、「母球貯蔵成功」、種播種そして本格的生産と、足かけ3年目にして北見の地で初めて日の目を見ました。(中略)           
 又、私が代表を努めるNPO「環境保全型農業を推進する会」副代表の北海道幕別町の折笠秀勝邁さんが、世界中のじゃがいも40数種の育種研究の中から「成長点培養」神話を打ち崩しウイルスを克服して10年無農薬により自家採種固定化し続けている「花しべつ」という品種を、今年度全量生産の7割本格転換し見事に無農薬プラス無肥料の遺伝子を持つハーモニーの世界が、人参フルーティーとともに豆類ばかりでなく根菜類でも実現いたしました。(中略)   
 本当に改めて毎年一年生の純粋で熱烈な情熱で邁進しようと決意を新たにしている年の瀬でございます。一層の御理解を、今後もよろしくお願い致します。

注1 選果:サイズ別に分けること
注2 自家採種:種は一般的に種苗会社などから購入しますが、自分で種をとりその種を植えます。この作業にはとても大きな労力を必要とします。世界的に種の特許はアメリカが殆どとっており、命の源の「種」が牛耳られております。しかも、F1品種といって現在では種取りが出来ない品種がほとんどです。自家採種は私たちの命の源「食」を守る上で欠かせない重要なことなのです!
 また、北海道では例えば人参で種まきから花が咲き種をとるまでに雪が降り不可能です。そこで秋場さんは人参を収穫保存し、翌年に改めて人参を植え付け、種とりに成功しました。2年かけて努力も実り、種がとれたわけです!そして、自家採種で出来た農産物はおいしい!

 〈注〉はサン・スマイルの松浦智紀さんによるものを引用させていただきました。以下はサン・スマイルのホームページからの引用です。

 2001年の初春に埼玉県富士見市の子育ち文化研究所の澤田季里先生の料理教室で埼玉県毛呂山在住 井上様のご紹介で秋場さんと繋がりを頂きました。
 秋場さんは自然農法の中でも究極の肥料無投入の農業を祖父の時代の昭和27年から先駆者として研究、実践され、現在は自然農法の生産者グループ300軒の会長を務めています。
 しかし、H13年秋場農場が40tのじゃがいものキャンセルという事態から経営困難に陥りました。そして農業を廃業しようと考えている秋場さんに、お会いしました。
 J−naos(日本自然食ネットワーク:全国の自然食店の店主!の会)を通しまして、多くの方にじゃがいものお願いをさせて頂いたはこの頃からの事です。その後皆様からたくさんご注文いただいおります。ありがとうございます!
 皆様と一体化し、決して失ってはならない、秋場農場の経営安定を願い、秋場さんの農産物を勧めさせていただきますことに誇りと自信と感謝をもって、一人でも多くの方にこの銀手亡を食べて健康に元気になっていただき、秋場さんにふれて頂き、この輪が大きく広がっていく事を願う思いから、 平成13年約6,000kの銀手亡と900kの黒豆をサン・スマイルで扱わせ頂きます事をお約束いたしまた。
 そして秋場農園の安定(年末一括支払い)、お豆の袋詰め、発送などの条件を考えまして、弊店で収穫物全量の買取り、そして販売を引き受けるお約束をさせていただきました。 
 とはいいましても・・・サン・スマイルは小さな小さな店です。皆様の御支援なしでは、つづけられません・・どうぞご支援、ご指導、ご協力を賜りますことを心よりお願い申し上げます。ありがとうございます!



シリーズ・豆日記 ビーフカレーにご用心
(佐藤浩子)

