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2012/11   16  願いはかなう

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豆料理クラブと〈小さな仕事塾〉のメーリングリストに連載で書いた文章の抜粋です。

■今日は目が疲れていてゆっくり書けないのだけれど、大事なことに気がついたので、アウトラインだけ書いておこうと思います。

20年後、社会はよくなってる気がしたのです。というか、20年あれば、いろんなことがかなう気がした。

たとえば日下部さんの10年後を思い、國政さんの10年後を思い、木田さんの、あるいは岡さんの10年後を思う。そうすると、今とはぜんぜん違うだろうと感じるのです。

というのは、楽天堂が10年間で経験したことがとても大きかったから。10年前は何もなかった。友だちもいなかった。仲間もいなかった。希望も持てなかった。でも、10年の間にほとんどのことが、かなった。

10年あれば、個人レベルではたいていのことが実現してしまう。今、自営業をはじめた人たちは、これからの10年で自分の願いを実現するだろうと思います。

一方、社会は10年経っても、ちっともいい方向に動いているように感じられない。原発がメルトダウンしても、エスタブリッシュメントはまだ目を覚まさない。そもそも、民主主義というのは危うい制度ですね。アメリカ大統領選を見ていても、それを感じます。

結局のところ、「個人が権力に操作されない」賢さを持っていないと、民主主義はまともには機能しない。

これから20年。社会は変わるだろうか。わたしは楽観的な見通しをこのところほとんど持てなかったのですが、今日は少し心境が変わりました。今までとは違う角度で、考えてみたんです。


■話は戻るのですが、個人レベルで夢を実現するにもコツがあって、それは、自分を子ども扱いしないということなんだと、この夏、気がつきました。

「自分は怠け者だから、いろいろ日課を課して、自分を律しよう」、そういう考えは、権力者が子どもを操作するというスタンスと同じです。権力者と子どもの関係を自分の中に採用しているということ。このスタンスでは、夢はほとんど実現しないんです。

自分が自分に対する態度を変えて、自分を信頼すれば、たいていの願いはかなう。自分の意志じゃなく、自分の体(潜在意識)を頼みにする。

これは毎日、練習できるんです。たとえば目覚まし時計なしに起きることで。意志じゃなくて、潜在意識に言っておくんですね。明日は5時に起きよう。わたしはもう何年もめざまし時計なしで暮らしてますが、この方法で寝過ごすことがないんです。

これを練習していたら、同じ要領で、何時までにこれができる、何月までにはこうなるだろう、来年の今頃はこうなってるだろう、とやって、おおよそかなう。

無理ならあっさりあきらめて(意志で無理を通そうとするとうまくいかない)、でも漠然と願いは持ちつづける。そうすると、自然とそうなる。朝、目が覚めるのと同じ要領です。

明日かあさって、また書きますね。昨日も驚くようなことを経験しました。


■毎年このメーリングリストに書いてるんですが、七夕で短冊を書くと、その願いはかなうんだということを紹介してきました。ただし、「〜なりますように」って書くんじゃなくて、「〜なる」と書く。

本当にかなうので、かなっても困らないように、詳しく想像して書く(たとえば、「旅行に行く」と書くだけでなく、具体的にどういう旅行がしたいのか想像して書く)。そして書いたら忘れる。

七夕は1年に1回で、1年という時間の単位で願うわけですが、いつ頃からか、わたしはこれを1日という単位や、月という単位でも、考えるようになってきました。3時間という単位でも。

そして、けっこう、それがかなうということに気がついていたんです。小さいことなんだけど、9時までにこれをしようと決めて、あとは時間を忘れてやっていて、できた!と思って時計を見たら、9時1分だったり。

まあ、一つ一つはつまらないことなんだけれど、「えっ、どんぴしゃやん!願ったことはかなうやん!」と思いながら、遊びみたいな感覚で、やってました。

そして、この日曜に、武奈ヶ岳に登って、こんなことがありました。

わたしは、歩くのが遅くて、登山の時は、いつもみんなの後からついて行きます。朽木栃生というところを9時にスタートして、標高1214メートルの武奈ヶ岳山頂に着いたのが、1時。山を降りはじめたのが、1時半。

この日は、一緒に行った息子(小六)の友だちの誕生日で、夕方誕生日会があるから、どうしても3時46分のバスに乗らなくてはいけなかった(それをのがすと5時半までバスはない)。

けれど、途中トラブルがあり、下山が遅くなりました。わたしは途中の御殿山でも休憩せずずっと歩き続けました。いつもは何度も休憩しながら下りるのですが、時間がなかったので必死。

でも、急勾配の杉林にさしかかる前に見たら、バスの時刻まで45分しかありません。いつもはそこから1時間半かけて下りるんです。

もうダメだと思って、「先にバスに乗って帰って」とはるか前方の夫と息子たちに叫びました。息子は、「お母さん、熊に気をつけてね」と言い残して先に行き、見えなくなりました。

しばらくして、無々々はもしかしたら待っててくれるかもしれない。それじゃあみんなに迷惑かけちゃうなあと思いました。時計を見たら、あと30分。

一瞬、無理と思った。けれど、ふっと、「30分あればたいていのことはできるな」とも思いました。

そして急勾配の坂道を怪我しないように気をつけながらどんどん下りました。最後は泣きながらひょこひょこ走って、もう足が動かないようなかんじだったのですが、平坦な道まで下りた時、自然とダッシュしていました。

バス停に向かって走ったけれど、夫も子どもたちもいない。もうダメなのかと思い、時計を見たら、3時45分。あと、1分だ。

バス停が見える角まで行くと、バスが動き始めていました。飛び乗って、わたしの後でドアが閉まり、バスは出発。

子どもたちは拍手で迎えてくれて、無々々も「奇跡だ!」と思ったそうです。あと30分はかかるだろうと思って諦めてバスに乗って窓の外を見ていたら、発車の時にわたしの姿が見え、運転手さんに「待ってください」と言ったんだそうです。

わたしもびっくりしました。奇跡だ!と思いました。1200メートルの山を2時間かけて降りていって、3時46分ぴったしにバス停に着くなんて。いつもやってる遊び感覚のゲームが、こんなところで役に立つんだ。

とにかく30分あればいろんなことが実現するんだなあと思いました。

そう思って周りを見ると、たとえば日下部さんも2年前には思いもよらないような仲間と場を作っていて、木田さんも1年前には影も形もなかった店を実現していて、國政さんも半年前にはまだ漠然としか考えていなかった店を持っている。既に、です。

大月さんや水田さんが、篠山と綾部で5年くらいの間に実現しためざましい変化も見ました。

これから5年あれば、みなさん、おおかた自分の願ったことを実現させてるだろうし、10年たてば、その実現化は、周りの人に波及してるだろうと思いました。

じゃあ、20年では。30分でもあれだけのことができるなら、20年あれば、かなりのことが実現するんじゃないかなと思ったのです。

これまでの10年という時間、39歳から49歳までの自分は、まだまだすごく未熟だった。なのに、たくさんの奇跡が起こった。

わたしは、この夏、はじめて大人になったという実感がありました。何が大人かということについては、また改めて書くけれど、とにかく人生これからだなと思ったのです。50歳から70歳まで、一番いい仕事ができるんじゃないかなあと。

そして、わたしは日本社会で民主主義が健全に機能することを願ってる。そのためには、個人が自立することが大事だと思ってる。権力に操作されないことが大事だと思ってる。

日々している小さな仕事は、そこにつながるだろう。20年間、そのことを大事に仕事しよう。そうすれば、今は無理と思ってる社会的な願いが、少しは実現してるんじゃないだろうか。そう思えたんです。

また、続きを書きます。別の角度から。

そうそう、バスに乗り込んで椅子に倒れ込んだわたしは、24時間テレビのマラソンランナーみたいに、涙してました。子どもたちに拍手されながら。

息子の友だちの一人が、「すごい開放感ですか?」って聞いてきたので、吹き出してしまった。一呼吸おいて「そう!」と答えて、さらに笑えました。


■何を脳天気なことを書いているんだという気持ちがしないわけではないです。

福島の事態は何も変わらず、子どもたちは被曝のリスクを抱えて暮らし、そんな日本で原発が再稼働されて動いてるということを考えると、暗澹たる気持ちがします。

そういえば、震災以来、明るい気持ちになる度に、明るい気持ちになっていていいのだろうかと、自分を疑う気持ちがどこかで湧きます。わたしは健忘症なの?