豆日記

 インドの先端部、ケララのジャングルに、お墓参りに行った。3年前に亡くなったタブラ職人の家にたどり着くや、奥さんが私を抱きしめ、わあっと泣き出した。しばらく2人で泣いた後、奥さんは片言の英語でこの3年がどんなに大変だったか話し出した。建築途中の家の様子、何もかもが、最後に訪れたときのまま、収入が途絶えたことを物語っている。
 夕方になって娘のシャイニーと息子のシャームが隣町からたくさんの買い物を抱えてやってきた。シャイニーは父が亡くなった後、遠いデリーヘ看護婦として出稼ぎに出ていたが体を壊し、ちょうど帰ってきたところだった。
 みんなあまりにやせてしまった。全然食べてない。フランス人のマリオンがタブラを習っていることがせめてもの救いに見えた。何もしてあげられないが、悲しみが紛れるならと住み込みで水汲みから手伝うマリオン。私も料理を教わりたいとしばらく滞在を決めた。
 ダウリ(結婚持参金)が払えないシャイニーはインドの結婚適齢期をとうに過ぎていた。まわりの村人たちから噂されるのが嫌な彼女に代わって毎日市場に豆や野菜を買い物に行き、野菜の名前やケララ特有のスパイスを学んだ。みんなの好きな味噌汁や煮物を作ったり、家族に内緒で遠くに出かけ、彼女の悩みを聞いたりした。
 そろそろ帰る日が近づいたころ、マリオンと一緒にお別れ会をしようかと決めた。みんなに何が食べたいか尋ねると「父さんが大好きだったビーフカレー」という。「えっ、あなたたち、ヒンドゥ教徒じゃないの?!」と驚くマリオン。そう、一家は牛を食べてはいけないはずのヒンドゥのはずだが、亡くなったトーマスは若いころクリスチャンだった。低いカーストの貧しい人たちはよく改宗するせいか、食べ物にうるさくない。特にケララでは幻のビーフカレーが存在する。ついでにインドのデニッシュともいうべきパロタを家で作ろうということに。
 牛肉を買いに久しぶりにシャイニーと市場へ行って驚いた。牛肉屋は魚屋や肉屋の路地、というか建物の向こう側で目のつかないところにあり、普段歩いていながら気がつかなかった。看板などない、掘ったて小屋で牛の胴体が宙吊りになっており、イスラム教徒が大きなナイフで肉を切り分けている。日陰とはいえ、暑さ30度以上ある中、肉は常温で屋外の空気にさらされ、匂いが漂う。一瞬、ネパールでの記憶が脳裏によみがえった。
 長距離バスを降り、歩いて山頂の村に行く途中、遅い昼食をとろうとしたときのこと。水牛のモモ(チベット風ギョウザ)しかなくて、無理に食べさせられた。その後めまいがして関節が動きにくくなり、高い熱が出た。休めるところもなく、必死に3時間かけて山道を歩いた。気温35度以上あるのに冷や汗が出、寒気がする。あとでディディやバイに「外でモモを食べてはいけない」「ちゃんと自分で断りなさい」と叱られた。商売で出してるモモの肉はタライ地方で畑を耕したり、荷物の運搬に使われていたが、病気や老衰で引き取られた水牛だそうだ。
 「ギートゥ、買わないの?」はっとして1キロくらい買った。
 その夜、かつてフットボールのケララ代表でもあった村一番のパロタ名人がやってきてパロタの特訓。パロタはこねて発酵後、何度もテーブルにたたきつけて薄く延ばしたものをスカーフを丸めるようにして焼く。大変手間のかかる食べ物なので普通家庭でやらない、屋台などで買うものだ。
 何十枚とパロタを作り、次にビーフカレー。ココナツをベースに、玉ねぎとたっぷりの唐辛子で煮込む。親戚や近所の人たちが集まってきた。シャームや奥さんたちは大喜びで久しぶりのビーフに目を輝かせていた。トーマスの遺影の前にカレーを置き、思い出話があちこちから飛び出す。みんなで食べるパロタはとってもおいしかったが、ビーフは硬くて、そしてネパールのことを思い出してほんの少ししか食べられなかった。
 翌日胸やけを起こしながら会いにいくとひどい下痢や頭痛を訴えていた。「やっぱり牛肉…」「うーん、そうみたい。みんなどこかしら調子悪いけど、おいしかったよ。これでしばらく食べないしね。父さんも喜んでるはず」と、また普段の質素な食事で十分といった様子。昨日の食事は亡きトーマスのためだったようだ。
 ネパール・インド共に「体を壊しても食べた人の責任」というこの共通認識。流通が複雑で管理された日本では考えられないが、私たちの「安全が当たり前」という警戒心のなさが、何かあったら生産者だけに責任を押し付けることにつながっているのではと気づかされた。このところの鶏肉や牛肉騒ぎ、トーマス一家はどう見るだろうか?

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