でも、ダライ・ラマが書いていた――「一つの希望がついえたからと言って、絶望することはない。人間にはたくさんの希望があって、他の希望はついえてはいないのだから」。

明るい気持ちで暮らしている自分のことを健忘症であるのかと疑うことはやめて、他のついえてない希望を育てているのだと、考えようと思います。


■今日は、近所のパン屋さん「落花生」の佐々木さんがお豆を買いに来て下さいました。あんパン用の赤レンズ豆です。わたしは今週のパンと一緒にシュトーレンを予約しました。

それから、今日は亀岡の「ベジボート」大江さんがお野菜を配達してくれました。今の時期、人参の葉っぱがおいしくて、わたしは柔らかいところをさっと茹でて、塩麹とビネガーで和えるのが楽しみです。

自分より若い世代の人たちが、いい仕事をしてるのを見るのは、なんて頼もしいんだろう。そして、その若い人たちが、うちで豆を買ってくれ、豆料理クラブの会員でいてくれるなんて、ほんとうにしあわせです。

大江さんの野菜を「ロカンダきだや」で使っているので、大江さんと木田さんの話になりました。

「そうそう、木田さんは先月ついに売上目標を達成したみたいですよ」とわたしが言うと、大江さんはまるで自分のことのように喜ぶ。その大江さんの笑顔を見てると、世の中が順調に運んでいるように感じるのです。


■一方で、夕飯の後、テレビのスイッチをつければ、流れてくるニュースに何一ついいことはないのだけれども。

どちらも現実なんですよね。


■最後に今回一番書きたかったことを書きます。とはいえ、もしかしたら皆さんもう既にご存知のことかもしれない。

わたしは、気がついたのです。自分に厳しい人は、自分を子ども扱いしているのだということに。自分を管理しなければならない子どものようにみなしている。

でも、子どもの生命を抑えつけることができないのと同じで、自分の生命だって抑えつけることはできない。だから、自分に厳しい人は、願ったことがかなわない。抑えようとすればするほど、生命力が反発して、思い通りに行かなくなる。

ああ、眠たくなってしまいました。生命力の命じるところに任せて、今日は眠ろう。みなさん、おやすみなさい。しりきれとんぼになって、すみません。


■7時に店を閉め、しょうが紅茶で、ほっとしているところです。

今日は、スパイス料理キットの新作を準備しました。「チャイ」と「ジンジャーシロップ」です。楽天堂のスパイスを詰めあわせ、オリジナルのレシピを作りました。こういうのがあったらいいなと思うものが、形になっていく、、、。

さて、一昨日からのつづきです。

〈小さな仕事塾〉」をはじめてみて、願ったことは実現するというわたしの実感をみんなとどうシェアするか、考えるようになりました。

気がついたことの一つは、数字に対してのイメージが、人によってすごく違うんだということ。

多くの人が、数字というのを自分をしばるものととらえてる。数字について考えなきゃいけないと、「お金のことはあまり考えないで仕事したい」とか、「いついつまでにやらなくちゃいけないということはない」という話になってしまう。

たしかにたしかに、数字を努力目標として考えると、うんざりしますよね。自分に厳しく、むちうつために数字を使う。たぶん、これまで、そういうしんどい数字を与えられ(あるいは自分に課し)、数字にこき使われ、管理された経験があるから、そうなっちゃうんだと思う。

でも、自分のお店をはじめた木田さんを見ていても思うけれども、どんどん数字に対してのイメージが変わっていくんですよね(『らくてん通信』最新号の中の文章には、数字がたくさん出てきていました)。

わたしも、たいてい、アイデアや願いごとに数字がくっついています。最初に豆料理クラブを思いついた時、「豆料理クラブ」というネーミングと、1ヶ月3150円という数字がセットになって、思い浮かびました。3150円の豆料理セットを買ってくれる人が150人いれば食べていける。

数字は、管理するための手段だけじゃないんです。なんていうか、数字はビジョンなんです。こうなったら都合がいいな〜、こうなったらハッピーだなあ、という具体的なビジョン。

自分の家の貯金残高を見て、そこから割り出すと、あと何ヶ月以内でこのくらいの売り上げがとれれば自分はもう苦しまなくてもすむ、というイメージ。そして、いいイメージさえ持てれば、あとは実現していくんです。

翌朝6時に起きるとイメージして寝ます。寝てる間に努力なんてしない。でも6時になれば目が覚める。それと似た感じかも。

数字がないイメージは実現しにくい(「スパイス料理キットの新作を作る」という願いは実現しないけれど、「11月にスパイス料理キット新作を二つ作る」という風に願うと、自然とそうなっていきます)。

また、数字だけのイメージも実現しないみたいです(たとえば100万円貯金するという願いは実現しないけれど、100万円使って何がしたいのかがはっきりしていれば、したいことの方は実現していく)。

どうしてだろう?

ともかく、経営というのは、数字をふくむ明るいビジョンなんだと、今では考えます。経営者というのは数字を明るくとらえる人。もし雇われ根性というのがあるとしたら、それは、数字にうらみがましい気持ちを持つことかもしれない。お金であれ期日であれ、しばられて生きていること。

そして、自営業者は、経営者なんです。数字でしばられる人ではなく、数字で夢を語る人なんです。

この項つづく。